第二十五話
翌朝、テラスに出た私は絶句した。
昨日までどこまでも青く、自由だった海が、変わり果てた姿になっていたからだ。
「……市民プール?」
思わず呟いてしまった。
白い砂浜には等間隔に杭が打たれ、そこから沖に向かって、赤と黄色のロープが幾重にも張り巡らされていたのだ。
『遊泳レーン(高速)』
『遊泳レーン(低速)』
『歩行浴エリア』
『進入禁止(危険区域)』
無粋な立て看板が、美しい景観を台無しにしている。
リゾート感ゼロ。
完全に「管理された運動施設」だ。
「おはよう、諸君」
砂浜から、メガホンを持ったフレデリック殿下が声を張り上げた。
彼は競泳用の水着(全身を覆う黒いボディスーツ型)に、ストップウォッチを首から下げている。
その姿は、海を楽しむ者ではなく、海を「攻略」する者のそれだった。
「どうだ、見違えただろう。
これで接触事故のリスクは98%低減され、単位時間あたりの運動効率は最大化される」
「……最低ね」
私の隣で、セシリア様が吐き捨てるように言った。
彼女は今、真紅のビキニに、透け感のあるパレオを巻いている。
その圧倒的な肢体は、本来ならビーチの主役になるはずだった。
しかし、目の前にあるのは色気のないロープの海だ。
「海は泳ぐ場所じゃないわ。
漂う場所よ」
セシリア様はサングラスを外し、殿下を睨みつけた。
「その貧乏くさいロープ、今すぐ撤去なさい。
私の視界に入ると、蕁麻疹が出そうよ」
「断る。これは公共の利益だ」
殿下はピシャリと言い放った。
「だらだらと波に揺られるだけの行為に、何の意味がある?
カロリー消費は微々たるもの。心肺機能の向上も見込めない。
そんな『無駄な時間』を過ごすくらいなら、このレーンで1キロ泳いでみろ」
ああ、耳が痛い。
かつての私なら、「仰る通りです」とメモを取っていただろう。
でも。
「……行きましょう、ペットちゃん」
セシリア様は私の手を引いた。
「え、どこへ?」
「決まっているでしょう。
あの石頭に、本当の『海の使い方』を教えてやるのよ」
◇
私たちは、殿下が定めた『進入禁止(危険区域)』――つまり、一番波が穏やかで、一番景色が良い入江へと向かった。
殿下が「おい、そこは管理外だぞ!」と叫んでいるが、無視だ。
「これを使うわ」
セシリア様が指差したのは、使用人に用意させた巨大な浮き輪だった。
貝殻の形をした、大人が二人乗れるほどの特注品だ。
「さあ、乗りなさい」
言われるがままに、私はその貝殻の上に転がり込んだ。
ふわふわとした不安定な足場。
すぐにセシリア様も乗り込んでくる。
狭い。
密着度が、すごい。
プカプカと、私たちは沖へと流されていく。
波に揺られるたび、セシリア様の柔らかな肌が私の腕に、太ももに、触れては離れる。
太陽の熱と、彼女の体温。
そして、冷たい海水が時折、肌を濡らす。
「……ふふ。気持ちいい」
セシリア様は私の肩に頭を預け、目を閉じた。
「ねえ、フレデリックが見てるわよ」
遠くの岸辺を見ると、殿下が双眼鏡(あるいは計測器?)でこちらを凝視していた。
『ルール違反だ』
『非効率だ』
『戻れ』
そんな怒声が聞こえてきそうだが、波の音が全てをかき消してくれる。
「あの男には一生分からないでしょうね」
セシリア様の指が、私の水着の紐を弄ぶ。
「目的もなく、ただ波に身を任せて、好きな人と肌を重ねる……。
この『生産性のなさ』こそが、最高の贅沢だってこと」
彼女は、濡れた手で私の頬を包み込んだ。
「キスして」
「えっ、でも、あそこから丸見えじゃ……」
「見せつけてやるのよ。
数字や効率じゃ測れない、甘くてドロドロした『感情』を」
逃げ場はない。
私は意を決して、彼女の唇に触れた。
潮の味。
そして、甘いリップの味。
揺れる波の上、不安定な浮き輪の中で、私たちは深く絡み合った。
遠くで殿下が何か叫んでいるのが見えたけれど、それはまるで別世界の出来事のように遠かった。
ふと。
キスの合間に、視線を感じて目を開けた。
殿下の隣。
波打ち際に、あの「影の少女」が立っていた。
彼女は、計測器を持ったまま動かない。
殿下が怒鳴っているのにも気づいていないようだった。
ただ、じっと。
波に揺られ、抱き合う私たちを、食い入るように見つめている。
その足元で、小さな波が彼女の革靴を濡らしていた。
「効率」の檻の中にいる彼女にとって、この「漂流」は、どう映っているのだろう。
恐怖か。
軽蔑か。
それとも――憧れか。
「……よそ見しないの」
セシリア様に唇を噛まれた。
「貴女が見ていいのは、私だけよ」
彼女は私の視線を遮るように、さらに深く覆いかぶさってきた。
浮き輪が大きく傾き、私たちは悲鳴を上げて笑い合いながら、青い海へと転げ落ちた。
バシャーン!
冷たい水の中、泡に包まれながら、私は確信した。
やっぱり、勝ったのは私たちだ。
だって、殿下はあんなにしかめっ面で、私たちはこんなに笑っているのだから。




