第二十八話
「……失望した」
フレデリック殿下は、ハンカチで口元を覆ったまま、氷のような視線をアイリスに向けた。
「七番。
貴様のその醜態は、私の管理能力への侮辱だ。
口の周りを汚し、獣のように脂を貪る……。それが王宮の侍女の姿か」
アイリスはビクリと肩を震わせた。
けれど、その視線は殿下ではなく、まだ皿の上に残る肉に吸い寄せられている。
「聞いていないのか」
殿下は舌打ちをした。
「頭を冷やせ。
その『不純物』を胃袋から洗浄し、思考回路を正常に戻すまで、私の執務室への入室を禁ずる」
彼は踵を返した。
「時間の無駄だ。私は戻る」
ザッ、ザッ、ザッ。
規則正しい足音が遠ざかっていく。
彼は一度も振り返らなかった。
残されたのは、波の音と、炭火の爆ぜる音。
そして、私たち三人だけ。
◇
「……行っちゃったわね」
セシリア様は、まるで邪魔なハエがいなくなったかのように、晴れやかな顔でグラスを傾けた。
「さあ、邪魔者は消えたわ。
続きをしましょうか、アイリス」
アイリスは呆然と立ち尽くしていた。
主に置き去りにされた不安と、満たされない食欲の狭間で、彼女の「システム」は混乱しているようだった。
「マスター……命令……待機……」
ブツブツと呟く彼女の手を、私がそっと引いた。
「座りなよ。
ずっと立ってたら、せっかくのエネルギーが無駄になるでしょう?」
「無駄」という言葉に反応したのか、アイリスはカクカクと頷き、私の隣のデッキチェアに腰を下ろした。
その瞬間、セシリア様が新たな「爆弾」を投下した。
「はい、あーん」
突き出されたのは、醤油を垂らして香ばしく焼き上げた、大ぶりの帆立貝だ。
バターが溶けて、黄金色に輝いている。
「え、あ……」
「拒否権はないって言ったでしょう?
口を開ける」
アイリスは、催眠術にかかったように口を開いた。
熱い貝柱が、彼女の舌の上に乗る。
「んんッ……!」
彼女の喉が鳴った。
肉とは違う、海の滋味。
磯の香りとバターのコクが、鼻腔へと抜けていく。
彼女は目を閉じ、何度も、何度も咀嚼した。
飲み込むのが惜しいとでも言うように。
「……分析不能」
飲み込んだ後、アイリスはうっとりとした表情で呟いた。
「タンパク質と脂質、塩分……構成要素は単純なのに。
なぜ、こんなにも……脳髄が痺れるのですか?」
「それが『美味しい』っていうことよ」
セシリア様は、自分の指についた肉汁を舐め取りながら、妖艶に微笑んだ。
「貴女の主人は、貴女に燃料しか入れなかった。
でも、貴女は機械じゃない。
悦びを感じる『女』の身体なのよ」
彼女はアイリスの顎をクイ、と持ち上げた。
親指の腹で、汚れた口元を拭う。
「どう?
お腹の奥が、ポカポカして、満たされて……とろけそうでしょう?」
「……はい。
思考速度が低下しています。
四肢の末端が重く、瞼が……維持できません」
アイリスのまぶたが、とろんと落ちてくる。
満腹中枢への刺激。
急激な血糖値の上昇。
そして、夏の昼下がりの熱気。
これらが組み合わさった時に起きる現象を、元社畜の私はよく知っている。
――「飯テロ」からの「寝落ち」。
人類が抗えない、最強の生理現象だ。
「あらあら。
赤ちゃんみたい」
セシリア様はくすりと笑い、自分の隣のスペースを空けた。
「おいで。
食後の昼寝も、立派なバカンスの義務よ」
アイリスは抵抗しなかった。
いや、できなかったのだろう。
彼女はふらふらと倒れ込み、セシリア様の豊かな胸に顔を埋める形になった。
「……マスターに、怒られ……ます」
「いいのよ。
今は私が、貴女の新しいマスター(仮)なんだから」
セシリア様は、アイリスの背中を優しくトントンと叩いた。
そのリズムは、波音と重なって、絶対的な安心感を生み出している。
数秒もしないうちに、アイリスの肩から力が抜け、規則正しい寝息が聞こえ始めた。
あの冷徹な「影の少女」が、今はただの無防備な子供のようだ。
口元に、まだ少しソースの痕を残したまま。
「……悪い人ですね、セシリア様は」
私が苦笑すると、彼女は悪戯っぽく私を手招きした。
「貴女もよ、共犯者さん。
こっちに来なさい」
私はためらいつつも、二人の間に潜り込んだ。
左に、肉の匂いとミルクのような甘い匂いがするアイリス。
右に、ワインと香水の香りがするセシリア様。
サンドイッチ状態だ。
暑い。重い。
でも、どうしようもなく幸福だ。
「……これ、フレデリック殿下が見たら卒倒しますね」
「させればいいわ。
私たちは今、世界で一番『生産性のない』時間を過ごしている」
セシリア様の手が、私とアイリスの髪を同時に撫でた。
「おやすみ。
私の可愛いペットたち」
意識が遠のく。
太陽の下、お腹いっぱいで眠る罪悪感と快楽。
殿下が管理する「隣の岬」はあんなに近いのに、ここだけは重力が違うみたいだった。




