62.そして地獄の日が始まる
ラーデ・ロムニス編の最終章です。
「師匠。ごめん。おれのせいで、ごめん」
無味乾燥な石壁の小部屋に、悲鳴じみた謝罪が響く。
「泣くな阿呆」
床に転がされ、血と涙の染みを作るフィオに、呻きを堪え声を絞り出す。
正直、お前の相手をしてやれるほど、余裕がないんだ。
半裸に剥かれた俺は、梁に通された鎖に右腕を縛られ、宙に吊るされていた。
腕が抜け落ちないようにとの配慮から、掌を貫くナイフで鎖に固定されている。
まあ腕には他にも、投擲用のナイフだとか太矢だとか、的にして遊ばれたおかげで色々と刺さっているんだが。
背中は背中で鞭にしこたま打たれたから、いったいどんなことになっているのやら。
頭から被せられた水が、これまた傷に染みる。
足下には吐瀉物混じりの、薄く朱の滲んだ汚らしい水たまりができていた。
乾いた寒風が、開け放たれた窓から容赦なく吹き込む。
誇張なしに、いつ凍死してもおかしくないくらい寒い。
ギリギリを責めてるつもりなんだろうが、俺じゃなかったら十中八九死んでる。
体内の魔力の流れを弄って、冬眠に近い状態を作りだしているから、なんとか生き永らえているだけだ。
見込みが甘かった。
まさかログスター兄弟がここまでの暴挙に出るとは思わなかった。
◇◇◇
悪ガキのテグが、フィオが捕まったと助けを求めてきたのは、朝食を取ってしばらくしてのことだった。
ログスター兄弟の要求は、俺が出向くこと。
話があるのだろうと思った。嫌がらせを受けるのは覚悟の上だった。
しかし、これほど暴力的なオハナシになるとは。
黒の家では殺しは法度だ。
そこに結び付きかねない怪我を負わせるのも、同様に固く禁じられている。
殺しほどではないが、酷い罰が待っている。
集団で個人をともなれば、今後の仕事に差し支えが出るかもしれないほどだ。
黒の家を追い出される切っ掛けとなった乱闘でも、俺を刺した奴は、指を2本切り落とされている。
気になるのは、ログスター兄弟に罰を恐れる様子がないこと。
けれどそれとなく聞き出した限りでは、これは黒の家の総意という訳ではない。
どうにも不可解だった。
「惨めだな。けど手前は無印、元々こうなる運命だったのさ。身の程を弁えもせず、手前らはやらかし過ぎた」
俺の腫れた頬を、手の甲で弄ぶように叩きながらロッゾが嗤う。
青錆街による緊急呼集の鐘が鳴り響いたのはそんな時だった。
ロッゾの眼が見開かれ、侮蔑を孕んだ喜悦が目元に刻まれる。
そして哄笑がふたつ、鐘の音に重なった。
「あっはっはは、あの野郎の言う通りだ」
「くっはは、本当に鳴りやがった」
「ざまぁねえな、無印。手前は手をこまねいて見てろ。お前ら行くぞ!」
ロッゾとロイは勝ち誇るように言い残し、足早に去って行った。
建物に残ったのは見張りが数名。
殺す気はないようだが、間違いで殺されるということは十分に有り得る。
先んじてこの場にいる人間をすべて殺し、そのまま街から逃走する。
そんな暴力的な思考が、いかにももっともらしいものであるかのような錯覚すら、俺には生まれ始めていた。
実際、全力を出せばやってやれない人数ではなさそうだった。
問題は逃走経路だ。
緊急呼集がかかった以上、地下は危険かもしれない。魔獣そのものよりも、討伐隊が厄介だった。
この消耗した状態で解放持ちに追われるとなると、逃げ切れる自信がまるでない。
結局俺に出来たのは、主観時間を遅らせて、魔力の消耗を抑えることだけだった。
◇◇◇
刻々と時間だけが過ぎ、そうして今に至る。
もう作戦会議も終わり、討伐が始まった頃だろう。
黒の家の方針が変わったから、俺たちの班も討伐に駆り出されるはずだ。
周囲から孤立しているこの状況下で、初の討伐を放り出せばどうなるか。
ダルハに潰されるのがオチだろう。
俺たちの班はそこで終い。計画もなにもかも台無しだ。
エムリに俺の動きは伝えてあるから、失踪と見られることはないはず。
機を見誤るなよ、キース。
そんなことを考えていると、遅滞させた意識に引っ掛かるものがあった。
――まさか。
階下が俄かに騒がしくなる。
鈍い殴打の音に、時折金属同士のぶつかる甲高い音が混じる。
俺とフィオを見張っていた奴らが、慌てて武器を掴み階下に走っていく。
間違いない。
馬鹿が、こっちに来るとかなに考えてやがる!
「し、師匠! これって」
「フィオ。後ろ向いて」
見張りが去るや否や拘束を解いた俺は、刺さっていたナイフでフィオを縛る縄を断ち切る。
間もなく階下が静かになった。
フィオの拘束を解き終え、腕に刺さったナイフや太矢を取り除いていると、キースが抜身の剣を片手に部屋に入ってきた。
手にする刃は、薄く血に濡れている。
「殺した?」
「まさか。お前のその傷よりはマシだ」
なら、死にはしないだろう。
「どうしてこっちに来たの」
「お前がいつかオレに言った台詞をそのまま返してやる。お前に死なれるとオレが困るんだよ」
「連中に僕を殺す気はなかったみたいだけどね」
「そんなの。運よく死ななかっただけじゃねえですか!」
俺の剥ぎ取られた服を手にフィオが叫ぶ。
「本当にね。この時期の水責めは辛かった」
「フィオ。服は着せてやるな。傷に悪い」
「背中の止血はいらないよ」
「なら拭くだけで……ッ! し、師匠。師匠の身体、氷みたいに冷てえよ」
また泣き出してしまいそうな声だった。
そう心配しなさんな。
「大丈夫。少しズルしたから。それよりキース」
「行けるのか?」
痛覚を鈍らせているので、背中に関しては動きにそれほど支障は出ない。
右腕は、酷いな。
掌の骨は貫かれてるし、腕は太矢で腱を切られている。
自然回復に任せたら、使い物になるまで3日はかかりそうだ。
「僕の役割は戦うことじゃないからね。フィオはどう? かなり殴られてたみたいだけど」
言いながら、取り上げられていた武器の類の回収を行う。
「やれます!」
「なら急ごう」
フィオに装備を放り、キースを促すように出口へと足を向ける。
ログスター兄弟が俺に放った言葉は気になった。
けれど今はなによりも、追及の口実を与えぬよう動くことが先決だった。




