第十七話
目の前に立ったフレデリック殿下は、氷像のように静かだった。
怒りも、焦りもない。
ただ、精密な測定器のような眼差しで、私とセシリア様を観察している。
「……定刻より十三分遅れだ、セシリア」
開口一番、彼が口にしたのは正確な時間の指摘だった。
感情の籠もらない、事実の確認だけの声。
「あら、主役は遅れて登場するものでしょう?
それに、私の『最高傑作』を仕上げるのに、妥協する時間なんてなかったのよ」
セシリア様は優雅に扇子で口元を隠し、挑発的に微笑む。
しかし、殿下の表情はピクリとも動かない。挑発になど乗らない。
彼はただ、興味なさげに私へと視線を移した。
「……フン。
外見のパラメータだけは、それなりに向上させたようだな。
だが、投資対効果はどうだ?」
彼は淡々と、まるで商品の品定めをするように言った。
「そのドレス、宝飾品、そして教育に費やした時間。
それに見合うだけの『機能』を、その個体は有しているのか?」
機能。
人間に対して使う言葉ではない。
けれど、彼の口から出ると、それが世界の真理であるかのように聞こえる。
「機能? そんなもの、必要ないわ」
セシリア様は鼻で笑った。
「この子は今日も、息をして、私に愛される。それだけで存在価値は満点よ」
「……理解に苦しむな。
君のその、非合理的な浪費癖には」
殿下は、心底哀れむようにため息をついた。
怒っているのではない。
「話の通じない愚か者」を見下しているのだ。
「君は『愛玩』という不確定な要素に価値を置いているが、私は違う。
――来い」
彼が短く指を鳴らす。
その背後から、音もなく一人の少女が進み出た。
「――ッ!?」
私は息を飲んだ。
そこにいたのは、影のような少女だった。
年齢は私と同じくらい。
飾り気のない、実用性のみを重視した灰色のドレス。
髪は一筋の乱れもなく、きつく結い上げられている。
何より異様だったのは、その「気配のなさ」だ。
彼女はそこにいるのに、まるで家具か壁紙のように、存在感がない。
呼吸の音さえ聞こえないほど、静かだった。
「紹介しよう。私の新しい従者だ」
殿下は、彼女の名前を呼ばなかった。
「元は貧民街の孤児だったが、私の考案した『更生プログラム』を施した。
無駄な感情、不要な自我、非効率な欲求。
それらを全て削ぎ落とし、純粋な『奉仕機能』だけを残した完成形だ」
プログラム。削ぎ落とす。
その言葉の裏にある、残酷な「教育」の過程を想像して、背筋が凍る。
「……おい。水だ」
殿下が呟くように命じる。
刹那。
少女が動いた。
近くを通りかかった給仕からグラスを受け取り、殿下の元へ運ぶ。
その一連の動作には、一ミリの無駄も、迷いもなかった。
流れる水のような、完璧な所作。
しかし、その瞳はガラス玉のように虚ろで、殿下への敬愛も、緊張も、何も映していない。
「……完璧だろう?」
殿下はグラスを受け取り、満足げに頷いた。
「彼女は文句を言わない。疲労も訴えない。
給金も、休日も、賞賛の言葉さえ必要としない。
ただ入力された命令を、最適解で出力する。
これこそが、人間が到達すべき『究極の効率』だ」
私は震えが止まらなかった。
この少女は、私の「成れの果て」だ。
前世で会社が求めていた理想の社員。
そして、もしセシリア様に出会わず、この王子に拾われていたら、私がなっていた姿。
「心」を殺し、「機能」だけになった人間。
それは、どんな拷問よりも恐ろしい、静かな地獄だ。
「……名前は?」
セシリア様が、低く静かな声で尋ねた。
「名前?」
殿下は不思議そうに小首を傾げた。
「さあ、なんだったか。
登録番号はあるが……個体名など、記憶のリソースを割く意味がない」
――なんてことだ。
この人は、本気でそう思っている。
悪意ですらない。純粋な合理性として、人間の尊厳を否定しているのだ。
「……そう」
セシリア様の声の温度が、氷点下まで下がった。
握りしめられた私の手に、痛いほどの力が込められる。
「フレデリック。
貴方、本当に『貧しい』男ね」
「何?」
「人間をそこまで空っぽの器にして、何が楽しいの?
それは効率化じゃないわ。ただの『破壊』よ」
セシリア様は、軽蔑を隠そうともせずに言い放った。
「貴方のその灰色で退屈な『道具』と、
私が愛とお金を注ぎ込んだ『最高傑作』。
どちらが人の心を動かすか、勝負しましょうか」
殿下は初めて、感情の色――薄らとした冷笑を浮かべた。
「いいだろう。
『愛』などという非合理的な概念が、いかに無力か。
この舞踏会のファーストダンスで証明してやろう」
音楽が変わり、ワルツの調べが流れ始める。
セシリア様は私を見つめた。
その瞳は怒りに燃えていたけれど、私に向ける眼差しだけは、どこまでも優しかった。
「行くわよ。
あんな『生きた屍』に、負けるわけにはいかないわ。
私たちが、一番幸せで、一番美しいってことを、教えてやるのよ」
私はコクリと頷いた。
負けたくない。
あんな風に、心を殺されたくない。
私は、セシリア様の人形だ。
けれど、心はある。温かい血が通っている。
氷の女王と、鉄の王子。
決して交わることのない二つの正義が、ダンスフロアで激突する。




