第二十四話
昨夜の「氷の治療」のせいで、目覚めは昼近くだった。
波の音と、鳥のさえずり。
隣には、タオルケットを剥いで眠るセシリア様の、眩しいほどの裸身。
(……平和だ)
私は伸びをした。
二日前までの「仕事をしなきゃ死ぬ病」は、セシリア様の荒療治のおかげで完全に寛解していた。
今の私は、ただの幸せなペット。
今日も一日、海を眺めて、美味しいものを食べて、セシリア様に可愛がられるだけの簡単なお仕事だ。
そう思っていた。
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ。
不快な音が聞こえた。
波音のリズムを無視した、あまりにも正確で、人工的な足音。
砂浜を歩いているはずなのに、まるでアスファルトの上を行軍しているような硬質な響き。
――嫌な予感がする。
背中の「社畜センサー」が、激しく警報を鳴らしている。
私は慌てて薄手のガウンを羽織り、テラスに出た。
「……嘘でしょう?」
眼下のプライベートビーチ。
誰もいないはずの白い砂浜に、一列の行列ができていた。
先頭を歩くのは、全身を濃紺の軍服で覆い、襟元を第一ボタンまで完璧に閉めた男。
フレデリック殿下だ。
気温は三十度を超えているはずなのに、彼だけ涼しい顔で、一滴の汗もかいていない。
その背後には、あの「影の少女」が、大量の書類束を抱えて無表情に追従している。
「な、なんでここに……!?」
私の声が聞こえたのか、殿下は歩みを止め、テラスを見上げた。
「――遅い起床だな」
彼は懐中時計をパチリと開閉した。
「正午を十三分経過している。
睡眠の質を考慮しても、非効率な時間の使い方だ」
その声を聞いた瞬間、胃がキュッと縮んだ。
上司だ。
休日出勤している時に遭遇してしまった、一番会いたくないタイプの上司だ。
「……うるさいわね」
背後から、不機嫌極まりない声がした。
セシリア様だ。
けだるげにガウンを羽織り、髪をかき上げながらテラスに出てくる。
「私の庭で、何をしているの?
害虫駆除の業者なら、呼んでいないわよ」
「視察だ」
殿下は悪びれもせず、美しい海を指差した。
「このサント・メール地区は、観光資源としてのポテンシャルに対し、収益率が悪すぎる。
原因は明確だ。
『無駄な余白』が多すぎる」
彼は少女から書類を受け取り、パラパラとめくった。
「ビーチのパラソル間隔は、今の半分に圧縮できる。
昼食の平均滞在時間を四十分に制限すれば、回転率は二・五倍になる。
そして、この別荘地も――」
彼は冷徹な瞳で、私たちを見据えた。
「区画整理の対象だ。
個人の快楽のために、これほど広大な土地を占有するのは、国土利用の観点から見て損失でしかない」
空気が凍りついた。
南国の太陽が照りつけているのに、ここだけ極寒のブリザードが吹いているようだ。
セシリア様が、ゆっくりと手すりを握りしめた。
ミシッ、と木がきしむ音がする。
「……へえ。
私の『夏休み』を、数字で汚そうっていうのね」
「改善と言ってくれ」
殿下は無表情のまま続けた。
「私はこの夏の間、隣の区画に『臨時執務室』を設置する。
この怠惰なリゾート地を、高効率な収益モデルへと生まれ変わらせるためにな」
隣?
今、隣と言ったか?
私が顔を向けると、確かに隣の岬に、無機質なテントと、測量機材が運び込まれていた。
終わった。
私の安息の日々が、音を立てて崩れ去った。
隣に上司が引っ越してきたようなものだ。
窓を開ければ、怒号ならぬ「指導」が聞こえてくる環境なんて、地獄以外の何物でもない。
「……フレデリック」
セシリア様が、低く唸るように言った。
「私の視界に入らないで。
その暑苦しい制服も、理屈っぽい顔も、全部海に沈めてやりたいわ」
「奇遇だな。
私も、君たちのその生産性のない姿を見ると、虫唾が走る」
バチバチバチッ……!
二人の間に、目に見えない火花が散った。
リラックス(感情) vs 効率(論理)。
絶対に相容れない二つの概念が、この狭い避暑地で衝突しようとしていた。
殿下は踵を返した。
「おい、行くぞ。
まずは水質の成分分析だ。
泳いでいる暇などないぞ」
書類を抱えた少女が、小さく頷く。
彼女の視線が、一瞬だけ私の方を向いた。
その瞳は、昨日よりも少しだけ、色が濃くなっているように見えた。
羨望?
それとも、諦め?
彼女は何も言わず、機械のように主人の後を追っていった。
嵐の予感がした。
この夏は、ただ暑いだけじゃ終わりそうにない。
「……面白いわね」
セシリア様が、獰猛な笑みを浮かべた。
「売られた喧嘩よ、ペットちゃん。
徹底的に『遊んで』やるわ。
あの鉄面皮が、悔し涙を流して逃げ出すくらいにね」
私は遠い目になった。
ああ、私の穏やかな休暇が、波にさらわれていく。




