70.鬼の少女
白い吐息で指先を温めながら、私は奴隷兵たちの天幕の間を足早に抜けていく。
黒幽季の厳寒にも緩みが見え始めたが、布を渋った奴隷用の僧衣とこの肉の薄い体とでは、露天で兵らと共に取る朝食はいささか身に堪える。
闇の月の僕である以上、身分と魂位に沿った体裁を整えるのは戒律で定められていることだ。しかしこれは無駄に消耗が増えるだけ。亜人の僧兵の動きにも支障が出よう。
戦地での特例。やはり親父殿に上申すべきか。
宿営地の外れにある己の天幕に逃げるようにして戻ると、真っ直ぐ火鉢に向かい炭を足し、角を隠すためのフードを払う。
手先が温まるに従い憂鬱が胸の内を蝕み始めた。
いつものことだ。これからひと仕事しなければならない。
魔法を使っての仕事だ。あの傲慢で無能な絶対者の祝福を、己が身に受け入れる。考えただけで不快で吐きそうになる。
火鉢から離れ執務机へと歩み寄りながら、天幕の近辺に人がいないことを確かめつつ、大陸中に散らばる標を頼りに魔法を展開していく。
ふたつの地点を門と呼ばれる空間の歪みで繋ぐ、黒の月の根源的な魔法である。
人間には使えない。
仮に適性があったとしても、門をひとつ作るだけで魔力が枯渇し卒倒する。
死ぬ事もあると言う。
夜叉族ですら使えぬ者の方が多い希少な魔法だ。
初めは指が通るかどうかという大きさで、同時に103の門を現出させる。
嫌悪感に鳥肌が立ち吐き気が増す。
そのことに少しだけ満足と安堵を覚える。それは神の呪いに私が屈せず、未だ私でいられているという証。この感情だけが私と言える。
口腔に溢れる唾液を不快感ごと飲み込み、机の上のハンドベルを取り3度鳴らす。
引き出しから長い火箸を数組手に取る。机の脇に置いてある円筒の籠も。
それから全ての門を人の頭ほどの大きさに広げ、それぞれ検めていく。
繋いだ先は魔法による目印を施した、ひと抱え程の大きさの木箱だ。
箱の中に書簡の類があれば、門に火箸を差し入れそれらを摘まんで回収し、籠に放り込む。検め終えた門は順次閉ざし、指先が門に触れぬようにだけ気を配る。
門というのは不安定なもので、生き物が通ると簡単に揺らぐのだ。
揺らぐとどうなるかと言うと、すっぱり切り落とされたり、捩じ切れたり、圧し潰されたり、引き伸ばされたり。
ろくな事にはならない。
戦時下ではそれでも、生き物を敵地に送り込む用途で多用されたらしい。
生き物と言っても人ではなく、魔物や魔獣だが。
全ての門から書簡を回収し机に戻ると、途端に疲労感が押し寄せる。
肉体的なものではなく精神的なもの。
椅子に座り、少しだけ瞑目し息を整える。
それから回収した書簡に手早く目を通していく。
書簡に記されているのは、大陸各地に放ってある間諜が集めた情報だ。
これら全てに目を通し重要度を振り分け、目録を兼ねた報告書を仕上げる。
そして同じものをもう2通認め、父には書簡と報告書を、兄には報告書を門を介して送る。最後の1通は私の保管用だ。
帝国時代の高速情報網の再現。
それが父の私に求める役割だった。
基本的にはこれで1日の仕事は終わりだ。
後は表の活動として聖典を写経したり、奴隷相手に説教したり、奴隷兵の訓練に加わったりして過ごすのだが。
稀に来客があることも。
「入る」
このように。
二重の幕を潜って、僧衣を纏った己とはまるで似た所のない兄が入ってくる。
あの父から生まれたとは思えぬほど上背があり、顔かたちの整った優美な姿をしている。母親に似たのであろう。
母似と言う点では私も同じだが、私は母も小柄であるからな。
兄にはひとつだけ父と似ているところがある。
瞳に宿る野心だ。
あれは紛れもなく父と同じもの。他の兄らに足りぬものだ。
智謀の類で兄らに一歩及ばぬのがなんとも惜しい。
それに、やや浅慮な所がある。
下婢の元に自らが足を運ぶ将が何処に居るというのか。
「愚物」
「あ、あまりな言い様ではないか?」
「失礼。呼びつけて下されば参りますと、そう幾度も申し上げておりますのに、若様がまるで聞き入れて下さらぬものですから」
「わしにも息抜きくらいさせろ」
寝台の脇の椅子を机の向かいに運び、荒々しく座る。
