第二十一話
小鳥のさえずりで目が覚めるなんて、前世ではファンタジーの中だけの話だった。
けれど今、私はその柔らかな音色の中で瞼を開けた。
カーテンの隙間から、穏やかな朝陽が差し込んでいる。
(……あ、アラーム……鳴ってない)
一瞬、心臓が跳ねた。
遅刻だ。始末書だ。上司の怒鳴り声だ。
社畜時代の条件反射が、私の背筋を凍らせる。
ガバッ、と飛び起きようとして――動けなかった。
腰に、重みがあったからだ。
「……んぅ……」
隣で、銀色の髪がさらりと揺れた。
セシリア様だ。
彼女は私の腹部に腕を回し、私の太ももに脚を絡ませて、幸せそうに眠っていた。
まるで、大きな抱き枕にしがみつく猫のように。
その寝顔を見て、私はふっと息を吐き、枕に頭を沈めた。
そうだ。
私はもう、会社に行かなくていいんだ。
満員電車に乗らなくていい。
誰かに頭を下げなくていい。
ここは天国だ。
そして私は、この美しい女主人の「ペット」なのだ。
昨夜の記憶が、鮮明に蘇る。
シャンパンの味。
熱い吐息。
解かれたリボンと、重なり合った体温。
カアアッ、と顔が熱くなる。
(あんなこと……しちゃったんだ)
公爵令嬢と、元平民の私。
身分も、性別も超えて、ただお互いの熱に溺れた夜。
それは背徳的で、でも、どうしようもなく甘美な「契約」のようだった。
「……起きたの?」
不意に、眠たげな声がした。
セシリア様が、薄目を開けて私を見上げている。
「あ……おはようございます、セシリア様」
「ん……おはよう」
彼女はあくびを噛み殺すと、私の胸に顔を擦り付けた。
「……いい匂い。私の匂いがする」
彼女は満足げに呟き、私をさらに強く抱きしめた。
「ねえ。今、何時?」
「えっと……時計は……たぶん、十時を回っています」
前世なら、重役会議が始まっている時間だ。
「そう。まだ夜明け前ね」
セシリア様は平然と言い放った。
「え?」
「貴族の朝は、正午から始まるのよ。
だから、まだ寝ていていいわ」
「で、でも……昨日のドレスの片付けとか、お礼状とか……」
「そんなの、使用人にやらせればいいの」
彼女は私の唇に、人差し指を押し当てた。
「いいこと?
貴女の仕事は『生産』することじゃない。
私と一緒に、最高に贅沢な『消費』をすることよ」
消費。
時間という、最も高価な資源を。
「……はい」
「よろしい。
じゃあ、二度寝しましょう」
彼女は私の布団を肩まで引き上げ、自身の身体をぴったりと密着させた。
温かい。柔らかい。
フレデリック殿下のあの少女――「効率の化身」には、絶対に味わえないぬくもり。
あの王子は言った。
「睡眠時間は四時間で十分だ」と。
「無駄な時間は人生の損失だ」と。
でも、違う。
愛する人と、温かいベッドで、泥のように眠る。
何の生産性もない、ただ過ぎ去るだけの時間。
それこそが、人生の「勝利」なんだ。
私は、セシリア様の背中に手を回した。
彼女の寝息が、私のリズムと重なっていく。
(ざまあみろ、効率主義)
私は心の中で、かつての上司と、あの鉄の王子に向けて、中指を立てた。
私は今、世界で一番無駄で、世界で一番幸せな時間を過ごしている。
瞼が重くなる。
甘い微睡みの中へ、私は喜んで堕ちていった。
舞踏会という名の戦場は終わった。
勝者は、私たちだ。
なぜなら、私たちは今、こんなにも満たされているのだから。




