第三十三話
翌朝。
目覚めると、アイリスはすでにベッドにいなかった。
嫌な予感がしてリビングに行くと、案の定、彼女はそこにいた。
セシリア様の脱ぎ捨てたガウンを、軍隊のような手際で畳み、テーブルの上のグラスをミリ単位で整列させている。
「……何してるの、アイリス」
私が声をかけると、彼女はビシッ!と背筋を伸ばして振り返った。
「おはようございます、先輩ペット(仮)。
現在、環境整備フェーズを実行中です。
清掃進捗率、35%。
朝食の準備に取り掛かる前に、リネン類の交換を……」
「ストップ」
私は彼女の手から、ピシッと畳まれたタオルを奪い取った。
「あのね、アイリス。
貴女はもう『メイド』じゃないの。
ここのルール、覚えてる?」
彼女は小首を傾げた。
まだ眠そうな瞳が、少しだけあどけない。
「ルール……。『セシリア様のペットになること』です」
「そう。
ペットは掃除しない。洗濯もしない。
ただ、可愛く遊んで、食べて、寝るのが仕事なの」
私は、先輩風を吹かせて言った。
昨夜のセシリア様の言葉――「貴女は私が選んだ作品」――が、私に自信(という名の優越感)を与えてくれていた。
「でも……何も生産しないと、回路が不安になります。
アイドリング状態が続くと、オーバーヒートしそうで……」
アイリスは落ち着かなげに指先を弄っている。
長年の「社畜(公務員)」の習性は、そう簡単には抜けないらしい。
(気持ちは痛いほど分かるけどね)
「じゃあ、私が『仕事』を与えてあげる」
私はニヤリと笑った。
「ついてきて。
『何もしない』をする練習よ」
◇
私たちは、もっとも日当たりの良いデッキチェアに移動した。
アイリスの格好は、セシリア様のお古のビキニだ。
サイズが少し大きいのか、胸元が危なっかしい。
そして何より――白い。
彼女の肌は、太陽を知らない深海魚のように白かった。
腕や脚には、うっすらと日焼けの跡(恐らく、以前着ていた全身スーツの跡)があるが、それ以外は透けるような白磁色だ。
「うぅ……眩しいです。
紫外線量が許容値を越えています。皮膚ダメージが……」
アイリスは手で顔を覆い、小さくなっている。
「だから、これを塗るの」
私が取り出したのは、ココナッツの甘い香りがするサンオイルだ。
「うつ伏せになって」
「こ、こうですか?」
彼女は、気をつけの姿勢のまま、バタン!と硬直してデッキチェアに倒れ込んだ。
死体みたいだ。
全然リラックスしていない。
「力抜いて。
……失礼しまーす」
私は、オイルを手に取り、彼女の背中に触れた。
ひやり、と冷たい肌。
筋肉が緊張で強張っている。
「……っ!」
アイリスが短く息を吸った。
「くすぐったい?」
「いえ……背後を取られることに、警戒アラートが……」
「敵じゃないってば」
私はオイルを塗り広げた。
肩甲骨のくぼみ。背骨のライン。
そして、少し肉付きの良い腰回り。
殿下の元で酷使されていたせいか、身体つきは引き締まっているけれど、触れると驚くほど柔らかい。
「……ふぅ……ん」
アイリスの喉から、甘い声が漏れた。
オイルの滑らかな感触と、太陽の熱。
強張っていた筋肉が、少しずつほどけていく。
「どう?
『何もしない』のは、怖いこと?」
私が尋ねると、彼女は枕に顔を埋めたまま、小さく首を振った。
「……怖く、ないです。
ただ……溶けそうです。
思考が……まとまらない……」
「それでいいの。
それが『バカンス』だよ」
私は、彼女の太ももの裏側にもオイルを塗った。
そこは特に白くて、柔らかくて。
触れている私の方が、なんだかドキドキしてくる。
(……これが、セシリア様が感じていた『育成』の楽しさか)
真っ白なキャンバスに、色を塗っていくような背徳感。
この堅物な元・侍女が、これからどんな風に乱れていくのか。
……ちょっとだけ、楽しみになってしまった。
「あら。いい手つきじゃない」
頭上から声が降ってきた。
サングラスをかけたセシリア様が、冷たいトロピカルジュースを持って見下ろしている。
「先輩の威厳、たっぷりね?」
「……冷やかさないでください」
「ふふ。合格よ」
セシリア様は、テカリと光るアイリスの背中を、サングラス越しに満足そうに眺めた。
「よく焼けそうね。
こんがりとした小麦色になったら、もっと美味しくなるわ」
彼女は屈み込み、アイリスの耳元で囁いた。
「気持ちいいでしょう?
私の『一番のお気に入り』に世話を焼いてもらえるなんて、光栄に思いなさい」
「……は、はい。
マスター……」
アイリスは、とろんとした目で私たちを見上げた。
その顔は、もう完全に「堕ちて」いた。
「効率」も「任務」もどうでもよくなった、ただの無防備な少女の顔。
「よし。
じゃあ、次はアイリスが私の背中に塗って」
私は自分の背中を差し出した。
先輩風を吹かせつつ、ちゃっかり自分も気持ちよくなろうという魂胆だ。
「了解しました、先輩。
任務……『塗り塗り』を開始します」
アイリスは真剣な顔で、ヌルヌルの手で私に触れてきた。
その手つきはまだ不器用で、くすぐったくて。
青い空の下、私たちはクスクスと笑い合った。
遠くの岬で、フレデリック殿下が一人寂しくプロテインを飲んでいる姿を想像すると、余計にこの「無駄な時間」が愛おしく感じられた。




