88.作られた小さな英雄
キスル市の東の碑塔街道は、悲鳴と慟哭と怒号、人と馬車と獣で混沌としていた。
家財を馬車に山積みにして東の街へ逃げようとする者がいた。
車軸の壊れた馬車から奴隷に荷を運び出させる者がいた。
損失を減らそうと家畜を街の外へ運び出そうとする者がいた。
老いた親を乗せてくれと馬車に縋り付く者がいた。
泣き叫ぶ子供をあやす者がいた。
負傷者とそれを癒そうとする者がいた。
息を引き取った家人を前に号泣する者がいた。
些細な理由から殴り合いを始める者がいた。
行く当てもなく無気力に道端に横たわる者がいた。
人に獣に踏み潰され息絶えた者がいた。
未だキスル市には多くの領民が取り残されていた。
大半は逃げ出すでもなく、茫然と炎に包まれる街を眺めている者たちだった。
兵の姿は殆ど見当たらない。
窃盗も強盗もあちらこちらで起きているようで、治安は乱れに乱れきっていた。
碑塔の内側を歩くこともままならず、我々は農地を踏み荒らしながら内壁を目指している。
その農地すらも、街道から溢れた人で行く手が遮られる有様。
イシェルセナが先頭に立ち、小姓よろしく声を張り上げ人を散らしていく。
「白陽の僕です道を開けなさい。ええい退けと言っているのです。この旗が見えないのですか、黒の傭兵が通りますよ!」
苛立ちと焦りをほんの少し滴らせた声は、実に真に迫っている。
なんとも多芸なことだ。
自ら進んで役割を申し出るだけのことはあった。
「これはなんだ。なんたるザマだ。領主はどこだ。兵は戦うだけが仕事ではないぞ。民の誘導すらまともにできんのか!」
私も負けじと声を張り、街道に犇めく有象無象の耳目を集めていく。
「キスルは聞きしに勝る惨状のようだな。青の者達は手をこまねいて何をしている。支配者の務めを果たさぬ無能共が。民を守る意思のない者が、指導者を標榜するなど愚劣極まるぞ」
時折イシェルセナが散らした人間を捕まえて状況を問い質し、先へ先へと進む。
「闇月の徒が居るなら出てきて戦え。あれだけ綺麗事を吐き散らしておきながら、混迷に喘ぐ民を前にして見て見ぬ振りか」
そうして人々を煽るように言葉を撒き散らし続ける。
次第にあれは誰だ何者だと、囁き合う声が増えていく。
武装した黒の民に期待するかのような言葉も混じり始める。
我々の背後には、疎らに人の列が続いてた。
頃合いか。
身形の良い商人らしき一団の近くで足を止める。
「ええい。青月も闇月も、この国には愚物しかいないのかッ!」
魔力を乗せた怒声に辺りは沈黙し、衆目が私に集中する。
「ちぃッ。もう良いわ。貴様らがやらぬと言うのなら、俺が――」
「師よ! 大師から他国の事情に深く関わってはならぬと、きつく命を受けたのをお忘れですか!」
悲鳴じみた叫びをあげ、慌てに慌てたイシェルセナが駆け寄って来る。
私は腕を組み毅然とした態度でこれに応じる。
「民を見捨てて何が白陽の僕か」
「ですが大師のお言葉は絶対に御座います」
一度俯き瞑目し、それからゆっくりと周囲を見渡す。
観衆それぞれと目を合わせるように。
瞳に宿る期待と不安を掬い取っていく。
フードの陰になっているためこちらの視線に気づくことはないだろう。
しかしだからこそ、そうと思わせるために手を抜くわけにはいかない。
「……ではこうしよう」
イシェルセナを一瞥し、それから目をつけていた商人と正対する形で人々に向き直る。
「お主らちとよいか。そう、お主ら全員だ」
「師よ」
「黙っておれ」
袖をまくり条贄十戒の聖章を観衆に晒す。
目の良い者が白の十戒であることに気づき、その中から1人2人と、条贄であることに驚きを示す者が現れ始める。
人々の期待が希望に塗り替えられていく。
神の威とはなんと便利なものだろう。
「お主ら、これから起こる事を口外せぬと誓えるか? 街の他の者達にも口外せぬよう言い含めると誓えるか?」
皆に語りかけるように言ってから、正面の商人に視線を合わせる。
「いったい何をなさるおつもりなのですか?」
「誓いもなく言える訳がなかろう。誓うと頷けばよいのだ。そうすれば目の前に迫りつつある脅威は去るに違いない」
「この人数を相手に隠し通せるはずもないでしょう!」
「黙れ阿呆」
折よく入った横槍を苦々しげに一喝する。
いやはや上手いものだ。
これで誰もが冷静さを損ねることになった。
私の提案に合理性がないことを知らされ、時間を掛ければ説き伏せられてしまうかもしれないという焦りを生むからだ。
「それで、どうか? お主も商人ならば、信用の大切さは重々承知しておろう」
「畏まりました。魂の誇りに懸けてお誓い致します。街の者には同業の者を通じて周知させることを約束しましょう」
私も誓いますと誰かが言った。
儂も、ワタシも、俺も、ボクも。声が続く。
だからなんとかしてください、助けてください、お願いします。
口々に都合の良い願望を並べ立てる。
良きかな良きかな。
私としては実に心安らかになる光景だった。
彼らはやはり人なのだ。
信仰という名の病に侵されていようと、私の知るそれと同じものなのだ。
そして人であるならば、民は斯くの如く己の利に狡い生き物であるべきだろう。
有事であればこそ人はその本質を露わにする。
この様なものを見れたこと、イシェルセナには感謝しなければならないな。
さし当たっては、事態を望む形で終結させることに全力を注ごうか。
背後に控えているキースとクゥへ顔を向ける。
「お前たち。白陽十戒の僕たるセ……こほん。我が名においてその禁を解く。白陽に帰依した黒の兵の力、存分に示せ」
「仰せのままに」
キースが腰の剣を握りながら頭を下げ、クゥは斧槍の石突で地面を打つ。
聴衆から感謝の声と安堵の溜め息が漏れ聞こえる。
気が早いことだ。
「まったく。どうなっても知りませんよ」
「ついて来なくとも良いぞ」
項垂れるイシェルセナへと不遜に言い放つ。
「師が行くと言うのに、行かぬ弟子が居りますか」
「では参るがいい」
言葉と共に街へ向けて一歩を踏み出す。
行く手から人が退いた。
これが信仰か。これが神威か。
なんとも滑稽で、まことに忌々しい。
目配せをするとイシェルセナは私の後ろについた。
神など私にとっては唾を吐きかけてやりたい相手だが、今は精々利用させてもらうとしよう。
人々の希望に背中を押される様に、私たちは燃え盛る市街へと走り出した。




