第十九話
ダンスフロアの喧騒から逃れ、私たちは薄暗いテラスへと滑り込んだ。
夜風が、火照った肌を撫でていく。
けれど、私の体内の熱は冷めるどころか、芯の方からじりじりと燻り続けていた。
「……ふぅ。いい汗をかいたわ」
セシリア様が、乱れた銀髪をかき上げる。
その白磁の首筋に、玉のような汗が光って伝い落ちていくのが見えた。
月光の下、彼女は妖艶なほどに美しく、そしてどこか「雄」の獣のような征服感を漂わせている。
給仕が通りかかり、盆を差し出す。
セシリア様は細い指でシャンパングラスを一つだけ取り上げた。
「……ん」
彼女はグラスに口をつけると、半分ほどを優雅に喉へ流し込んだ。
濡れた唇が、艶めかしく離れる。
グラスの縁には、鮮やかな紅の跡が残っていた。
「ほら。飲みなさい」
彼女は、そのグラスを私の唇に押し付けた。
「え……でも、セシリア様が……」
「いいから。私の『残り香』ごと味わうのよ」
命令だ。
私は震える手でグラスの底を支えられ、言われるがままに液体を流し込まれた。
甘い。
そして、痺れるほど冷たい。
炭酸の刺激とアルコールの熱が喉を焼き、それ以上に、彼女の唇が触れた場所から、直接何かが流れ込んでくるような錯覚に陥る。
間接キス、なんて可愛らしいものじゃない。
これは「共有」だ。唾液も、息遣いも、熱も。
「……ふふ。いい顔」
セシリア様が、私の濡れた唇を指先で拭う。
その指を、彼女は自分の舌でぺろりと舐め取った。
ゾクゾクと背筋が粟立つ。
膝から力が抜けそうになった時――不粋な影が落ちた。
「……野蛮な真似を」
氷点下の声。
フレデリック殿下が、テラスの入り口に立っていた。
その背後には、あの「影の少女」が人形のように控えている。
「グラスの共用は衛生的ではない。
それに、理性を鈍らせるアルコールを、従者に与えるなど言語道断だ」
殿下は軽蔑を隠そうともせず、私たちを見下ろした。
彼らは一滴の汗もかいていない。
呼吸一つ乱さず、ただ冷たく、乾燥している。
「あら、フレデリック」
セシリア様は、私の腰に手を回したまま、気だるげに振り返った。
「貴方こそ、可哀想な人。
『酔う』ことの快楽を知らないなんて」
「快楽などというノイズは、思考の妨げになるだけだ」
「そうかしら?
見て、この子の顔」
セシリア様の指が、私の頬を這う。熱を帯びた肌を、確かめるように。
「アルコールが回って、理性が溶けて、目はとろんと潤んで……。
無防備で、だらしなくて、最高に美味しそうでしょう?」
彼女の吐息が、私の耳にかかる。
私は恥ずかしさと快感で、殿下の前だというのに声を漏らしそうになった。
殿下は眉をひそめた。
「……理解できん。それはただの機能不全だ」
彼は背後の少女に視線を向けた。
「見ろ。私の道具は完璧だ。
感情も、欲望も、疲労もない。
メンテナンスさえすれば永遠に稼働する」
少女は無表情のまま立っていた。
その瞳は澄んでいるけれど、そこには「生」の湿り気がない。
まるで精巧なガラス細工だ。美しいけれど、抱きしめたら冷たくて硬いだけだろう。
「……ねえ、そこのお嬢さん」
セシリア様が、ふと少女に声をかけた。
「貴女、喉は乾かないの?」
少女の視線が揺れた。
一瞬、彼女の目が私の手元の――まだ泡が弾けているシャンパングラスに向けられたのを、私は見逃さなかった。
「……渇き、ませ、ん」
機械的な返答。
でも、その声は微かに掠れていた。
「嘘つき」
セシリア様はくすりと笑い、残ったシャンパンをテラスの石床に撒いた。
バシャッ。
黄金色の液体が飛び散り、甘い香りが広がる。
「もったいない……!」
殿下が顔をしかめる。
「ええ、無駄遣いよ。
でもね、フレデリック。
完璧な機械よりも、蜜に濡れて乱れた『人間』の方が、夜には相応しいと思わない?」
セシリア様は私の肩を抱き寄せ、見せつけるように私の首筋に顔を埋めた。
「――行くわよ。
ここは空気が乾燥しすぎていて、肌に悪いわ」
殿下は何も言わなかった。
ただ、去りゆく私たちと、床に広がるシャンパンの染みを、不快そうに睨んでいるだけだった。
すれ違いざま。
私は見た。
あの少女が、床にこぼれた液体を、じっと見つめているのを。
その渇いた喉が、ごくり、と小さく鳴ったのを。
◇
人混みを離れ、さらに奥へ。
「……セ、セシリア様。飲み過ぎでは……」
「黙りなさい」
人気のない回廊の影に入った瞬間、私は壁に押し付けられた。
逃げ場はない。
目の前には、潤んだ瞳のセシリア様。
「さっきの……見せつけすぎです」
「嫌だった?」
彼女の指が、私の胸元のリボンを解くように遊ぶ。
「……い、いえ」
「素直でよろしい」
彼女は満足げに微笑むと、私の耳元に唇を寄せた。
「今日は、貴女の理性が全部溶けるまで飲ませてあげる。
……覚悟しておきなさい、私の可愛いペット」
その囁きは、どんな強い酒よりも、私の頭をクラクラとさせた。
ああ、もうだめだ。
今夜はきっと、長い夜になる。
私は観念して、その甘い腕の中に身を委ねた。




