85.飢えは人の心を歪にする
日が暮れ始める頃、我々は野営の準備に入った。
大きな岩を背に火を囲み、持ってきた保存食に軽く手を加え夕食にする。
口数は少ない。
最初ほどではないが、長距離を行くにしてはかなりの速度で移動を続けたため、皆それなりに疲れているのだ。
ここまでに道程の3分の1ほどを消化した。
本当はもう少し先まで進みたかったのだが、イシェルセナの動きに心なしか鈍りが見えた気がして早めの野営を決めたのだ。
体力的な問題だと私は睨んでいる。
ひとりだけ魔法を使っていなかったからな。
おまけにこの痩身だ。
匙を握る指先、袖口から覗く手首、奴隷の首輪が外され露わになっている首筋。
華奢なんてものではない。
肉付きの薄い頬は、炎の照り返しを受けてなお青白く見える。
それはまるで、穴倉に落とされた当初の己を彷彿とさせた。
私の様に徹頭徹尾、魔力によって体を動かしていれば、肉体に備わる体力の影響はその有無さえ分からぬほどに微々たるものとなる。
そこまで行かずともキースやクゥの様に魔力で身体能力を補助すれば、消耗は肉体と魔力に分散され、肉体に依存する割合は減ることになる。
まあクゥはクゥで出力が高過ぎるのか、魔力の燃費が悪かったりするのだがそれは今は置いておこう。
イシェルセナは肉体のみを頼みとして動いている。
だというのに、肝心の肉体の状態があまりにもよろしくない。
「いつもそれだけしか食べないのですか?」
口にしたものと言えば、ビスケットが4枚にスープが小さな椀の半分だけ。
「……イラ殿は私を見てどう思われますか?」
「細いな、と」
それこそ、ふとした拍子に折れてしまいそうなほどに。
「安心、致しませんか?」
「私はどちらかと言えば不快に、ああいえなんでもありません。そうですね……世の人はそう思うのでしょうか」
つい零れた本音を慌てて取り繕う。
「イラ殿は少し変わっておられますね。キース殿はどう思われますか?」
「黒の民のオレに聞きますか。まあ求められているんで答えますけど、気を悪くしないでくださいよ。少しほっとしていましたね、紹介された時は。それから、言いたかないんですけど剣を合わせた今となっちゃ……ハハ、イシェルセナさんがそんな形でいてくれて、心底安心しています。恭順の証なんですよね、それ」
イシェルセナは静かに首肯している。
なるほど、言われて理解した。このイシェルセナの姿に込められた意味を。
まあ私にとっては、ただ不快なだけの情報であることに変わりはない。
そんなものでこの娘を縛れるはずがないと、私は確信すらしているしな。
だからこう、なんだ。飢えている人を見ている感じでただ落ち着かない。
私が飢えに酷く苦しんだからかもしれない。
とは言え所詮は他人だ。
飢餓で死にかけた人間なんてここまでで飽きるほど見た。
そこでいちいち私は不快に足を止めたか。
答えは否だ。
相手がイシェルセナとて、それは同じこと。
溜め息が漏れる。
こんなことで心煩わされるとか、阿呆もいいところだ。
「……まだ食べられますか?」
「おいイラ。それが不要って話を今」
「それはそれです。明日は今日の倍、とまではいきませんが、かなりの距離を走ります。今日の明日でどれほど足しになるかは分かりませんが、食べないよりはマシでしょう」
そう。これは別の話だ。
だが道理の話でもある。
私の信条としては、なにはともあれ己が身くらいは万全な状態に保っておくべきと考える。
最後に頼みとなるのは、己だけだからな。
そう考えるのは私がこの世界にとっての異物であるからに他ならないが、世と言うものはえてしてそういうものなのではなかろうか。
「体の方は問題ありません。久しく量を食べてはおりませんので、ひとまず程々にお願いしたいのですが」
「はい。では少し待っていてくださいね、私のおかわりも用意しないといけないので」
食材の詰まった袋を片手に鍋に向かう。
「あの……イラ殿はいつもそんなに食べておられるのですか?」
「魔法を使うととてもお腹が減るのです。私の場合、食べないとそれはもう簡単にぱたりと倒れてしまいますよ」
背中に掛けられた声に、手を動かしながら答える。
「オレたちの倍は普通に食いますからね」
「見てて気分悪くなる」
「知ってますか、持ってきた荷のほとんどはイラの食い物なんですよ?」
キースとクゥがここぞとばかりに言葉を重ねた。
おっなんだ、不服か?
