第四十四話 元婚約者、聖女(我)に目覚める
クーデターの鎮圧から数日後。
王城の一室でジークフリートは一人の女性の前に深々と頭を垂れていた。
エルネリーナ・フォン・モルゲンシュテルン。
かつてジークフリートが執着したあの侯爵令嬢である。
「……エルネリーナ。本当に、申し訳なかった」
ジークフリートの声は震えていた。
「僕様は……いや、私は、あなたのご家族を人質同然に縛りつけ、あなたの意に沿わぬことを無理強いしてきた……それがどれほど残酷なことであったか...今の私には、痛いほど分かる」
床に額を擦りつけんばかりのその姿にかつての傲慢で尊大な第二王子の面影は、もうどこにもなかった。
「あなたはもう自由だ。ご家族にも正式に謝罪し、許していただけた。モルゲンシュテルン家に一切の咎はない……今まで、本当にすまなかった」
エルネリーナは、しばらく言葉を失っていた。
信じられなかった。目の前のこの男があのジークフリートだとは、何を言っても聞かず思い通りにならねば気が済まなかったあの暴君が今こうして心の底から悔いて頭を下げている。
「……殿下。一体、何があったのです? 人がこれほど変わるものなのですか……誰が、あなたをここまで……」
その問いに、ジークフリートはゆっくりと顔を上げた。その瞳には、どこか熱に浮かされたような恍惚とした光が宿っていた。
「……クラウディア様だ」
「——クラウディア様……?」
その名を聞いて、エルネリーナの胸がとくんと鳴った。
クラウディア・フォン・ヴァルンシュタイン。
かつてあの夜会でジークフリートに婚約を破棄され衆目の前で辱められた公爵令嬢。
自分がその原因の一端であったことを、エルネリーナはずっと心のどこかで悔いていた。
そのクラウディアが、このジークフリートを変えた...
「あの方は、さんざんひどい目に遭わせたこの私を、己の身を削り、血を吐きながら...それでも治してくださったのだ。『敵も味方も関係ない』と仰ってな」
ジークフリートの声は、聖なるものを讃えるようだった。
「身分も血筋も、種族さえも、あの方の前では何の意味も持たない。ただ傷ついた者がいれば救う。それがあの方の理。……私は生まれて初めて、本物の気高さを見たのだ」
エルネリーナの心に、ある感情が静かに芽生えていた。
(クラウディア様。あなたは一体、どんなお方なの……?)
夜会で見たあの令嬢の姿が脳裏に蘇る。よく分からぬ大仰な言葉を話していた。けれど、今思えばそのまなざしは、どこまでもまっすぐで澄んでいた。
あの方なら、もしかしたら。ずっと心につかえていた何かを、溶かしてくれるのかもしれない。……会ってみたい。エルネリーナの胸に、そんな思いが、静かに灯り始めていた。
◇
同じ頃。ヴィーザルの執務室。
戴冠式こそまだだが、国の実権はすでにヴィーザルが握っている。山と積まれた書類と格闘していた彼のもとへ、ジークフリートが訪ねてきた。
「兄上。折り入って、お話が」
「……ジークか。どうした」
ヴィーザルが顔を上げる。弟は、やけに思い詰めた表情をしていた。
「私は、廃嫡を願い出ます。この度の責を取り自ら、王位継承権を放棄いたします。ですので私以外の責には、どうか...寛大なご処置を」
「……ほう」
ペンを置いて、ヴィーザルが問う。ジークは拳を握りしめ、苦しげに語り始めた。
「私は……クラウディア様にも、エルネリーナにも、取り返しのつかないことをしてしまった。王位になど、とどまる資格はありません。それに此度の件に関しては、私を慕ってくれたものが私の為に動いてくれたこと……ですので、その責はすべてこのジークフリートの廃嫡でお願いしたく...」
「それで?廃嫡したらお前はどうするのだ?」
「そうですね。これからは、クラウディア様の素晴らしさを世に伝え対と思います!!!」
「…ク…クラウディア...の?」
嫌な予感がした。
「はい!兄上。そのために私は——新たに聖女教を立ち上げたいのです兄上!」
「……聖女教」
ヴィーザルは、こめかみを押さえた。
「で? その聖女教とやらは、何を布教するつもりだ」
その瞬間、ジークフリートの目が、かっと見開かれた。
「クラウディア様の、愛らしさを! 美しさを! そしてあの、誰をも分け隔てぬ、気高きお心を——!!!」
「…………」
「そして教義は! 誰にでも平等であること、平和を愛し、互いに助け合うこと、そして——差別は、断じて許さぬこと! これを説いて回るのです!」
ヴィーザルは、少し身を引いた。前半が完全にただの崇拝で、後半だけが妙に立派だった。
「そ……そうか。……して、資金や、運営の計画は、どうするつもりだ」
「ご安心を、兄上! 僕様の屋敷も資産も、すべて売却いたします!」
(……「僕様」に戻っているぞ)
ヴィーザルは、心の中でそっと突っ込んだ。
「その金で、まずは王都に本部を設立! ゆくゆくは、全土に孤児院を建て、困窮する民を——」
——バァンッ!!
その時執務室の扉が、勢いよく開け放たれた。
「ジーク様ァ——!!」
飛び込んできたのは、ロルフだった。本来、王の執務室にこのように押し入るなど不敬罪に問われてもおかしくない。だが当の本人は、そんなことなどまるで眼中にない様子だった。
「ジーク様! 俺も、騎士団を辞めてまいりました! どうか、聖女教の立ち上げ、共に手伝わせてください!」
「ロルフ……! だが、いいのか。聖女教の収入は、すべて困っている者たちのために使う。しばらく、お前に払う給金など、出せぬぞ」
「それでも、です! 俺も自分の資産は、すべて売り払ってまいりました! 数年は、無給でも食うに困りません!」
「ロルフ……お前、そこまで……」
「ジーク様。俺は、本気です。あのクラウディア様に受けたご恩を返すには、これしかないのです……!」
二人は、固い握手を交わし熱い視線をぶつけ合った。
——完全に、二人の世界だった。
ここが、新王の執務室であることも目の前に、この国の頂点たる人物がいることも。二人の頭からは、きれいさっぱり抜け落ちていた。本人たちは、どこまでも真剣なのだが。
「…………」
繰り広げられる、暑苦しい寸劇をヴィーザルは、半ば放心状態で眺めていた。
やがて、長い長いため息をつくと片手をひらひらと振った。
「……す、好きにしろ……」
「「——いえええええい!!!」」
許可が下りた瞬間、二人は飛び上がって喜んだ。
「ありがとうございます、兄上! それでは、これから忙しくなりますので、我らはこれにて、おさらばです! 行くぞ、ロルフ!」
「はっ、ジーク様!」
嵐のように現れ、嵐のように、二人は去っていった。残された執務室に、静寂が戻る。
「…………」
ヴィーザルは、しばし、呆然としていた。そして、ふと、思い出したように呟いた。
「……あ。そういえば、クーデターの処罰……」
少し考えて――
「……まあ、ジークの廃嫡だけでいいか」
ずるずると、椅子に沈み込む。
「……つかれた」
ヴィーザルは、弟のあまりの濃さにげんなりしていた。差別なき国への道は、まだ始まったばかり。だが、その前途は——少なくとも別の意味で多難なようだった。




