81.弱みを握る怖さとは
私はどうもこの世界を、魔法というものをまるで理解していなかったらしい。
いや、不足は自覚していたか。
黒の家にあった魔法関係の書物は、すべて戦場における魔法の役割に終始していた。情報の集まる環境を欲した理由のひとつには、その穴を埋めるためというのがある。
だがこれほどまでとはな。
イシェルセナの言う『芸』を見せられた私の心境たるや、驚愕のあまり肝胆を寒からしむるものであった。
魔法を用いた長距離情報伝達手段。
可能性を考えなかったわけではない。
ただ、得られた情報にその存在を肯定できるだけの材料を見つけられずにいた。
しかしそうか、あるのか……。
この娘ならば、ラーデ・ロムニスで起きた事件について知るのも容易いことだったろう。
所在を突き止められるのはそれとはまた別の話だが。
こんなもん私なんぞに見せていいの、悪用してしまうかもよ。
なんて言ってはみるがな。実は今の私には、これを些細と言い切れてしまうくらい気になるものが、別にある。
イシェルセナの様子がおかしいのだ。
青白い顔で机まで戻って来たと思ったら、手を着き俯いたまま黙り込んでしまった。息遣いは深く、早くはないものの荒い。
今の彼女には、常の泰然とした余裕は欠片も見られない。
はてさてこの様はどうしたものだろう。
「大丈夫ですか。あまり顔色が優れないようですが」
「じきに、治ります。お恥ずかしながら、私は魔法が苦手なのです」
「ひとまずこちらに座ってください」
「いえ、私は」
「いいですから」
「お気を煩わせ――」
今はと、弁明を述べようとする口の前に手をかざす。
「言葉は控え、体が落ち着くのを待たれるのがよろしいでしょう」
イシェルセナはあの感情の読めぬ黄金色の瞳でじっと私のことを見ていたが、やがて小さく頷くと、大人しく椅子に体を預け目を瞑った。
まったくどうしてこうなった。
芸を見せると息巻いておいて、これはない……だろう。ないな。
この娘が、こうなることを予期していなかったと。
天地がひっくり返ろうとも有り得ん話だ。
では初めから分かっていてやったのか。私に見せるために。
可能性までは否定できん。
実際、意味はあった。
私は深く考えもせず、この娘を気づかう様な行動を取ってしまったのだから。
弱みを見せて相手の出方を窺う、か。
不測の事態に直面した時ほど、人の本性は表に出るものだ。
これは私にとっては紛れもなく予期せぬ出来事。
自らの弱点すら利用して揺さぶりをかける。
この娘ならやりかねないとは思う。
ただ同時に、そんなリスクを負うような行動を取るかという疑問も残る。
仮にすべてが演技だとしたら。
あれが、演技か。
すこし大仰過ぎると思う。
演技がではなく状況が。
それでも否定はできない。
裏の裏とか、その更に裏を張られているのだとしたら、凡人の私には考えるだけ無駄だろう。
畢竟、その時はなるようにしかならんのだ。
すべて演技と言うのはさすがに考え過ぎだとは思うけれどね。
ただな、意図のない行動という線だけはないのだよ。
退路を断ってまで私を手元に引き入れようとしたのだから、この娘なりの目的はあるはずだ。
それと今回の行動とが、どうにも噛み合わない様で気になるのだ。
読み違いは、あるだろう。
小人に過ぎぬ私の浅知恵で見通せる先など極わずかだ。
無能には懇切丁寧に解説を付けてもらいたいものだが、見限られないためには多少は大きく見せる必要がある。
まったく世の中ままならぬ。
それほどの時間はかからず、当人の言の通り体調は戻ったようだった。
詫びを事前に断ると、やや不服そうな顔をされた。なんでや。
それから私は、彼女が書簡を眺めているとしか思えない速度で確認し、報告書らしきものを書きあげる様を見学した。
うむ。この子やっぱおかしいわ。
それともなんだ、夜叉族がおかしいのか?
魔法種が皆こんなんばっかだとしたら、生物としての能力に差があり過ぎて生き残れる気がしないんですけど。
あと口を挟むような野暮なまねはしなかったが、これって国家機密の漏洩とかに当たるのではないだろうか。
いや後から確認する気もないけれどさ。
イシェルセナが一連の作業を終えたので声を掛ける。
「ここ訪ねる者は本当に居ないのですね」
「私にはこちらの仕事もありますので、よほどのことがない限り寄らぬようにとお願いしているのです。これくらいの時間帯ですと、ケッゼイ様もお訪ねになられません」
「知らなかったとは言え、不味いことをしてしまいましたか」
「よほどのことで参られたのではありませんでしたか。それに、常であれば今頃は馬車の上です」
「そうでした。っと遅くなりましたが、あれほどの『芸』を見せて頂いたのは初めてで、感嘆の至りにございました。ところで、他の夜叉族の方々は、もっと容易くああいった魔法を使われるのですか?」
「いえ、逆に殆ど居ないでしょう」
「おやそうなのですか?」
「得手不得手で言えば、私は間違いなく得手と呼ばれる部類に入るのでしょう。ただ、魔法はどうにも水が合わず、使うと体調を損ねることが多いのです。平時はそれほどではないのですが少し、気が緩んでいたようですね」
自嘲を垂らし込んだような笑みを私に見せている。
なんだろう。再会してからこちら、言葉を交わした中で一番怖い。
自分の欠点を晒して、蔑み貶められることで相手の心中に入り込む。
己の尊厳をすり潰し、優越感という商品に仕立て強者を満たすことで、己という価値を示す。
弱者が強者に取り入るための常套手段である。
それが手段として成立するのは、優越者たらんとする強者の欲求が存在するからこそだ。
この世界の人々の承認に対する欲求は、地球と比べて強いと思う。
神なんてものが実在し、その神に名を知られることこそ誉れという信仰があるからだ。
なればこそ、イシェルセナの自らを軽んじるような行為は言葉以上に重い。
ましてそれを見せられている私は凡夫。
絶対的強者であるこの娘が取るに足らぬ弱者である私に、いったいなんの意図があってそんな表情を晒すのか。
なにが目的だ。
なにを考えている。
その行いの裏を想像すると、身の毛もよだつ恐怖に支配されそうになる。
見たことは忘れろと脅された方が、遥かに安心できると言うもの。
「……そうした、苦手というものがあるのですね。初めて聞きます」
口の中はからからに乾いていた。
「しかしそうですか。私で代わりになれるようなことがありましたら、気軽に言ってください。微力ながらお力添えができれば……あの、どうしてそこで首を傾げられるのでしょうか」
「おや、これはお見苦しい姿をお見せしてしました。驚嘆のあまり童心に返ってしまっていたようです」
いや童心って、あなたまだ成人したかどうかって年頃でしょうよ。
というか驚嘆と聞こえたのですが。
なにをそんなに驚くようなところがあっただろうか。
どうにも噛み合っていない様な感じはするが、突くのもな、あんなのを見せられた後だとどんな罠があるか分からないし怖い。
仕方なく、私は内心の不安を圧し隠したまま、今しばらく当たり障りのない話を続けたのだった。




