第三十九話 我、独り征かんとす
宴の喧騒は、すっかり消え失せていた。
クラウディアの館の一室。月明かりの差し込む中、クラウディアはヴィーザルと二人きりで向かい合っていた。
「……じっとしてて。今、治すから」
クラウディアがヴィーザルの腫れた頬にそっと手をかざす。あたたかな光が灯り、赤い腫れが見る間に引いていった。
ようやく機嫌を直して治してくれた……のだが、クラウディアの横顔は喜びとは程遠く...むしろ思い詰めたような硬い表情をしていた。
「……ヴィル」
治療を終えた手を膝の上でぎゅっと握りしめて、クラウディアはぽつりと切り出した。
「……ねえ。もう、王都のことなんて忘れて……ヴィーザルじゃなく、ヴィルとして……このアルブローゼンで生きれば、いいじゃない」
王位も玉座も、簒奪者という汚名もそんなもの全部捨ててしまえばいい。ただのヴィルという一人の男として、このあたたかな街で自分とみんなと穏やかに暮らせばいい……それが、クラウディアの精一杯の願いだった。
「……クラウディア」
ヴィーザルは静かに首を振った。
「お前の言いたいことは分かる……だが俺は、逃げるわけにはいかない。ジークフリートを野放しにすれば……これから、どれだけの民が泣くことになるかわからない」
その、まっすぐな瞳。
「それに——俺がここで背を向ければ、俺はお前の隣に立つ資格を失う。胸を張って、お前の伴侶だと名乗れなくなる……クラウディア...俺が、お前の隣に立つには——」
「——そんなの、どうでもいい!」
クラウディアがヴィーザルの言葉を遮った。
その声は震えていた――
そして顔を上げた彼女の瞳には、涙がいっぱいに溜まっていた。
「資格とか、隣とか、そんなの……そんなの、どうでもいいの! わたしは、ただ……!」
クラウディアが、ただ一人の男を前にして、子供のように泣きじゃくっていた。
「……ヴィルを失うのが……! こわいの……! あなたがいなくなるのが……! わたし、それだけは……それだけは、耐えられない……!」
どんな強大な敵も怖くなかった。どんな理不尽にも立ち向かえた。……でも、愛するこの男を失うことだけは。この最強の令嬢の、唯一の、そして最大の弱点だった。
「……クラウディア」
ヴィーザルがそっと彼女を抱き寄せる。
「……すまない……だが俺は、行く……必ず生きて戻る。お前を残して死ぬような無様な真似はしない……約束する」
その腕の中で、クラウディアはこくりとも頷かなかった。ただ静かに、涙を流し続けていた。
——その時クラウディアは、心の中でひそかに、ある決意を固めていた。
(……ヴィルは、止められない。……それなら)
◇
翌朝
まだ夜も明けきらぬ薄闇の中。
一つの小さな影が、アルブローゼンの門をくぐろうとしていた。
クラウディアである。その傍らには、ノルンの姿もあった。
「……クラウ……ほんとに、いくの?」
ノルンが不安げにクラウディアを見上げる。
「うん。……わたしが一人で片付けてくる。……みんなを、こんな危ない戦いに巻き込みたくないの」
これがクラウディアの出した答えだった。ヴィーザルが止まらないのなら、自分が先回りして、一人で全てを解決する!そうすれば愛する男も、大切な仲間も、誰一人戦場に立たせずに済む。
(……ごめんね、ヴィル)
門の方角を見ないようにしながら、クラウディアは心の中で呟いた。
(顔を見たら……行かないで、って泣いてすがっちゃうから……だから顔は見ないで行くね。……わたしがぜんぶ片付けてくるから……あなたはどうか、無事でいて)
誰にも告げず、たった一人で重荷を背負って...クラウディアは王都へと発とうとしていた。
「……クラウ」
ノルンがきゅっとクラウディアの手を握った。
「ノルンも、いく……ぜったい、いく」
「ノルン……だめよ、あなたは街で留守番——」
「やだ!」
