第二十九話
深夜二時。
波の音だけが支配する、静寂の時間。
私は金縛りにあったような重苦しさで目を覚ました。
(……重い)
胸の上に、何かが乗っている。
猫? いや、もっと重量がある。
それに、熱い。
薄目を開けると、闇の中に二つの光る点が見えた――気がした。
「……起きましたか、サンプルB」
無機質な声。
けれど、その声は微かに震え、湿り気を帯びていた。
アイリスだ。
彼女は私の腹の上に馬乗りになり、長い黒髪をカーテンのように垂らして、私を覗き込んでいた。
月光が、彼女の乱れたパジャマ(セシリア様から借りた大きめのシャツ)の襟元を照らし、白い鎖骨が露わになっている。
「あ、アイリス……? 何をして……」
「エラーが発生しました」
彼女は私の両手首を、驚くほど強い力でシーツに縫い付けた。
「睡眠学習を実行しようとしましたが、システムが拒絶します。
脳内で、昼間のデータがループし続けているのです」
彼女の顔が近づく。
吐息が頬にかかる。その息は、微かに甘い匂いがした。
「肉の味。脂の感触。
……あれは、強烈な快楽物質でした」
彼女の瞳孔は開いていた。
まるで薬物中毒患者が、次の投与を求めているような危うさがある。
「ですが、論理的な矛盾が生じています。
貴女たちは、あの『食事』よりもさらに優先度の高い行為をしていました」
彼女の視線が、私の唇に固定される。
「海の上での、口内粘膜の接触。
あれは、食事よりも『美味しい』のですか?」
ゾクリ、と背筋が粟立つ。
彼女は今、純粋な好奇心だけで動いている。
だからこそ、タチが悪い。ブレーキがないのだ。
「そ、それは……人によるというか……」
「曖昧な回答は不要です。
実測データが必要です」
アイリスが、ぐっと体重をかけてきた。
柔らかい太ももの感触が、私の腰に生々しく伝わる。
「検証させてください。
貴女の口腔内データを採取し、昼間の牛肉のスコアと比較します」
「ちょ、ちょっと待って! セシリア様が隣で……!」
「マスター(仮)はスリープモードです。感知されません」
彼女は聞く耳を持たなかった。
片手を私の手首から離し、私の顎を強引に掴む。
「口を、開けて」
命令というより、懇願に近い響き。
彼女の指が、私の唇をこじ開けようと入り込んでくる。
指先は熱く、微かに震えていた。
抵抗できない。
彼女の「知りたい」という熱量が、私の理性を焼き切ろうとしている。
「……んッ」
指が口内に入ってきた。
ざらりとした指の腹が、舌を撫でる。
彼女は私の唾液の感触を確かめるように、執拗に指を動かした。
「……濡れています。温かい」
アイリスの呼吸が荒くなる。
彼女の顔が、さらに近づく。
鼻先が触れ合う距離。
「指では、不足です。
やはり、直接接続しなければ」
彼女の唇が、ゆっくりと降りてくる。
逃げ場はない。
月明かりの下、彼女の瞳は潤み、頬は興奮で赤く染まっていた。
それはもう「機械人形」の顔ではない。
本能に目覚めた、ただの「飢えた少女」の顔だ。
唇が触れる――その直前。
「――そこまでよ、ポンコツちゃん」
パンッ!
乾いた音が響いた。
アイリスの額に、扇子の一撃が入ったのだ。
「……ッ!?」
アイリスが動きを停止する。
横を見ると、セシリア様が半身を起こし、不機嫌そうに私たちを見下ろしていた。
「私のペットに手出しするなんて、いい度胸ね。
……発情期にはまだ早いわよ?」
「マ、マスター(仮)……」
アイリスは我に返ったように瞬きをした。
急速に熱が引いていくのか、彼女の顔が青ざめる。
「私は……何を……。
システムログに、記録が……ない……?」
「暴走ね。
初めての『快楽』に脳がパンクしたんでしょう」
セシリア様は、アイリスの襟首を掴み、ひょいと私の上から引き剥がした。
そして、自分の胸元に彼女の顔を押し付けた。
「寝なさい。
オーバーヒートした頭には、冷却が必要よ」
「あ……うぅ……」
アイリスは、セシリア様の匂いに包まれ、抵抗力を失ったようだった。
彼女は最後に、未練がましく私の方を見た。
そして、自分の唇を指でそっと触れ――そのまま、セシリア様の腕の中で機能を停止(気絶に近い睡眠)した。
「……ふぅ。世話が焼けるわね」
セシリア様は、眠るアイリスの頭を撫でながら、私に視線を流した。
「で?
貴女も、満更でもなさそうな顔してたわね?」
「い、いいえ! そんなこと!」
「ふふ。あとでお仕置きが必要かしら」
セシリア様の目は笑っていなかった。
この夜の騒動は、アイリスという「新しいおもちゃ」に、危険な機能が追加されたことを私たちに知らしめたのだった。




