17.虚ろなる力
俺が黒の家で生活するようになって、早くも2月あまりが経過しようとしていた。
ここでの暮らしは、まあ悪くはない。
快適からは程遠いものの、餓死はないので俺はこれで満足している。
問題なんてものは、数え始めれば日が暮れてしまう。
例えば、屋外を歩くときには建物に近づいてはならない。晴れで曇りでも、俺の歩くところだけ汚水の雨が降り始めるからだ。
きつかったのは食事時か。
食い物を手に食堂を歩けば、どこからともなく足が伸び、肩がぶつかり、突き飛ばされる。虫が飛んでくることもあったし、食器目がけてゲロった奴も居たな。
挙句の果てには前触れもなく乱闘が始まって人が降ってくる始末。
食堂での騒ぎは丸1日の食事抜きだってのに、俺が飯を食えなきゃそれでいいって糞がここには多過ぎる。
黒の家の掟に、同族での殺しは法度とあるが、殺さなきゃなにしてもいいって風潮やめてくれないかな。
おかげでずいぶんと注意力が鍛えられたが。
地下で魔物に真っ先に気づくのはいつも俺だ。キースより早い。
まあ言わないけどな。たまにキースの警告を補足するくらいだ。
繰り返すが、黒の家に不満はない。
窮屈で煩わしい毎日だとしても、最低限の衣食住は満たしてくれるからだ。
それに、直接的な暴力に晒されるようなこともない。今のところは、だが。
まあまず間違いなく、闇月の札のお陰だろう。
日本で生まれ育った感覚からいえば、真っ先にこれを狙いそうなものだが、そこはやはり神の実在する世界。
どれだけ敵意と憎悪を滾らせようと、神の証を害することはできないらしい。
これ自体にはなんの力もないだろうに。信仰とは斯くも恐ろしきものかな。
そんな俺の1日は、鍛錬と勉強と飯で片付く。
魔物を殺すために体を鍛え、技を覚え、知識を蓄える。
別に魔物退治に生き甲斐を見出したわけではない。
否応なくキースの隣に立たねばならなくなったからだ。
そのためには力がいる。
あいつらを囮にすればいい?
既に俺が囮なんだよ!
そりゃあいざとなればあいつらに押し付ける。その方法はいつも考えている。
でも、だからこそ、普段はその思惑を一片たりとも見せてはならない。
ゆえに地力が求められる。
食事は日に3度、朝昼晩の決まった時間帯に出される無償のものと、それ以外の時間に出される、間食と呼んでいるが、有償のものとがある。
ただ、仕事に出ると昼食時に帰ってくるのは難しく、それもあって仕事日に限り間食も無償で提供される。
仕事日は、できるだけ間食を取るよう心掛けている。
食事もまた鍛錬の内と言えるからだ。
鍛錬では専ら体作りを基本にしている。
武器を振るうための体だ。
素振りもやるが、それも体に馴染ませるのが目的。
子供の記録では長柄武器の訓練にも重点を置いていたようなので、型をなぞることはできると思う。
ただ生憎と、基礎を叩き込んでいる余裕がない。
体術に関しても同様で、人を相手にすることを想定していないため、受身など使えそうなものだけ覚え込ませている。
まあ、実地で効果の程を強く感じるのは、キースとの地稽古ばかりなのだが。
魔法については、興味深い発見がある。
未だ魔法は使えない。使える気配もない。
ただ、日に3度しっかりと食事をするようになって体感覚が変わった。
突然なんだ、魔法の話ではないではないか、と思うかもしれない。
しかしこれがそうとも言い切れない。
初め、肉体を強く知覚できるようになった、と思った。
薄ぼんやりとしていたものが、はっきりと感じられる。
あれこれと考えを巡らせた今だからそう思うのかもしれないが、あれは体に神経が通ったような、そんな感覚だった。
違和感に意識を傾ける日々を送った。
そしてあるときはたと気づいたのだ。
血液とも違うなにかどろりとしたものが、体の内側を流れていることに。
焼けるように熱く、焼けるように冷たい。
けれどそうと意識しなければ気づくこともできない。
在るようで無く、無いようで在る。そんな虚ろなもの。
そうでありながら、俺は在るということに気づいている。
そしてなんだか納得してしまったのだ。俺が感じたのは、これが在るということなのだと。
俺は地球にいた頃と同じような感覚で、今の体を動かしているわけではない。
ならどう動かしているのだと聞かれても答えられない。
いや。答えられなかった、少し前までは。
俺が体を動かそうとすると、意識をなぞるように、その在るのかも無いのかも曖昧なものが動いていた。
だが考えと動きとの間には、若干のずれが見られる。
ほんの僅かだ。
身体能力の差が、肉体の動きの帳尻を合わせてしまうような、ほんの僅かな差異。
これが体を重く鈍く感じさせていた原因であると、気づくまでにさしたる時間はかからなかった。
同時に、俺はこの曖昧なものを介して体を動かしているのだと理解した。
これを直接動かせないものか。俺の関心はそこへ向かった。
結論から言えば動かせた。
