第二十六話 我、見知らぬ旅人と出会う
その青年がアルブローゼンに現れたのは、よく晴れた昼下がりのことだった。
旅装に身を包み、腰には質素な剣を一振り。どこにでもいる流れの旅人のようないでたちだがその静かで理知的な佇まいは、どこか常人とは違う気配を纏っていた。
ヴィーザル・ヘルミオンシュタイン
この国の第一王子は今、「ヴィル」と名を偽り一人この辺境の街へと足を踏み入れていた。
「…ほぅ…これは、驚いたな」
街の雑踏を歩きながら、ヴィルは思わず呟いた。
整然とした石畳の道に、活気に満ちた市場。
立ち並ぶ頑丈な家々。
そして、そこで暮らす人々の顔つき。
魔物と人間が、同じ市場で肩を並べて買い物をしている。獣人の女が人間の子供に笑いかけ、ゴブリンの職人が人間の客と値段の交渉をしていた。差別などなく、誰も見下していない。
王都では決してあり得ない光景だった。
「……噂は、本当だったか」
ヴィルは、この街の統治のあまりの異質さに静かな衝撃を受けていた。種族の壁がなく、身分の別もない。ただ人と人として、暮らしが営まれている。
「だが……誰が、こんなものを築いた」
それこそが、ヴィルの知りたいことだった。
彼は端から信じていなかった。追放された一人の令嬢クラウディア・フォン・ヴァルンシュタインが、こんな街を築けるはずがない...と。おおかた背後には、あのヴァルンシュタイン公爵がいるのだろう。父すら警戒する老獪かつ屈強な公爵。その財力と人脈をもってすれば、これほどの街も不可能ではあるまい――
そう踏んでいた。
「……数日滞在すれば、嫌でも見えてくるか」
◇
そして数日が過ぎた。
ヴィルは旅人として、すっかり街に溶け込んでいた。宿を取り市場を巡り人々と言葉を交わす。そうして街の隅々までを、その目に焼き付けていった。
だが——調べれば調べるほど、彼の推理は揺らいでいった。
公爵の影が、どこにもなかったのだ。公爵家の兵も役人も見当たらず、この街を動かしているのは、どう見てもここに住む魔物たち自身だった。
「……おかしい。公爵の手が、入っていないだと?」
ヴィルの思考が乱れる。ならば一体、誰が——
「あーっ!!ヴィルにいちゃん、こっちこっち!」
その思索を、無邪気な声が遮った。
数日のうちにすっかり懐いてしまった、街の子供たちである。魔物の子も人間の子も入り混じって、ヴィルの袖を引っ張っていた。
「よしよし!わかった、わかった。今行く」
ヴィルの硬い表情が、ふと緩む。
王都では決して見せることのなかった、素の優しい顔だった。この街の子供たちは、見知らぬ旅人の彼を少しも警戒しない。人間だろうとよそ者だろうと関係なく、ただ一緒に遊んでくれる「ヴィルにいちゃん」として受け入れてくれた。
それが彼には、ひどく心地よかった。
「ヴィルにいちゃん、つよいんだよね! またあれやってーけんのやつ!」
「剣か……仕方ないな。よく見ておけよ」
ヴィルが木の枝を拾い、ひゅん、と鋭く振ってみせる。
その洗練された太刀筋に、子供たちがわっと歓声を上げた。
ただの旅人のはずの青年が見せる、ただならぬ剣の冴え。だが無邪気な子供たちは、そんなことには気づかない...ただきらきらと目を輝かせて、はしゃいでいた。
——その時だった。
「——ほう...我が闇の眷属らが、随分と楽しげではないか」
凛と澄んだ声が響いた。
子供たちの顔が、ぱっと輝く。
「あっ、クラウディアさま!」
「クラウおねえちゃーん!」
子供たちが一斉に、その声の主へと駆け寄っていく。ヴィルもつられて、そちらを見た。
そこに立っていたのは、一人の少女だった。
年の頃は自分とさほど変わるまい。上等な、けれど動きやすそうな衣に、艶やかな髪。そしてその双眸には、どこか芝居がかった不敵な光を宿している。
「クラウディア、さま……?」
ヴィルの眉が、わずかに動いた。
クラウディア。その名を、彼は知っていた。弟に婚約を破棄され、この辺境へと追放された、あの哀れな令嬢。この少女が、そうなのか。
少女は駆け寄ってきた子供たちの頭を、一人ずつ優しく撫でていく。その横顔は、先ほどの不敵な光とは裏腹に、慈愛に満ちていた。
「よいか、闇の子らよ。日輪の高きうちに、存分に精気を満たすがよい。さすれば、夜の帳も恐るるに足らぬ」
(いっぱい遊んで、ごはんもいっぱい食べてね。そしたら、元気に大きくなれるよ)
「「「はーい!」」」
子供たちが元気よく返事をする。
ヴィルは、その光景を呆気にとられて眺めていた。
——闇の眷属、日輪、夜の帳。
(……何を、言っているのだ、この令嬢は)
言葉の意味がまるで掴めない。いや、単語そのものは分かる。だが、繋ぎ合わせても、要領を得ない。大仰で芝居がかっていて、それでいて——子供たちは、なぜか嬉しそうに頷いている。
王都にいた頃、聞いた覚えがある。クラウディア・フォン・ヴァルンシュタインは、奇矯な言動で知られた、変わり者の令嬢だったと...
なるほど、これがその噂の——
「む?」
と。
少女の視線が、ふとヴィルを捉えた。
「見慣れぬ顔よな。旅の御仁か……我が闇の都アルブローゼンへ、ようこそ参られた」
(あ、旅の人かな? いらっしゃい、アルブローゼンへ)
少女——クラウディアが、にこりと微笑んだ。
その笑顔にヴィルは、思わず言葉を失った。
旅人である自分に対して得体の知れない、よそ者に対して何の警戒も、打算もない。
ただ、まっすぐな分け隔てのない笑顔。それは——この国のどんな貴族も向けてこなかった類の笑みだった。
「……ああ。世話に、なっている」
辛うじてヴィルは、そう答えた。
「ふ。子らが、世話を焼かせたであろう。……許せ。あの者たちは、少々元気が有り余っておる」
(うちの子たち、やんちゃでしょ? 遊んでくれてありがとね)
「いや……こちらこそ、楽しませてもらっている」
「そうか。ならば、よい」
クラウディアは、満足げに頷くと再び子供たちの方へと向き直った。
ヴィルは、その後ろ姿をじっと、見つめた。
奇矯な言動。掴みどころのない娘。だが——子供たちに向ける、あの慈愛。
旅人の自分に向けた、あの、分け隔てのない笑顔。それは、演技や気まぐれでできるものではなかった。
(……クラウディア・フォン・ヴァルンシュタイン...か...綺麗だな...)
彼の中で、何かが小さく引っかかった。
もっとも——この時のヴィルは、まだ思いもしなかった。
目の前の、この奇妙な令嬢こそが彼の探し求めていたこの街の統治者その人であることなど。そして、この出会いがやがて自分の運命を根底から覆すことになるなど——




