13.汚濁の中を這いずる覚悟
館の主の執務室を辞し、窓の小さな廊下を歩くこと暫し、俺たちはちょび髭ことヘズコウの執務室の前まで戻ってきた。
この黒の家、外から見た時にも思ったのだが、かなり堅牢な造りだ。
居住を目的とした館というよりは、防衛施設を思わせる。
これが刑務所のように、中にいる人間に対して向けられるものならば、強制居住区という性質上納得がいく。しかし廊下を歩く限り、そういった造りには見えない。
疑問に首を傾げていると、ヘズコウがドアノブに手をかけた後、ふと思い出したかのように俺に顔を向けた。
そうして眉間に皺を寄せ、視線を頭のてっぺんから足の先まで往復させる。
「おい。あー、なんだ。ヤトイつったか、おめえちと臭えんだよ。水場行って身体洗ってこい」
鼻を摘まみ上体を少し仰け反るようにして、これでもかというほど、不快感を露わにして見せる。
汚れにも臭いにも辟易していたので、それは願ってもないことなのだが。
「キース。ついて行って、その糞みてえのをなんとかしろ」
それにしても酷い言われようである。
穴倉で生活すれば誰でもこうなる。
その穴倉に俺を放り込んだのは、他でもないあんただろうに。
「おれはその間に、どこぞの糞ガキが増やした糞仕事の始末をしてくる」
そうして足を一歩踏み出しかけ。
「ああ、部屋には勝手に入るなよ。ってさっき入ってやがったな、クソ」
俺を改めて汚物認定した後に、無駄に足音を鳴らしながら来た道を戻っていく。
それにしてもクソクソ言い過ぎだろう。くそ。俺はそんなに臭うのか。
二の腕を鼻に寄せかけて止めた。無駄に心の傷を増やすことはない。
「オレたちも行くか。場所は……あそこがいいな。少し歩くぞ」
辺りを窺いながら速足で進むキースの背を、俺は小走りで追いかける。
人を避けているらしいことはすぐに分かった。
原因はまあ、言うまでもないだろう。
黒の家――その呼び名に敷地を含めてよいのかは不明だが――は広かった。
正門から館までの距離はそこまででもなかったのだが、館そのものが大きかったし、裏手には大小様々な施設が立ち並び、林まで広がっている。
人目を忍んでいた俺たちは、敷地を取り囲む塀に沿って歩いていた。
それゆえに気づいたのだが、この広大な敷地は元からあったものではなく、後から広げられてできたものらしい。
キースが案内した水場は、敷地の外れにある林の中にあった。
茂る下草を割るように石畳が伸びていて、その先には石垣を背に、石を組んだ水場が設けられている。
確かこういうのを、共同洗い場とか言うのだったか。
水を溜める槽が段々に繋がっていて、食材なんかは上の段、衣類なんかは下の段を使うことで、一定の水質を保ちつつ、水量も確保できる、という。
ただここは普段使われていないのだろう。
水は止められている。流れの滞った水は濁り、草まで浮いていた。
音はどこからか聞こえてくるのだが。
どうするのかと思って見ていると、キースは洗い場に隣接する石垣へと近づき、そこから石の板を引き抜いた。
ごぼごぼと音を立て、洗い場へと水が流れ込む。
これは、水道か?
林の中に石垣とは妙だと思ったが。ここには、いやこの街には、水道が整備されているのか?
考えてみれば不思議なことはない。
穴倉のあれだけの規模の地下水路が、なんの理由もなく存在するはずはないのだ。
「はい注目。水道を使う時の鉄則」
キースがふざけているような、けれど真剣な調子で注意を促す。
「ひとつ、無駄使いをしない。ふたつ、使い終わったら閉める。特にふたつ目な、破ると鞭打ちだから。あと、閉めるのを邪魔して垂れ流しのまま放置させたら、連帯責任でやっぱ鞭打ち。注意できるのにしなくても同じ。気に入らない相手でも、閉め忘れていることに気づいたらしっかり言うこと」
鞭打ちという生々しい単語が、当たり前のこととして語られるのに戦慄する。
こくこくと一も二もなく頷いた。
「常に開けてていい場所もあるんだけどな、そこはたぶん使えないだろう。それから、黒の家の外にある水道は有料許可制。勝手に使うと酷い目に合うからな?」
そうキースは早口に言ってから、俺のぼろぼろの服を見て顔を顰める。
「その服はダメそうだな」
服はフィオを助けた時に破れたものをそのまま使っている。予備なんてないからだ。
ただでさえ乱闘なんかで擦り切れていたものを、切れた布の端を強引に結んで使っているので、それはもうみすぼらしい。
「なにか持ってくるから、これ使って体流しとけ」
木桶が投げて渡される。
受け取った桶を覗いてみると、底に立派なヒビが入っていた。
まあ、使って使えないことはないだろう。
顔を上げた時には、キースはすでに林の外に向かって歩き出していた。
見張りはしなくていいのかね。まあ俺に逃げる場所なんてないが。
のろのろと水の吹き出し口に近づいた。
俺の体は、割と限界だった。
張り詰めていた緊張が解け、全身を倦怠感が支配していた。
そのまま流れ出る水の中に頭を突っ込む。
水のひんやりとした感触が心地よい。
そして少し顔を上げると、流れ出る水を口いっぱいに含んだ。
喉を抜け、空っぽの胃に水が流れ込むのを感じる。
体が欲するままに水を飲み、荒く息を吐く。
息が落ち着くころには、気怠さも幾分か取れていた。
俺は、生き延びたのか。
実感が薄い。
話が想像もしなかった方向へと流れ続けた。
置き去りにされる形で決まった状況は、未だにわかには信じ難い。
しかし、これでは道化にでもなった気分だ。
俺がなにをしようと結末は変わらなかった。滑稽な独り相撲を続けていたのではないか。そんな妄想に捕らわれそうになる。
事実はまるで違うというのに。
キースがいなければこの状況にはならなかった。
そしてキースが動いたのは、その思惑に俺が手を貸したことがあったからだ。
俺が自らの手で勝ち取った未来。
だというのにそんな妄想に惑わされる。
それもこれも――。
首元へと手を伸ばす。指先に触れるのは小さな金属板。
俺がどんなに足掻こうとも、これがなければすべては徒労に終わった。
その現実が立ちはだかるからだ。
生き延びた?
ハッ。生かされたのだ。
助けられたと考えることができればよかったのだろう。
だがそう思うには、いささかこの世界は俺に対し理不尽に過ぎた。
ああ、ここに俺が在ることからして不条理の極み。
自らの意思が介在する余地のない世界。そこですべてが決まる。なんと不愉快。
だがいいさ。生き延びたという事実は受け取っておこう。
頼り切るつもりはない。
しかし、使えるものは豚の糞だろうと使ってやる。
既に汚泥に塗れた地虫がごとき身よ。今更その程度、躊躇ってなんになる。
唇が自然と歪む。
髪を伝い、顎を伝い、足もとには濁り淀んだ水溜りが広がっていく。
まずはそうだな、初心に立ち返ろう。
印なしという異物だと露見した以上、その中身までもが異物であると気取られるのはよろしくない。
俺の命を繋いでいるのは信仰だ。
ならば、ふむ。やはり情報を集めるところから始めよう。
ラクハサから簡単な説法は受けたが、覚えきれるものではない。
生粋の闇月の僕を装うよりも、そうあろうとする者を装う方が、己の身の丈に合っている。
まあそれよりも先に、今はここに来た目的を果たすことしよう。
俺は襤褸を裂くように脱ぎ捨てると、桶に水を取り頭から被った。




