第二話
じっ、と膝を抱えてうずくまっていると、どのくらいの時間が経ったのか分からなくなる。
この不快な空間に慣れることは一生ないだろうけれど、意識が朦朧としてきたおかげで、吐き気は少し収まっていた。
――ガシャンッ!!
突然、鼓膜を破るような金属音が響き渡り、私はビクリと肩を震わせた。
重厚な足音が近づいてくる。一つではない、複数の気配だ。
「おい、起きろゴミクズども!」
ドカドカと檻を蹴る音と共に、野太い怒声が飛んでくる。
錆びついた南京錠が乱暴に開けられ、私は薄汚れたボロ布ごと、無造作に外へと引きずり出された。
「いっ……」
抵抗する力なんて残っていない。
私はされるがまま、石畳の廊下を引きずられていく。
何が起きているの? ここはどこなの? 誘拐? それとも本当に死後の地獄?
混乱する頭で必死に状況を理解しようとするけれど、暴力的な現実がそれを許さない。
連れて行かれた先は、薄暗い広場のような場所だった。
そこには私と同じように、やせ細り、目に光のない子供たちが何人も並ばされている。
その前に立っているのは、小綺麗な服を着た、脂ぎった恰幅のいい男たち。
彼らは子供たちの顔を覗き込んだり、身体を値踏みするように触ったりしている。
「こいつは歯並びがいいな」
「こっちは筋肉がつきそうだ。畑仕事に使えるか?」
まるで、野菜か家畜の品定めだ。
その光景を見て、背筋が凍った。
まさか……ここ、人を売買している場所なの?
私の前に立った男――この場の責任者らしき人物は、私の顔を見るなり露骨に鼻をつまんだ。
「なんだこの汚ぇのは。糞まみれじゃねえか」
「すみません親方、昨夜のうちに垂れ流したようで……」
「チッ。これだからガキは嫌なんだ。おい、こんな汚物、『商品』になるわけねぇだろ」
商品。
その単語が、私の推測を決定的なものにした。
私は人間として扱われていない。売り物として、ここにいるんだ。
男は私の頭を汚い靴の裏でグリりと踏みつけた。
痛みよりも、その絶望的な事実が心を支配する。
「『処分』だ。裏の穴に捨ててこい」
ああ、やっぱり。
ブラック企業で使い潰された次は、不良在庫として廃棄処分。
私の人生なんて、所詮こんなものなのだ。
抵抗する気力もなく、男たちに腕を掴まれ、再び引きずられそうになった――その時だった。
「――お待ちなさい」
凛とした、けれど氷のように冷ややかな声が、その場を支配した。
カツン、カツン、と。
高いヒールが石畳を叩く音が響く。
その音だけで、周囲の空気が張り詰めるのが分かった。
さっきまで威張り散らしていた男たちが、弾かれたように平伏し、ガタガタと震え始めたのだ。
「こ、これはこれは……セシリア様! このようなむさ苦しい場所に、何用でございましょうか!?」
セシリア?
聞いたことのない名前だ。けれど、この男たちの怯えようは尋常じゃない。
私は地面にへばりついたまま、恐る恐る視線を上げる。
そこにいたのは、この世のものとは思えないほど美しい人だった。
燃えるような深紅のドレス。腰まで波打つ艶やかな金髪。
そして何より、見下ろす瞳の鋭さが、彼女がただの貴族ではないことを物語っていた。
圧倒的な気品と、人を人とも思わないような傲慢さ。
彼女は扇子で口元を覆いながら、ゴミを見るような目で私を見下ろした。
「そこの汚らしいモノは、何?」
「は、はいっ! これは売り物にもならない廃棄品でして……すぐに処分いたしますので、どうかお気になさらず!」
男が媚びへつらいながら説明する。
けれど、その『セシリア』と呼ばれた女性は、不愉快そうに眉をひそめただけだった。
「処分? ……ふん、気に入らないわね」
彼女は一歩、また一歩と私に近づいてくる。
強烈な香水の香りが、鼻につく腐臭をかき消していく。
「あ、あの、セシリア様……?」
「その薄汚いガラクタ、私が貰ってあげるわ」
「は……?」
男も、そして私自身も、耳を疑った。
こんな糞尿まみれの、死にかけの骨と皮だけの子供を?
「お、お待ちください! いくら公爵令嬢のセシリア様といえど、このような不良品を押し付けるわけには……!」
「黙りなさい。私の気まぐれに口を挟むつもり?」
ギロリ、と彼女が睨むだけで、大の男が「ヒッ」と悲鳴を上げて縮こまる。
彼女は従者に何かを合図すると、ジャラリと音を立てて金貨の詰まった袋を男に投げつけた。
「釣りはいらないわ。さっさと失せなさい」
そして、彼女は私の目の前に立つと、躊躇いもなくその美しい指先を伸ばし、私の顎をグイと持ち上げた。
至近距離で見る彼女の瞳は、宝石のように美しく、そしてゾッとするほど冷たい。
殺される。
本能がそう警鐘を鳴らすほどの威圧感。
間違いなく、とんでもなく地位の高い、そして恐ろしい人物だということだけは分かった。
彼女の口から紡がれたのは、予想もしない言葉だった。
「……今日からお前は、私のモノよ」
その唇が、三日月のように歪む。
高飛車で、絶対的な宣言。
ああ、神様。
どうやら私は、地獄から救い出されたのではなく、もっと恐ろしい魔女の玩具として買われてしまったようです。




