第四十一話 我が婚約者、戦場を駆ける
「——おやめくだされ、ジークフリート様」
静かな声が、ジークフリートの哄笑を遮った。
グラーフェン侯爵ディートリヒである。彼は傷つき倒れたクラウディアのもとへ歩み寄ると、己のマントをそっとその肩にかけてやった。
「この娘はヴァルンシュタイン公爵家の御令嬢。たとえ人質とするにせよ、相応の対応をなさらねばなりませぬ」
「……は? ディートリヒ、貴様」
ジークフリートの顔が、醜く歪んだ。
「貴様……この僕様に、口答えするつもりか!」
——どっ!
ジークフリートの拳が、ディートリヒの頬を殴りつけた。己を玉座へと担ぎ上げようとしている、その男を。あろうことか、殴りつけたのだ。
だが——ディートリヒは動じなかった。殴られた頬を拭いもせず、ただ静かにジークフリートを見据えて諭した。
「……王道とは、かような無力な娘に浅慮なき行いをすることではございませぬ。それが白日の下に晒されれば……民はあなた様を、どう見ましょうな」
「ぐっ……!」
「——それに」
ディートリヒの声が、わずかに低くなる。
「ジークフリート様の思い人も……あなた様のかようなお姿を知れば、はたしてどうお思いになりましょうや」
「——!」
ジークフリートの動きが、ぴたりと止まった。
エルネリーナ。ジークフリートの婚約者で今は、王城にいた……このようなことをしたと知られれば、彼女に知られたら嫌われてしまう。それだけは——
この愚かな神輿を、どう操ればよいのかをディートリヒは知り尽くしていた。正論とそしてジークフリートの泣きどころを突いてその暴走を押し留めたのだ。
◇
——そのわずかな時間を見逃さなかった者がいた。
アーシェである。
(……今しかない)
兵に押さえつけられ、身動きの取れぬままだったがアーシェには、まだできることがあった。
彼女は静かに目を閉じ、己の傍らに寄り添う風の精霊——シルフへと意識を集中させる。
(シルフ...頼む……力を貸してくれ)
アーシェの呼びかけに、緑の微風が応えた。アーシェはその風に乗せて、己の残った魔力をクラウディアの周りを漂う時の精霊ノルンへと託した。
『……ノルン。聞こえるか』
風を通じて精霊同士の念話が繋がる。
『アー、シェ……?』
『そうだ。今、少しだけ力を分けた……動けるか?』
『……うん。すこしだけなら』
『頼む、ノルン。ヴィーザル殿のもとへ……この状況を伝えてくれ。誰か、助けを!私たちだけでは、もうクラウを助け...られない……!』
『……わかった! ノルン、いくよ! クラウをたすけるんだ……!』
――きらり
一粒の光が、アーシェから託されたわずかな力を頼りに戦場の空を駆けていった。
愛するクラウを救うために。
◇
戦場へと急行する公爵軍の本隊に一筋の光が舞い降りた。
「……これは...ノルンか?」
馬上のヴィーザルが目を見開く。その傍らには、公爵アルベラートの姿もある。
「ノルンどうした!?その姿は!!!」
光はノルンだった。精霊状態のまま、必死に言葉を紡ぐ。
『ヴィル……!今は、ノルンの姿はどうでもいいの!それよりたいへんなの! クラウが、やられちゃう……! ゴルドーも、ラナも、アーシェも、みんな傷ついて……! ジークっていう人にに、ひどいことされて……それでね、クラウのね、服が破られてクラウ今泣いてるの……!』
その報告を聞いた瞬間、ヴィーザルの全身から、凄まじい怒気が立ち昇った。
「……ジークフリィートォ…貴様ァ……」
そしてその隣にいたアルベラートの顔は、もはや人のものではなかった。鬼の形相で、愛する一人娘が辱められたという事実に、全身を震わせている。
