第三十六話 我知らぬところで愚王、玉座を捨てる
「——ヴァルンシュタイン家が少々口を挟ませていただいてもよろしいかな?」
アルベラート公爵の威風に謁見の間は、水を打ったように静まり返っていた。
その静寂の中....一歩進み出たのは——ヴィーザルだった。
「父上……単刀直入に申し上げる」
まっすぐに玉座を見据えて第一王子は、告げた。
「どうか——退位を」
「……は?」
王の気だるげだった顔が初めて凍りついた。
「た、退位...じゃと……!? 貴様ぁ!妾腹の分際でこの、余に! 玉座を譲れと申すか!」
でっぷりとした体を震わせ王が激昂した。
「……陛下」
その、背後に控えるアルベラートの双眸がぎろりと光った瞬間。
「……ひぃっ」
王の言葉が喉の奥で詰まった。
王国随一の武門。ヴァルンシュタイン公爵家。その当主が今、ヴィーザルの後ろ盾についている。
……この意味を享楽に溺れた愚かな王とて理解できぬはずが、なかった。
公爵家を敵に回せば。この王家とて無事では、済まぬ。
意気消沈し黙り込む王へとヴィーザルは、静かに続けた。
「……ご安心ください父上。退位されても父上の暮らしは、何一つ変わりませぬ」
「……なんだと?」
「むしろ——より豊かになりましょう!父上は、これまで通り美酒を嗜み、美女を侍らせ、宴に興じてください……煩わしい政や退屈な執務...そのような雑事は、すべて——このヴィーザルが引き継ぎましょう」
その、言葉を聞いた瞬間。
——王の目の色が変わった。
(……待て...待て待て待て……つまり、どういうことだ?)
王の脳内が猛烈な勢いで回転し始める。
(退位すれば……面倒な政は、全部ヴィーザルがやる……余は、今まで通り...いや、今まで以上に酒と、女と、宴に、明け暮れて暮らせる!……責任も義務もなく。ただ遊んで暮らせる...だと……?)
(……それは)
(……最高では、ないか——!!)
「——おお! よくぞ、申した! 我が、息子よ!!」
次の瞬間――
王は、満面の笑みで玉座から立ち上がっていた。
「ヴィーザル! そうだ、お前は、昔から賢い子であった! ……様々な苦難に耐え! ここまで立派に成長してくれて! ……父は! 父は、嬉しいぞぉ!」
「はぇ……? ち、父上!?」
あまりの変わり身の早さに喚いていたジークが、ぽかんと口を開ける。
「よし、決めた! 余は、退位する! 今日よりこの国の王は、ヴィーザルだ! ……大臣! 大臣は、おらぬか! 戴冠式の準備じゃ! 盛大にやるのだぞ!」
嬉々として、そう命じる王。
そのあまりにあっけない玉座の放棄に居並ぶ者たちは、誰もが言葉を失っていた。
——これが
この国の頂点に君臨してきた王の最後の姿だった。彼は、最後まで民のことも、国のことも、差別のことも、何一つ、考えなかった。ただ、自らの享楽のためだけに....いとも、あっさりと玉座を、投げ捨てたのだ。
差別の頂点にいた王。その男が権力を手放したのは、改心でも贖罪でもなかった。
ただ——どこまでも、どこまでも無関心だったから....
それは、ある意味で最も救いのない——
しかしこの腐った国にとっては、何よりの福音でもあった。
「……父上。戴冠にあたり一つお願いがございます」
喜色満面の王へとヴィーザルが進み出る。
「おお、なんだ、なんだ。言うてみよ我が息子よ! ……あっ、いや。まだ、余が王か!かっか!」
「……妃として迎えたい者がおります。ヴァルンシュタイン公爵が息女——クラウディア嬢を」
「——ヴァルンシュタインの娘を?」
王の頭がまた算盤を弾く。
(……ヴァルンシュタイン公爵家が王家と縁続きになる……ふむ。あの武門の、名家が味方につけば王家は、より盤石となる……それに、何より...あの、小うるさい公爵を黙らせるよい手だ)
「——よい、よい! 好きにいたせ! なんなら、明日にでも、婚儀を挙げるがよいわ! かっか!」
打算にまみれた快諾だった——ヴィーザルとアルベラートにとっては、それで十分だった。
こうして。クラウディアとヴィーザルの婚約は、王家の名のもとに正式に認められた。
ただ、当のクラウディアは、そこにはいなかったが...
