第三十四話
日が傾き、空が茜色に染まる頃。
私たちはヴィラに戻ってきた。
一日中、太陽の下でだらだらと過ごしたせいで、身体が心地よい気だるさに包まれている。
「……痛いです」
アイリスが、自分の肩をさすりながら眉を寄せた。
鏡に映る彼女の肌は、あの病的な白さから、ほんのりとした桜色……いや、軽い赤色に変わっていた。
「あらあら。やっぱり焼きすぎたかしら」
セシリア様は、冷蔵庫から冷えたアロエジェルを取り出し、アイリスの肩にたっぷりと塗った。
「ひゃうっ……! つ、冷たいです……!」
「我慢しなさい。
これが『バカンスの勲章』よ。
白衣や制服で守られていた肌が、初めて外の世界を知った証拠」
セシリア様の指が、赤くなった肌を優しく滑る。
その光景は、まるで怪我をした小動物を手当てする飼い主そのものだ。
一通り処置が終わると、アイリスは無意識に、床に畳んで置いてあった「いつもの服」に手を伸ばした。
フレデリック殿下から支給されていた、あの飾り気のない黒いメイド服だ。
「……待ちなさい」
セシリア様の鋭い声が飛んだ。
「え?」
「その布切れは捨てなさい。
私のペットが、そんな陰気なボロ布を纏うなんて許さないわ」
「で、ですが……これ以外の衣類は支給されておらず……」
アイリスが困惑して、ボロ布(高性能な制服らしいが)を抱きしめる。
「だから、着せ替えの時間よ」
セシリア様は、部屋の奥にある巨大なウォークインクローゼットを指差した。
「開けなさい、一号ちゃん。
あの子に『ふさわしい服』を選んであげて」
私(一号ちゃん)は、ニヤリと笑って立ち上がった。
来た。この時間が。
かつて私も洗礼を受けた、セシリア様の無限の衣装部屋だ。
◇
クローゼットの中は、宝石箱をひっくり返したような世界だった。
シルク、レース、シフォン。
実用性など欠片もない、ただ「可愛く」「美しく」あるためだけの布たちが並んでいる。
「うわぁ……」
アイリスが口をポカンと開けて立ち尽くしていた。
「機能性が……皆無です。
ポケットがない。関節の可動域が制限される。
防汚加工もなされていない……」
「うるさいわね、元・効率厨」
私はハンガーから一着のドレスを抜き取った。
「いい? アイリス。
貴女はもう戦わなくていいし、掃除もしなくていいの。
ただ『そこにいて可愛い』のが仕事なの」
私が選んだのは、淡いミントグリーンのサマードレスだ。
肩紐は細く、背中が大胆に開いている。
スカートはふんわりと広がり、歩くたびに揺れるデザインだ。
「ほら、着てみて」
有無を言わさず押し付ける。
アイリスはおずおずとメイド服を置き、その薄い布切れに袖を通した。
……数分後。
「……落ち着きません」
姿見の前で、アイリスはもじもじと身を捩っていた。
似合う。悔しいほどに。
黒髪のボブカットに、淡いグリーンがよく映える。
露出した背中の日焼け跡が、なんとも言えない生々しさを醸し出している。
「防御力がゼロです。
これでは、敵襲があった際に……」
「敵なんて来ないわよ」
背後から、セシリア様が現れた。
彼女は満足そうに頷き、アイリスの首元に、大きな白いリボンを結んだ。
「完成ね。
これこそ『非効率の極み』。
誰かの助けがないと背中のファスナーも上げられない、愛されるためだけの服よ」
セシリア様は、アイリスの腰に手を回し、自分の方へ引き寄せた。
鏡の中で、派手な美女と、清楚な美少女が重なる。
「どう? 鏡の中の自分は」
「……変です。
自分じゃないみたいで……」
アイリスは頬を赤らめ、自分のスカートの裾をぎゅっと握った。
「心拍数が上昇しています。
この服を着ていると……なんだか、自分が『女の子』になったような誤認が発生して……」
「誤認じゃないわ」
私は横から口を挟んだ。
先輩として、最後の一押しをしてあげる。
「それが本当の貴女だよ、アイリス。
メイドの『七番』はもう死んだの。
そこにいるのは、ただの可愛い女の子」
私の言葉に、アイリスがハッとしてこちらを見た。
瞳が揺れ、やがてじわりと潤んでいく。
「……女の子」
彼女は噛み締めるように呟いた。
そして、鏡に向かって、ぎこちなく、練習するように微笑んでみた。
「……悪く、ない……かも、しれません」
その笑顔はまだ引きつっていたけれど。
能面だった頃より、ずっと魅力的だった。
「ふふ。さてと」
セシリア様は手を叩いた。
「可愛いお人形も完成したことだし。
今夜はパーティーにしましょうか。
ドレスコードは、もちろん『一番可愛い服』よ」
こうして、アイリスの「脱皮」は完了した。
固い殻(制服)を脱ぎ捨てた彼女は、もう元には戻れない。
私たちは夜更けまで、意味のないお喋りと、甘いお酒と、ファッションショーに興じた。
フレデリック殿下が知ったら、「時間の浪費だ」と卒倒するような、最高に無駄で贅沢な夜だった。