「……おのれ。おのれ、おのれぇぇぇぇぃ、ジークフリートォォォッ……! よくも、我がクラウディアを…王家だろうと許すものかぁっ…!」
今にも怒りのまま、全軍に「皆殺しにせよ」と下知を下さんばかりの——その時だった。
『……じいじ...だめ!』
ノルンの小さな声が、アルベラートを呼んだ。
「……む?」
『クラウはね。……誰も、死なせてないんだよ』
「——」
『クラウはねひどいことされても、だれも殺してない。「誰が死んでも、悲しむ人がいるから」って……そう言ってた』
その一言が、煮えたぎる怒りに呑まれかけたアルベラートの胸にすとんと落ちた。
「……あの子の願いは……そういうことか」
鬼の形相が、ゆっくりと、一人の父親の顔へと戻っていく。
クラウディアは、ひどい目に遭わされても、なおその理を曲げなかった。一人も殺さない。誰の命も見捨てない……それがクラウディアの生き方だった。父として、その娘の願いを踏みにじるわけにはいかなかった。
「……聞けぇっ、我がヴァルンシュタインの精鋭たちよ!」
アルベラートの声が、戦場に轟いた。
「我が娘が、辱められた! だが——娘は望んでおる! 誰も死なせるな、と! ……ゆえに命じる! 一人たりとも殺すな! だが——全員! 二度と立ち上がれぬほど! ぼこぼこにして! 己の罪を後悔させよぉっ!」
「「「——おおおおおっ!!」」」
公爵軍、1500名の咆哮が、大地を揺るがした。
そしてその先頭で、公爵軍の指揮官が、剣を天高く掲げて叫んだ。
この指揮官は、幼い頃からクラウディアの成長を見守ってきており、彼女を見守ってきた歴戦の騎士であった。公爵軍の面々も訓練中や訓練後にクラウディアから回復をしてもらったり、笑顔を向けてもらったりいた。
そう、公爵軍の中では、クラウディアは、ちょっとしたアイドルだったのだ。
「いいか!野郎どもぉっ! 相手はたかが、4000人程度だぁっ! 一人3人ずつ、ぼこぼこにすりゃあ、いいだけの話よぉっ!」
「「「おうっ!!」」」
「我らがお嬢様を——泣かせた侯爵軍に! 明日の朝日は必要かぁぁぁっ!!」
「「「必要ない!!!!!!」」」
「では、問おう侯爵軍をどうすべきだぁぁぁぁっ」
「「「ぼこぼこだあああぁぁぁぁぁぁっ」」」
「突撃いぃぃぃぃぃぃっ」
「「「おおおおおおおおおおおっ」」」
公爵軍1500名の精鋭が、怒りと忠義に燃えて4000名の軍勢へと怒涛のごとく突撃した。
◇
「——魔法師団、構えよ! 奴らを、近づけるな!」
迫りくる公爵軍に、ディートリヒが魔法師団に指揮をとると、一糸乱れずに一斉に杖を公爵軍に向ける。1000名の魔術師が放つ無数の魔弾。本来ならば——どんな精鋭の突撃とて、この弾幕の前では、蜂の巣にされるはずだった。
ドドドドドドドドドッ!!
「——うぉぉぉぉっ! お嬢のためだぁっ!」
「こんなもん、効くかぁぁっ!」
公爵軍の、誰一人として止まらなかった。
しかし、魔弾が盾を弾き、公爵軍の精鋭を少しずつ削り取っていった。
「貴様らぁっ!その程度でたおれるのかぁぁぁぁっ」
「「「この程度お嬢が泣かされたことに比べればぁぁぁっ」」」
魔弾をくらっても歯を、食いしばり、倒れた者は、すぐに立ち上がる。公爵軍の全員が「お嬢が、泣かされた」その、たった一つの怒りで彼らの痛覚すら麻痺させていた。
「全員さがれぇぇぇい!!!!」
アルベラートの咆哮が、戦場に響いた。
その瞬間――
「ヴァルンシュタインの極技、堪能せよぉぉぉっ!!!」
そう言い放つと、アルベラートの拳から魔力を帯びた衝撃波が魔法師団を直撃した。
ドォォォォォォォォォン!!!