最初はまるで上手くいかなかった。
なんとなくで動いていたものまで、動かなくなる始末。
しかし一度できてしまうと、逆にこれまでなにに手間取っていたのか、首を捻ることになった。
ただ、それで俺の動きが良くなったかと言うとそうではない。
むしろ悪くなった。
勝手が変わったのだ、仕方があるまい。
しばらくして、俺はこれが魔力なのではないかと考えるようになった。
神の奇跡たる魔法を顕現させる力の源。あまねく人が持つとされるもの。
在ると知られているのに、それがどのようなものか語られない、曖昧なもの。
他に適当な概念に思い当たらなかったというのも、理由のひとつではある。
自身の体の仕組みに気づけたのは僥倖だった。
俺には己の肉体に対しどこか、人間の皮の内側には砂が詰まっている、そんな感覚を持っている。
以前はそれほど強く意識するようなものではなかったのだが、魔力の扱いに慣れるにつれ、その感覚は強まっていた。
嫌悪感はなかった。
むしろ、これにも意味があるのではないかと考えた。
肉体を構成する砂へ魔力を染み込ませ、行き渡らせる。そんな着想に至ったのも、偶然ではないだろう。
俺は魔力を操ることができる。肉体は魔力によって操られている。ならば、肉体を魔力で満たし、その魔力を操れば、それはより直接的に肉体を操ることに繋がるのではないか。ともすると感覚的に、地球での体に近いものとして動かせるのではないか。
初めはそんな考えだったように思う。
結果は、良くも悪くも想像以上のものであった。
まず、感覚的に動かせるなんてことにはならなかった。
反対により意識的に動かさねばならなくなった。
これは、かつてそうであったように、意識下にない動きの伝達が、魔力以外の肉体部分には作用していたためではないかと思われる。
かなり強引な例えになるが、今の俺の平時がオートマ車だとすると、地球での体は自動運転車、全身に魔力を通した状態がマニュアル車みたいなものだ。
一方で、運動能力は劇的に向上することが分かった。
常とは比較にならない。魔法を使った状態のキースにも劣らないだろう。
疑似的な身体強化と見ることもできるが、残念ながら違うと考える。
俺のこれは、ただ強引に魔力で肉体を動かしているだけだからだ。
おそらく、この魔力操作による身体能力の強化は、この世界の人にはできない。
理由はいくつかある。
子供の記録にないのがひとつ。
キースがやり方を知らないというのがひとつ。
他の黒の民の素の身体能力が、これを使った状態の俺に大きく劣るのがひとつ。
魔力の操作について言及されていないのがひとつ。
特に最後のものが大きい。
先にも述べたが、魔力そのものは一般的な概念である。
量の多寡、力の強弱で論じられる類のものでもある。
であるにも関わらず、それがどのようなものであるかは知られていない。
知覚していないか。知覚していても干渉できないため認知されていないか。はたまた魔力それと認識できないか。
神の奇跡を具現化する力だ。神によってなにかしらの制約がかけられていてもおかしくはない。
魔力によって直接体を動かしている件については、なんとも言えんな。
調べた限りでは、普通ではない。
魔物は基本的に神経を介して動いている。
解剖してそれらしいものを発見したから、まず間違いないだろう。
人間の腹の中も、地球で知るそれと大きくは違っていなかったはずだ。基本的な造形は近似の形態を取ると見て良かろう。
神経の中を電気信号が走っているのか、魔力が走ってるのか、それとも他のなにかなのかまでは、流石に確かめようがなかった。
さて、魔法に比肩する運動能力の強化手段を手に入れた俺だが、これを魔法の代わりに使うことは早々に諦めた。
印なしが、神の奇跡たる魔法とは異なる手段で、身体能力を強化している。
その場で魔女裁判が開かれかねない重大案件だ。
隠れて練習しておいて、有事の際に使う。そんなことも考えたが、平時に使い慣れていないというのは、有事の際に頼るには少し心許ない。
なので、発想を逆転させてみることにした。
魔力操作で体を動かすが、運動能力は変化させない。
これが想像以上の難行だった。日常生活は早い段階で切り替えることができたものの、実戦において安定するようになったのは、つい最近のことである。
今はそこから更に一歩進んで、素の運動能力を少しずつ底上げする形に方針を変更した。
というのも、動きというのは運動能力に応じて、それぞれ最適が存在すると気づいたからだ。
常が1の力で10の力まで出せるとしても、10で1の動きをしていては、10の能力は発揮できない。
だから1を2にして3にしてと、限界との差を詰めることで、10の力を出した時により高い能力を発揮できるようにしようというわけだ。
10の訓練をすればいいだろうって?
余裕がねえんだよ!
そもそも、有事のために平時を疎かにするとか、本末転倒もいいところだ。




