第三十二話
お風呂上がり。
部屋には、甘いパウダーの香りが充満していた。
私はベッドの端に座り、タオルで自分の髪を拭きながら、目の前の光景をぼんやりと眺めていた。
「じっとしてて。
髪が傷むわよ」
ドレッサーの前。
セシリア様が、アイリスの濡れた黒髪を、丁寧にドライヤーで乾かしている。
その手つきは、いつになく優しい。
「……ふわぁ」
アイリスは、気持ちよさそうに目を細めていた。
湯上がりで頬を桜色に染め、新しいネグリジェ(セシリア様の見立てだ)に身を包んだ彼女は、悔しいけれど……可愛い。
壊れかけた人形が、息を吹き返したような儚さがある。
守ってあげたくなるような、危うさがある。
(……いいなぁ)
胸の奥で、黒くて冷たい感情がチクリと刺した。
つい昨日までは、あの椅子に座っていたのは私だった。
セシリア様の指が髪を梳く感触も、耳元で囁かれる甘い言葉も、全部、私だけのものだったのに。
『二匹目のペット』。
その言葉の響きが、今更になって重くのしかかる。
私は「先住者」だ。
でも、アイリスは「元・王宮のエリート」で、しかも「悲劇のヒロイン」みたいな属性まで持っている。
それに比べて、私はただの「疲れた元OL」。
(……飽きられちゃったり、するのかな)
新しいおもちゃの方が、新鮮で、反応も面白くて。
私のことは「古株」として、部屋の隅に追いやられていく……。
そんなネガティブな妄想が膨らみかけた時。
「――はい、終わり」
ドライヤーの音が止んだ。
アイリスは、こっくりこっくりと船を漕ぎ始めている。
「あらあら。電池切れね」
セシリア様は苦笑し、アイリスを抱き上げると、キングサイズのベッドの真ん中に転がした。
アイリスは「むにゃ……マスター……」と呟き、すぐに深い寝息を立て始めた。
ベッドの真ん中。
そこは、私がいつもセシリア様と絡み合っていた場所だ。
「……ふぅ」
私はわざとらしく大きなため息をつき、本を手に取って視線を逸らした。
見たくない。
これ以上、自分が惨めになる前に、さっさと寝てしまおう。
私はベッドの端っこ、アイリスを挟んで反対側に潜り込もうとした。
「……どこへ行く気?」
背後から、手首を掴まれた。
冷やりとしたセシリア様の手だ。
「どこって……寝るんです。
今日は三人ですし、私は端っこで……」
「こっちを向きなさい」
強い力で引かれた。
私はよろけて、セシリア様の胸に背中から抱きすくめられる形になった。
「……何ですか」
「不細工な顔」
セシリア様は、私の耳元でくすりと笑った。
「眉間にシワが寄ってるわよ。
せっかくの可愛い顔が台無し」
「放っておいてください。
どうせ私は、可愛げのない古株ですから」
ああ、ダメだ。
口を開けば、可愛くない嫌味ばかりが出てくる。
こんなの、面倒くさい女そのものだ。
でも、止まらない。
「アイリスは可愛いですよね。
若くて、純粋で、放っておけなくて。
……私なんかより、ずっと『ペット』らしいじゃないですか」
言ってしまった。
自己嫌悪で泣きそうになる。
沈黙が落ちた。
怒られるか、呆れられるか。
そう思って身を縮めた、次の瞬間。
ちゅっ。
首筋に、熱いリップ音が落ちた。
「……ばかねえ」
セシリア様の声は、蕩けるように甘かった。
「嫉妬?」
「……ち、違います」
「嘘つき。心臓、こんなにうるさいじゃない」
彼女の手が、私のパジャマの中に滑り込み、直接心臓の上を撫でた。
「あのね、勘違いしないで。
あの子は『拾った猫』よ。
可哀想だから、洗って、餌をあげて、温めてあげただけ」
彼女は私の耳を甘噛みした。
「でも、貴女は違う」
「……何が、違うんですか」
「貴女は、私が『選んだ』のよ」
その言葉に、心臓が跳ねた。
「壊れてもいない、可哀想でもない。
ただ、私が欲しくて、私の手で堕として、私色に染め上げた……。
貴女は、私の『作品』なの」
セシリア様は私を強く抱きしめ、アイリスに聞こえないように囁いた。
「新しいおもちゃも可愛いけれど。
使い込んで、私の形に馴染んだ身体の方が……ずっとそそるわ」
彼女の手が、いやらしく下腹部へと這う。
私はぞくりと震えた。
「わかりましたか?
私の、嫉妬深い一番さん」
「……はい」
「いいお返事。
じゃあ、証明してあげる」
彼女は私を押し倒した。
隣ではアイリスがすやすやと眠っている。
そのすぐ横で、息を潜めて、声を殺して……。
その夜のセシリア様は、いつもより執拗で、そして酷く優しかった。
アイリスという「異物」が混ざったことで、私たちの関係は、より濃密で、逃れられないものになってしまったようだった。




