第三十一話
陽が落ち、夜が来た。
フレデリック殿下から「廃棄処分」を言い渡された、あの朝から一日が過ぎていた。
広すぎるバスルーム。
猫足のバスタブには、バラの香りがする泡が溢れんばかりに満たされている。
「……あ」
アイリスは、バスタブの縁に座らされていた。
一糸纏わぬ姿。
湯気の中で、彼女の白い肌は、まるで迷子の子供のように頼りなく見えた。
「じっとしてて。
新しい飼い主が、綺麗にしてあげるから」
セシリア様は、自らも薄いガウンを脱ぎ捨て、アイリスの背後に回った。
豊かな胸が、アイリスの薄い背中に押し当てられる。
「殿下は貴女を『洗浄』すると言ったわね。
でも、あの男の洗浄は、貴女を漂白して真っ白に戻すこと」
セシリア様は、スポンジにたっぷりと泡を含ませた。
「私の洗浄は違うわ。
貴女に、私の匂いを染み込ませることよ」
じゅわっ。
温かい泡が、アイリスの肩から背中へと滑り落ちる。
「……っ、う……」
アイリスが小さく身体を跳ねさせた。
「くすぐったい?」
「い、いえ……。
誰かに身体を洗われるなど……乳幼児期以来の経験で……」
彼女の声は震えていた。
機能的で、自分ですべてを完結させてきた彼女にとって、この「世話を焼かれる」という行為は、未知の領域なのだ。
セシリア様の指が、泡越しにアイリスの肌を滑る。
背骨のラインをなぞり、脇腹をくすぐり、敏感な首筋を丹念に磨いていく。
「力、抜いて。
貴女はもう、何も考えなくていいの」
セシリア様は囁きながら、アイリスの黒髪をすくい上げた。
「硬い髪ね。
ずっとキツく結んでいたから、癖がついている」
シャワーの湯が、頭上から降り注ぐ。
お湯と共に、アイリスの緊張も少しずつ溶け出していくようだった。
「……マスター(仮)」
「『仮』はいらないわ」
「……セシリア、様」
アイリスは、濡れた前髪の隙間から、ぼんやりと天井を見上げた。
「私は……壊れたまま、ここにいていいのでしょうか」
「もちろんよ。
完璧な機械なんて、つまらないだけ」
セシリア様はシャンプーを泡立て、アイリスの頭皮をマッサージするように指を動かした。
「傷があって、ムラがあって、時々暴走する。
そういう『ポンコツ』の方が、可愛がりがいがあるでしょう?」
その言葉に、アイリスの瞳が揺れた。
彼女はずっと「完璧」を目指してきた。
けれど、今、肯定されているのは「不完全」な自分だ。
「……変な、感じです」
アイリスは自分の胸に手を当てた。
「回路が……緩んでいくような。
エラーログだらけなのに、システムが……安定しています」
「それが『安心』よ」
洗い終わった身体を、セシリア様がバスタブの中に引きずり込んだ。
ちゃぷん、と湯が跳ねる。
二人は向き合う形で、狭い浴槽に浸かった。
蒸気で火照ったアイリスの顔は、もう能面のような無表情ではない。
「さあ、こっちへおいで」
セシリア様が両手を広げる。
アイリスはおずおずと、けれど吸い寄せられるように、その腕の中へと身を預けた。
ぎゅっ。
肌と肌が密着する。
お湯の温かさと、体温の温かさが混ざり合う。
私は、湯気で曇った鏡越しにその光景を見ていた。
(……完全に、餌付け完了だ)
アイリスは目を閉じ、セシリア様の肩に頬を擦り付けている。
その姿は、雨に濡れた捨て猫が、ようやく暖かい暖炉を見つけた時のようだった。
「これからは、私のために暴走しなさい。
私の可愛い、二匹目のペットちゃん」
セシリア様のキスが、アイリスの濡れた額に落とされた。
それは所有の印であり、甘い契約の証だった。
アイリスの唇から、ふぅ、と長い安堵の息が漏れた。
その夜、彼女は生まれて初めて「業務報告書」を書かずに眠りにつくことになる。




