第二十話
回廊の影。
石造りの壁に背中を押し付けられ、私は逃げ場を失っていた。
「……ん」
セシリア様の顔が近い。
吐息にはシャンパンの甘い香りが混じり、潤んだ瞳が捕食者のように私を見据えている。
「ここで……続きをする?」
彼女の指先が、私の首筋をツーとなぞり、鎖骨の窪みで止まった。
ゾクリ、と背筋に電流が走る。
「だ、駄目です……っ! 誰か来たら……」
「そうね。見せつけるのも悪くないけど……」
彼女は私の耳元に唇を寄せ、低い声で囁いた。
「今の貴女の蕩けた顔は、私だけのものにしたいわ。
……帰りましょう。今すぐに」
彼女は私の手首を掴むと、強引に歩き出した。
足早に、まるで獲物を巣へ持ち帰る獣のように。
◇
屋敷へと向かう馬車の中。
密閉された箱庭は、濃厚な気配で満たされていた。
ガタン、と車輪が石畳を叩くたび、身体が揺れる。
向かい合わせの席ではない。
セシリア様は私の隣に座り、全体重を預けるように寄りかかっていた。
「……暑いわね」
彼女が気だるげに呟く。
ドレスの裾が乱れ、私の太ももに彼女の熱い体温が伝わってくる。
「ま、窓を開けましょうか……?」
「だめ」
伸ばしかけた私の手を、彼女が制した。
その手は熱く、汗ばんでいる。
「空気を逃がさないで。
この狭い空間に、貴女の匂いと、私の残り香を充満させたいの」
彼女は私の肩に頭を乗せ、首筋に鼻先を擦り付けた。
「はぁ……いい匂い。
恐怖と、興奮と、忠誠心が混ざった……最高に唆る匂いよ」
狭い車内で、逃げ場はない。
屋敷に着くまでの数十分が、永遠のように長く、そして甘く感じられた。
◇
屋敷に到着するなり、私たちは裏口から滑り込むように中へ入った。
メイドたちの出迎えも手で制し、そのままセシリア様の寝室へ直行する。
バタン。
重厚な扉が閉ざされ、鍵が掛かる音が、世界との断絶を告げた。
「……ふぅ」
月明かりだけが照らす部屋で、セシリア様が振り返る。
彼女は背中を私に向けた。
「……手伝って」
甘えたような、それでいて絶対的な命令。
私は震える指で、彼女の背中のファスナーに触れた。
氷の結晶を模したドレス。その冷たい感触とは裏腹に、露わになった背中の肌は火傷しそうなほど熱を帯びている。
ジジ……ッ。
ファスナーを下ろす音が、静寂の中でやけに大きく響く。
ドレスが床に落ち、コルセットに締め上げられた砂時計のような曲線が、白く闇に浮かび上がった。
「苦しかった……」
解放された彼女は振り返り、今度は私の胸元に手を伸ばした。
「次は、貴女の番」
「え、あ、私は自分で……」
「じっとしてて」
彼女の指が、私のリボンを解く。
するりと解ける結び目。
ボタンが一つ、また一つと外されていく。
抵抗なんてできない。
されるがままに、私は「武装」を解除されていく。
やがて、私のドレスも足元に落ちた。
残ったのは、身体をきつく締め付けるコルセットと、薄いシュミーズだけ。
「……かわいそうに。こんなに跡がついて」
セシリア様の指が、コルセットに食い込んだ私の脇腹をなぞる。
痛痒いような、くすぐったいような感覚。
「でも、この締め付けられた跡を見ると……ゾクゾクするわ。
貴女が私のために、無理をして呼吸を止めていた証拠だもの」
彼女は、私の腰に手を回し、紐を一気に緩めた。
ぷはっ、と息が漏れる。
肋骨が解放され、肺に空気が流れ込む。
その瞬間、身体の芯から力が抜けて、私はセシリア様の胸に崩れ落ちた。
「……いい子」
彼女は私を受け止め、そのままベッドへと押し倒した。
ふかふかの羽毛。
視界いっぱいに広がる、セシリア様の銀髪。
覆いかぶさる彼女の瞳は、とろんと潤んで、熱を帯びている。
「ねえ。
あの『機械人形』には、こんなことできないでしょう?」
彼女の指が、私の鎖骨から胸元へと這う。
「あの子は、命令されなければキスもしない。
でも、貴女は違う」
彼女の顔が近づく。
甘い酒の香りが、私の思考を麻痺させる。
「貴女は、私が触れるだけでこんなに熱くなって、震えて、期待している……」
「セシリア、さま……」
「名前を呼んで。もっと、甘く」
唇が、重なった。
シャンパンの味。
最初は優しく、ついばむように。
けれどすぐに、それは深く、貪るような口づけへと変わった。
息ができない。
頭が真っ白になる。
私の舌に絡みつく熱い感触が、前世の理性も、身分の差も、全てを溶かしていく。
ああ、これは駄目だ。
これ以上先は、戻れなくなる。
ペットと飼い主の境界線が、曖昧に溶けて消えてしまう。
けれど。
「……貴女は私のものよ」
唇を離したセシリア様が、切なげに、独占欲を滲ませて囁いた。
「髪の一本、吐息の一つまで、全部私に捧げなさい。
……朝まで、離さないから」
彼女の手が、私の素肌に触れる。
私はもう、抵抗する気など微塵も残っていなかった。
ただ、この甘美な深淵に堕ちていくことを、震える身体で受け入れた。
夜はまだ、始まったばかりだ。