◇
一方——
その片隅で...
「な……なぜだ。なぜ、兄上が...王に……!?」
ジークフリートが、わなわなと震えていた。
「次の王は! 僕様のはずでは、なかったのか!? 僕様こそが! 正統なる...後継者で——!」
ジークフリードがおたおたと、わめき散らす!その、哀れな姿にもはや、誰も見向きもしなかった。
その傍らで、グラーフェン侯爵ディートリヒは——沈黙していた。
表情こそ変えないが、その頭の中では、すでに冷徹な計算が始まっていた。
(……形勢は、不利。アルベラートが後ろ盾についた以上...騎士団は、動くまい。奴らは、昔からヴァルンシュタイン寄りだ……まともにぶつかれば勝ち目は、ない)
(……だが)
(騎士団が敵なら……魔法師団を押さえればよい。魔法師団は、まだこちらの息がかかる余地がある……)
智将の思考は、この敗北の瞬間にすら。次の一手を見据えていた。
そして——
「……陛下。畏れながら」
もう一人の黒幕。ベルガー伯爵コンラートが探りを入れるように口を開いた。
「本日の、夜の酒宴は……延期と、相成りまするか?」
その瞬間――
「——もうよいっ! 下がれ、コンラート!」
王の怒声が飛んだ。
「宴の支度なら案ずるな! これからは、ヴィーザルがすべて整えてくれるのだ! ……貴様の世話になどならぬわ! さっさと下がれぇ!」
「……は……失礼、いたしました」
深々と頭を下げるコンラート。かつて王に取り入り「政は、我らに、お任せを」と囁いていた黒幕は、今やあっさりと王に切り捨てられた。用済みとばかりに。
頭を下げたコンラートの視線が、すっとディートリヒへと向けられる。
ディートリヒも、それに、気づき...わずかに——頷いた。
言葉は、交わされなかった。だが二人の間には、確かな意思が通じ合っていた。
(……ここまで、だ)
(ああ。……正攻法では、もう、ない)
長年かけて描いてきた絵図。ジークを玉座に据えるという野望...それが、今、音を立てて崩れ去った……だが、彼らは、有能であるがゆえに引くことが、できなかった。ここまで、ヴィーザル廃嫡にコミットした以上。あの男が即位すれば待っているのは、己の破滅。……ならば。
二人の黒幕は、退出するその背中でもう同じ答えに辿り着いていた。
◇
謁見の間を辞したジークフリートのもとへ、ディートリヒが音もなく歩み寄った。
「……ジークフリート、殿下」
「ディートリヒ! おお、ディートリヒ! 聞いて、くれ! 父上が! 兄上に! 僕様の玉座を——!」
「……殿下」
喚く、ジークフリートをディートリヒは、静かに遮った。その声は、甘く囁くように。
「お嘆きに、なることは、ございませぬ……正統なる後継者は、どこまでもジークフリート殿下にございます」
「そ、そうだ! そうなのだ! 僕様こそが——!」
「ゆえに……こうなれば、手段を選んでは、おられませぬな」
ディートリヒの双眸がすっと、細められる。
「騎士団は、確かにヴィーザルに靡きましょう……なれど、ご安心を魔法師団は——このディートリヒが必ずや殿下の御為に動かしてご覧に入れまする」
「……! では!」
「ええ……今こそ...簒奪者より、玉座を取り戻す時!!……正統なる王の御手にな」
甘い、甘い、毒のような、囁き。
操られているとも知らず、ジークフリートは、その言葉に狂喜した。
「おお……おお! そうだ、その通りだ、ディートリヒ! 僕様が! 僕様こそが、王になるのだ! ……兄上、など! 必ず引きずり下ろしてくれるわ!」
神輿は、まんまと担がれることに歓喜していた。己が、ただの傀儡であることにも、気づかずに...
——かくして
王都の裏側で静かにしかし確かに謀反の火種が燻り始めた。