量を食ったらいかんのか?
その分、荷は多く持っているだろう。
それに不味い旅の飯を、ひと手間加えて食えるものに整えているのは私だ。
温厚な私ではあるけどね、飯を妨げるような行いだけは許さないよ。
「君ら好き勝手言ってくれていますね。食事を用意しているのが誰か忘れていませんか」
「申し訳ありませんでしたッ!」
額を地に着けん勢いでキースが頭を下げた。
付き合いが長いからな。気づいてしまったのだろう。この話題ばかりは冗談では済まされないということに。
思えば、出会いからして食い物がらみだった。
「……外道。鬼畜、卑劣漢」
「残念です」
キースが慌ててクゥに耳打ちをする。
いや、流石にそれを咎めたりはしないよ。
そこまで大人げない行いをするつもりはありません。
「うっ……ごめん、なさい」
不承不承といった体だったが、クゥが謝罪の言葉を口にした。
鷹揚に頷きそれを受け入れる。
分かってくれれば私はそれで十分なのですよ。分かってくれれば。
「イラ殿は寛容なのですね」
その言葉に調理の手が止まる。
振り返ると、イシェルセナが顎に指を当て思案気に私を見ていた。
「十戒の僕を目指す者としては、少し考えが甘いでしょうか?」
「いえ……そうですね、少しだけ。……分かっていて何故その様な接し方をされるのですか?」
「命を救っていただいた大恩がありますから」
「恩義、ですか」
「はい。恩義です」
あなたには恩を感じていますよ。一応ね。
例えそれが己が利を求めた結果に過ぎなくとも、救われたことには違いない。
まあだからと言って、あなたが信に足る人物だなんてことは欠片も思ったりはしないわけですが。
「それでは、危地に際しては是が非でもお助けしなければなりませんね」
えっ、なにそれ。まさか上から物申していると捉えられた?
扱い良くしてほしければ命助けろと。
いやいやそんな大層なこと考えたりしませんて。
どうしたものかな。
「頼もしい限りです。ですがそう気にされずとも、雇い主の奴隷に無体な真似はしませんよ。安心してください」
「ですがそれは、私ではなく私の主への義理ではございませんか?」
あ、これ違うわ。
恩義で私を縛ろうという魂胆だ。
いりません。恩の押し売りとか。
しかしなあ、本当にそうした場面に遭遇したら、借りを作ってでも助けてもらうべきなのだろうな。
後が怖いものの、命あっての物種。
保険と、そう考えておくか。
ただ言葉を口にしただけで命拾いするというのなら儲けもの、というわけである。
「それもそうですね。ではいざという時には遠慮なく頼らせて頂きましょう」
「お任せください」
それをアテにして動くようなことはしないけれどね。
言ったでしょう。最後に頼れるのは己のみであると。
イシェルセナは私の返答に満足したのか、それ以上は踏み込んでこなかった。
まあこのお嬢さんのことだから、私の申告が虚実入り混じっていることには気づいているだろう。
問うたのは、それを私がいかなる建前で行っているのか、だと思うね。
話の結末はまるで別のところに着地してしまったが。
収穫もあった。
この娘は、私を手元に引き入れただけでは満足していない。
首に縄をかけておいてなお足りぬ、と。
いったい私のなにを見てその判断を下しているのかね。
価値を示したいとは思っている。
しかし勝手に価値を決められるのはな。
こちらの意図せぬところに重きが行くと、予期せぬ事態を招きやすくなる。
上手く認識を改めたいものだが。
私は鍋に向き直る。
そして味の仕上げに取り掛かった。頭の片隅で対策を思案しながら。