「「「うわああああっ」」」
「「「ぎゃあああああっ」」」
魔法師団が、アルベラートの一撃で...戦闘不能に陥っていた。
「……なん、だと……?」
後方で、それを見ていたディートリヒの顔が初めて——凍りついた。
魔法師団こそが、アルベラートの武力と公爵軍を封じるための彼の切り札だった。
だが——その、魔法師団がたった一人の男に壊滅させられた。
ディートリヒの戦術がまるで、意味を成していなかった。
「馬鹿な……あの魔法師の数を一撃だと……? そのような、こと……計算にあろうはずが……!」
歴戦の智将。あらゆる戦術を読み。あらゆる戦力を計算に入れてきた男。そのディートリヒが生まれて初めて己の計算の外にある何かに——戦慄していた。
数も陣も魔法師団も全て万全に整えた……なのに...何故知っているかわからないが、戦場に木霊していた、お嬢を泣かせただのなんだの...ただ、それだけで、目の前の軍は、精兵になり替わったのだ。そんな、ものを……彼の緻密な頭脳は、計算できなかったのだ。
そう、ジークフリートは知らぬ間に虎の尾を踏んでしまったのだった。
◇
一方コンラートは、己の領軍が見る見るうちに、蹂躙されていく様を信じられぬ思いで眺めていた。
「アルベラート様が魔法師団を壊滅してくれたぞ!全軍!突撃ぃぃぃぃっ」
「「「おおおおおおおおおおおおおっ」」」
次々と侯爵・伯爵の領軍が蹂躙されていく――
「——な、なんじゃ、そりゃぁぁっ!?」
コンラートの顔がどんどん蒼白になっていき、目の前で起こっていることが信じられないと睨みつけていた。
「たった1500だぞ!我ら4000の精兵が!我らが……押されているだとっ!? ば、馬鹿な! そんな、戦力差がひっくり返るなど……ありえぬ!」
有能な男であった。だからこそ——目の前の光景が理解できなかった。兵の数、装備の質、陣形、地形……そのどれを、取っても、こちらが上。なのに、公爵軍は、まるで、鬼神のごとく一人で、三人、四人を、沈めていく。
「なんなのだ……あの、公爵軍の士気は! どうなって、おるのだ……!」
コンラートには、理解できなかった。愛する主君の娘が泣かされた。ただ、それだけでこれほどの力が湧き上がるということが……打算と、野心で、動いてきた彼には、到底理解できなかった。
◇
そして——その公爵軍のさらに、先頭をただ一騎、誰よりも速く駆け抜ける影があった。
「——退けぇっ! 道を、開けろぉっ!」
ヴィーザルは、立ちはだかる敵兵を片端から打ち倒し。ただ、まっすぐにクラウディアのもとへと駆けていく。
やがて——その、視界に倒れ伏す仲間たちと...その中心にいた、ぼろぼろに、傷つきあられもない姿で泣いているクラウディアの姿が飛び込んできた。
その瞬間、ヴィーザルの中で何かが完全に焼き切れた。
「——俺の、クラウディアに……!」
地鳴りのような咆哮。
「——よくも、よくもぉぉぉぉっ!!!」
ヴィーザルは、馬上から飛び降り、クラウディアの傍らにいたディートリヒへと突撃した。
「……ほう。来たか、第一王——」
ディートリヒが応戦しようと剣を構える。だが——剣閃が速すぎた。ヴィーザルの剣は、智将ディートリヒの反応を遥かに上回っていた。
「はぁぁぁっ!!」
——ドフッ!!
ヴィーザルの剣の柄頭がディートリヒの鳩尾へと深々と突き刺さる。殺しは、しない。だが——その一撃は、歴戦の将を一撃で昏倒させるに足るものだった。
「……ぐ……馬鹿、な……アルベラートならば、いざ知らず。……このような、若造に……」
ディートリヒの意識が、崩れ落ちる。長年、アルベラートと競ったその男がクラウディアを想うヴィーザルの怒りの前にあっけなく沈んだ。
ディートリヒを失ったクーデター軍の瓦解は、もはや誰にも止められなかった。
「……クラウディア!大丈夫か?」
ヴィーザルが、倒れたクラウディアをそっと抱き起こす。
「——ヴィル……?」
涙に濡れたクラウディアの瞳がヴィーザルを映した。
「……ヴィル……ほんとに、ヴィルなの……?」
「ああ……遅くなって、すまない……もう、大丈夫だ……俺が、来た」
その言葉を、聞いた瞬間にクラウディアの張り詰めていた糸がぷつりと切れた。
「……ヴィルぅ……! こわ、かったぁ……!」
クラウディアが、ヴィーザルの胸に顔を埋めて子供のように泣きじゃくった。
ヴィーザルは、ただ何もいわずそっとクラウディアを抱きしめていた――