思えば時折表に出るこうした品のない所作も、親父殿に似ているな。
「外聞があり申す」
「なに、見咎められてはおらぬ」
確かに兄は人間としては抜きん出ている。夜叉族の血が色濃く出たのであろう。魔法種との混血では間々あることだ。
だが兄は純然たる人間。上は幾らでも居る。
こと隊長格の者は何れも兄が直接声を掛け集めた選りすぐりだ。知らぬなどとは言わせない。
「ザッハト殿が相手でも同じことを仰るつもりですか?」
「む。ダインはちと分が悪い。しかしメアよ」
「イシェルセナ、あるいはラクハサとお呼びくだされ」
「お主、近頃わしへの当りが心なしかきつくはないか?」
「面倒、いえ。こう足繁く通われていては、身の上が露見するのではと気が気ではないのです」
「今、面倒と」
「兄上は耳が遠くなりましたな」
「……まあよいわ。今日はお主の好みそうな話を持ってきたのだ」
「詰まらぬ話であれば追い返しますぞ」
「構わぬ構わぬ。黒狸から得た情報だ。お主は間違いなく食いつくぞ」
「親父殿であるか」
「うむ。ラーデ・ロムニスという街を知っておるな」
知っている。要衝の古都市だ。
今は魔境が広がり西の碑塔街道も潰れ、その価値はやや減じたかに見えるが、隣接するクーベ領が独立したことで以前にも増して重要な土地となっている。
だがそれとは別の理由で、私はその街をよく知っている。
もう4年も前になるが、その地には札を付けてひとりの子供を送り込んだ。
もし無印であれば遅かれ早かれ露見する。そのため親父殿に申告もした。
事後報告という形ではあるが。
こうして兄に情報が流れてきたのも、その件あってのことだろう。
しかしそうか。親父殿が動いたか。
いささか時期を逸している気がせぬでもない。
無印を潜ませた要地は他にも数多く、早急に手を打つのが望ましい箇所も多い。それらを差し置いてとなれば、天意がアレを消す方向に傾いたと見るべきやもしれぬ。
「もしや、サナトア傭兵団に動きが?」
「くはは。流石はメア、我が妹よッ。然り、サナトアが動いた。無印を口実に強制居住地区で黒の民相手の殲滅戦よ」
やはりアレを手放したのは失敗だったか。
惜しむような、枯らした感情に燻る情動は果たして本当に私のものであるかな。
己の内心は露と表には出さず、言葉を交わし合う。
「飾らず虐殺と言えばよろしかろう」
「それがそうとは言い切れぬようでな。獣兵4騎、軽歩兵2個中隊を失ったらしい」
ロムニスの黒の民は千に満たなかった筈。
先の魔獣災害で侮ったか、それとも……。
「使い手は」
「数はそれほどでもない。ただどうも、あのザイネルが使い手の小娘を取り逃がしたらしい」
「奇異な話ですな」
ザイネル・キアージュ・アルクス。
三天剣の地位を約束されながらそれを蹴った、在野の雇われ騎士。
悪名ばかりが世に溢れ、それゆえに地位を下されたのだとの噂が巷では根強いが、真実は当人の言の通り。
名を連ねる者が実力者であることは疑わないが、かの老血剣の名が上がらぬ時点で、三天剣など白の教派の広告塔に過ぎぬと知れる。
さりとて腐っても権威。それを蹴るなど真っ当の者にはできなかろう。
斯様な怪人物がただの使い手を始末し損ねるなど有り得ぬことだ。
「あるいは取り逃がした娘、聖痕を宿していたのやも知れませぬ」
我ながらなんとも白々しい。
ザイネルの手を逃れるなど、その娘、黒の瞳の保持者に相違ない。
「聖痕を宿す者としての勘か?」
ぞわりと不快に乱れそうになる感情を、悟られぬよう密やかに、服の上から横腹に爪を突き立てるようにして握り潰す。
「此れはそう都合の良いものではありませぬよ。して、呼び水として使った無印は?」
「さてな。始末したと公表しておるようだが」
「骸が晒されておらぬと」
「いや、晒されてはおるが、状態が酷くて判別できぬようだ」
踏み込んでみても札に関する情報はなしか。
これはともすればともするやもしれぬ。
生きているとしてどう動く。
アレは人を模倣する狡猾なイキモノだ。それだけに綻びとなり得る私は無視できぬ。
そこに疑いはない。そうなるよう仕込んだのだから。
懸念はアレ自身の迂闊な行動で周囲にその特異性を知られてしまうことだったが、これまで得ている情報からして考慮するに値しない。