いつも聞き分けの良いノルンが、珍しく強く首を振った。その瞳がまっすぐにクラウディアを見つめる。
「……クラウから、やなかんじがする……クラウが、あぶないかんじ……ノルン、わかるのかんじるの」
時を司る最上位の精霊。そのノルンが、クラウディアの身に迫る何かを鋭敏に感じ取っていた。
「だからノルンも、いく。……クラウをひとりに、しない。……ぜったい守るから!」
その小さな、けれど固い決意に、クラウディアはふと表情を緩めた。
「……ふふ。そっか。……ありがとう、ノルン」
かつて独りぼっちだったノルンを、「ひとりにしない」と抱きしめた。そのノルンが今度は、クラウディアを「ひとりにしない」と言ってくれる。……なんだか少し、心強かった。
「……わかった。じゃあ一緒に行こ。……でも絶対、無理はしないこと。……約束だよ」
「うん! やくそく!」
こうしてクラウディアとノルンは、朝靄の中を王都へと向かって歩き出した。
◇
クラウディアが館を発ったことにヴィーザルが気づいたのは、日が昇って間もなくのことだった。
もぬけの殻の寝室。残された一枚の書き置き。そこにはただ、一言。
『王都に向かいます。あなたは来ないで』
「……クラウディア」
ヴィーザルはその書き置きを握りしめた。
彼女の意図は痛いほど伝わってきた。自分を、仲間を戦わせまいと、たった一人で全てを背負って……行ってしまったのだ。
「……まったく。あなたという人は」
ヴィーザルの胸に、愛しさと歯がゆさが同時に込み上げる。
(……顔を見せてはくれなかったか。……それほどまでに、俺を戦わせたくなかったのだな)
だが、ヴィーザルも黙って彼女を行かせる男ではなかった。
「……待っていろ、クラウディア!すぐに追いついてみせる!!」
窓の外、朝日に照らされた王都の方角を、彼はまっすぐに見据えた。
「必ず生き残る……そして必ず、お前を迎えに行く」
愛する女を一人で戦わせはしない。彼もまた己の兵を率いて、戦場へと赴く覚悟を固めていた。
アルベラートはすでに一足先に公爵領へと戻り、軍を整える手筈になっていた。そしてローゼリアは何も言わず、ただ娘の後を追うように静かに支度を始めていた。
戦の歯車は、もはや誰にも止められぬ速さで回り始めていた。
◇
一方——クラウディアが街を発って、ほどなく。
アルブローゼンの門前では。
「……やーっぱりね」
ラナが腰に手を当てて、呆れたように笑っていた。その傍らには、弓を背負ったアーシェと、巨躯のゴルドーの姿もある。
「クラウのことだもん。……絶対、一人で行く気だったっしょ? みんなを巻き込みたくないとか言ってさ」
「ふん……これだからこの馬鹿は」
ゴルドーが太い腕を組んで鼻を鳴らした。だが、その口元はどこか優しく緩んでいる。
「人のことは命がけで守るくせに、自分のこととなると、途端に一人で抱え込みやがる。……まったく、世話の焼けるリーダーだ」
「……案ずるな」
アーシェが静かに弓を握り直した。その瞳には、揺るぎない決意が宿っている。
「私はあの日、クラウの征く道を共に守ると誓った。その先に何が待っていようとも……私はお前の盾になると決めている」
あの日、弓を捧げて交わした誓い。その言葉をアーシェは今、果たそうとしていた。
「……一緒に行かせてもらう……あの、無茶ばかりするクラウを守りにな!!!」
三人は顔を見合わせ、にっと笑い合うと、クラウディアの後を追って駆け出した。
誰に言われずとも、当たり前のように仲間が傷つくのが怖いと一人で進もうとしたクラウディアを、その仲間たちが放っておくはずがなかった。
「クラウー! 待てろーっ!すぐおいつくかんねぇー!」
朝靄を切り裂く、ラナの声。
その声はきっと、先を行くクラウディアのもとへも届いていたことだろう。
——一人も見捨てない。
クラウディアが貫いてきたその理は、今、巡り巡って、彼女自身を支える絆となっていた。




