第三十話
チュン、チュン……。
小鳥のさえずりが、リゾートの朝を告げていた。
カーテンの隙間から、強烈な陽光が差し込んでいる。
「……ハッ!?」
アイリスが、バネ仕掛けのように跳ね起きた。
彼女はキョロキョロと周囲を見渡し、壁に掛かった時計を見て凍りついた。
「く、九時……三十分……?」
彼女の顔から、血の気が引いていく。
「起床予定時刻を、三時間半超過。
朝の体操、ニュースチェック、殿下のコーヒー抽出……全てのタスクが未実行……!」
彼女は震える手で自分の身体を触った。
着ているのは、昨日セシリア様から借りた、ぶかぶかのYシャツ一枚。
下着すら着けていない、あまりにも無防備な格好だ。
「し、処分されます。
廃棄処分です。私は……ポンコツです……」
彼女がパニックで過呼吸になりかけた時。
「――うるさいわね」
隣で眠っていたセシリア様が、不機嫌そうに片目を開けた。
「せっかく気持ちよく二度寝してたのに。
まだ朝の九時でしょう?」
「ま、まだ!?
公務員にとっての九時は、貴族にとっての深夜に匹敵します!
私は戻らなければ……!」
アイリスがベッドから飛び降りようとする。
しかし、セシリア様は長い脚を伸ばし、アイリスの腰に絡みつかせた。
「行かせないわよ」
「マスター(仮)!?」
「朝ごはん、まだでしょう?
働きアリに戻る前に、燃料を入れなさい」
◇
十分後。
テラスのテーブルには、昨日以上の「暴力」が並べられていた。
焼きたてのパンケーキタワー。
その上には、雪崩のような生クリームと、黄金色のメイプルシロップがたっぷりと掛かっている。
横には、カリカリに焼いたベーコンと、半熟のスクランブルエッグ。
甘い匂いと、しょっぱい匂いのハルモニア。
「……これは」
アイリスがゴクリと喉を鳴らした。
昨日の「肉の味」を覚えた彼女の胃袋が、即座に反応してキュルルと鳴く。
「座りなさい」
セシリア様の命令で、彼女は椅子に座らされた。
Yシャツの裾から覗く太ももが、海風に晒されてスースーするらしい。彼女は恥ずかしそうに膝を擦り合わせている。
「殿下は仰いました。
砂糖は脳を腐らせる麻薬だと」
「正解ね」
セシリア様は、アイリスの目の前でパンケーキを切り分け、シロップをさらに追い掛けした。
「だから最高なのよ。
さあ、口を開けて」
アイリスは抵抗しようとした。
けれど、昨夜の「キスの未遂」の記憶と、目の前の甘い香りが、彼女の論理回路をショートさせていた。
パクッ。
一口食べた瞬間、彼女の瞳孔が開いた。
「……あま」
ふわふわの生地。濃厚なクリーム。
脳髄に直接届く糖分の快楽。
「しょっぱいベーコンも一緒に食べると、もっと頭がおかしくなるわよ」
言われるがままに、ベーコンを口に放り込まれる。
甘じょっぱい無限ループ。
アイリスの手から、フォークがカランと落ちた。
「……計算、できません。
幸福係数が……オーバーフローして……」
彼女が恍惚の表情でとろけていた、その時だ。
「――何をしている、七番」
テラスの入り口に、冷徹な影が立った。
フレデリック殿下だ。
今日は完璧な乗馬服に身を包み、手には革鞭(乗馬用)を持っている。
空気の温度が、一気に氷点下まで下がった。
「マ、マスター……!」
アイリスが椅子から転げ落ちるように立ち上がり、直立不動の姿勢を取ろうとする。
しかし、口の周りはクリームだらけ。
着ているのは男物のシャツ一枚。
そして何より、その瞳は「幸福」で潤んでしまっている。
「探したぞ。
三時間半の遅刻だ。これによる経済損失は計り知れない」
殿下は、汚れた物を見る目でアイリスを見下ろした。
「なんだその格好は。
だらしないシャツ。ふやけた顔。
……まるで、安っぽい娼婦だな」
アイリスの肩がビクリと跳ねた。
その言葉は、ナイフのように彼女の自尊心を切り裂いたようだった。
彼女は俯き、震え出した。
「も、申し訳……ありま……」
「戻れ。
直ちに洗浄し、再教育を行う。
お前の歪んだ回路を、一から焼き直してやる」
殿下が手を伸ばした、その瞬間。
バシャッ!
殿下の顔に、冷たい液体がぶちまけられた。
アイリスの手には、空になったグラスが握られていた。
中に入っていたのは、氷たっぷりのオレンジジュースだ。
「……あ」
アイリス自身が、信じられないという顔で自分の手を見ていた。
殿下は、顔から滴るオレンジ色の液体を拭いもせず、凍りついたように静止している。
「……何をしたか、分かっているのか?」
低い、地獄の底から響くような声。
アイリスはガタガタと震え、後ずさった。
違う。やろうとしたわけじゃない。
ただ、身体が勝手に……「戻りたくない」と拒絶反応を起こしたのだ。
「……い、嫌です」
蚊の鳴くような声。
けれど、それは彼女が初めて自分の意思で発した言葉だった。
「洗浄も、再教育も、嫌です。
私は……まだ、パンケーキを……全部食べていません」
沈黙。
波の音だけが響く。
次の瞬間、空気が割れた。
「……ふっ、あはははは!」
セシリア様が、腹を抱えて爆笑したのだ。
「聞いた? フレデリック。
貴方の高尚な『効率』は、たった今、パンケーキに負けたのよ!」
殿下のこめかみに、青筋が浮かび上がった。
プライドの高い彼にとって、これ以上の屈辱はないだろう。
「……いいだろう」
彼は濡れた顔をハンカチで乱暴に拭った。
「不良品(エラー品)など不要だ。
好きにしろ。そんなガラクタ、くれてやる」
彼は踵を返し、足音荒く去っていった。
その背中には、明らかな動揺が見て取れた。
残されたアイリスは、へなへなと座り込んだ。
「……ああ。
私は……捨てられました……」
絶望する彼女の口元に、セシリア様が残りのパンケーキを差し出した。
「おめでとう、アイリス。
これで貴女は、自由の身よ」
アイリスは泣きそうな顔で、パンケーキを齧った。
甘いシロップの味が、涙の味と混ざり合う。
私は思った。
これは「反逆」じゃない。
ただの「夜明け」なのだと。
こうして、ポンコツで愛らしい元・機械人形との、奇妙な共同生活が始まった。