ならば想定される行動は2通り。
私から身を隠そうとするか、私に近づこうとするか。
草たちが未だ手がかりとなる情報を掴んでいないことから、主導権はあちらが握っていると考えるのが妥当だ。
「向き不向きはありましょうが、醜態ですな。彼の傭兵団は野戦でこそ光ると見ておりますが、兄上は如何に?」
思案の片手間に会話を続ける。
「全く以て同意見よ。団長のフラーソウには、細部へ気を配らねばならぬ策は合わぬ。突破力こそ彼の傭兵団の真骨頂よ」
「さりとて役目は果たさなければならぬでしょう。兄上であればどう動きますかな?」
「そうであるな……」
アレがどちらを選択するか、そこまで読むのは難しい。
隠れ潜む公算の方が遥かに高い。
愚劣であれば当然。有能に過ぎてもまた身を隠すことを選ぶであろう。凡庸であって五分。ただ賢しいだけの存在なら、やはり危うきには近寄らず身の安全を優先するに違いない。
黒の民であることが、無印であることが、今の世を生きる上でどれだけの困難を伴うのか。庶人では生涯をかけてなおその片鱗しか掴むことのできぬ問いの、真なる答えに辿り着けてようやく、私と手を組むことの意義がもう一方を大きく上回る。
ふふ。私は随分とアレに期待をしているようだ。
「メアよ。なにがおかしい」
おお。私としたことが思考が表に出ていたらしい。
由々しき事態である。執着など己のものとも分からぬ忌むべき感情だ。それが意図せず表に出るなど。
けれど仕方なかろう。これまで何十と無印を見出しては死地に送り出して、本物はアレただ1人だったのだ。
使える駒であって欲しいと願うのは当然の思考。
「兄上。ゆめ慢心なされるな」
「そのようなことか。安心せい。わしは親父殿はおろか、兄者らにも劣ることは重々承知しておる」
はてさて私は如何に動くべきか。
アレが身を隠すことを選んだ場合、私にできることは多くはない。
その智謀が己を上回るものであった場合に備え、情報を集め、自身の存在を表に出さぬこと。
その前に、アレの生死を詳らかにするのが先決か。
逆に私に助力を求めるというのであれば、手の内を読むのは容易い。
私の行方を探るため、双方の道が交わった彼の地へ赴くのは自明とすら言える。
ただこの場合、ふるいにかける必要はあるな。
思考をまとめ、用意してあった幾つかの方針から瞬時に行動計画を練る。
「兄上が慎重な方で安心し申した。これで私もこの地を離れ易いと言うもの」
「……何と?」
「この地での私の仕事は終わりましたからな。そろそろ親父殿の元へ戻ろうかと」
「そうか。寂しくなる。が、止めはせぬ。所詮わしらは親父殿の駒よ。お主にも次の役割が待っておろう」
思っても口にせぬのが小人の知恵であろうが、この兄には言っても詮無きことか。
「道は南方へ少し足を延ばす形を考えております。ヘンビクフラとドートレンが気にかかる故。長いこと草に任せきりでしたので、この目で直に見て参ろうかと」
「どちらも狸の策は上手く動いておったのではないか?」
「だから見に参るのですよ」
「お主の考えは読めぬな。読めぬが足は必要であろう」
言うが早いか膝を打ち席を立つ。
付き合いが長いというだけではない。決断と行動の速さは、兄上の秀でた所のひとつだった。
「隊商と護衛を用意しておく。護衛長のみ手の者を送る。指揮はその者を介する形で構わぬか?」
「その通りに。できましたら馬車を2台程追加で。食料を多目に持って行きたく思います」
「よかろう。支度が整い次第、使いの者を遣る」
将としての顔でそう告げると、僧衣を翻し颯爽と天幕から去っていく。
これで私の時は動き始めるだろうか。
横腹の聖痕に指を這わせる。
生きているというのなら、その天運で引き寄せてみせるが良い。お前をここまで育てた化け物だ。さぞ会いたかろう。
殺させてはやらぬがな。
期待外れの小者に成り下がっていようと、この際構わない。
手元に置いておけば使い道もあるだろう。
捕まらなかった場合はさて、次の機会は10年先か20年先か。
此度の様な失敗も含めれば100年は見ておくべきやもしれぬ。
その時は、ふむ。親父殿に頼らず自由に動ける立場を得るのも面白そうだ。




