第二十二話 我が知らぬところで
アルブローゼンの繁栄から、壁一つ隔てた向こう。
人間の町グラウフェルトは、静かに死にかけていた。
かつては、辺境の交易でそこそこに栄えた町だったが、この一年は、北から順に作物の実らぬ不作の波がじわじわと南下してきておりフェンリスを飲み込んだその飢饉が、ついにグラウフェルトまで押し寄せてきていた。
土は痩せ、麦は実らず、家畜は次々と倒れていく。その状況でも王都から税の取り立ては容赦なくきており徴税官は、「不作だろうと、税は税だ」と、わずかに残った蓄えすら税の名目で運び去られていく。
次第に町の民は飢えていった。
その飢えた民の間を、痩せこけた男が一人駆け回っていた。
代官のボルクだった。
かつてその体は、でっぷりと肥え脂ぎっていたが今や見る影もないほど頬はこけ、目は落ち窪み、着物の帯はぶかぶかと余っていた。思想主義がぬけすっかり変わりボルクは、町の民の為に、ろくに食わず、寝ず、町のために奔走し続けた末の変わり果てた姿となっていた。
「爺さん、しっかりしろ!ほら、これを食え!少しは、力が出る」
ボルクが、痩せた老人の口に粥を運ぶ。
その粥を炊いた食料は、もはやボルク自身の財では、賄えていなかった。
飢饉が始まってからボルクは、代官として蓄えた私財を惜しみなく吐き出してきた。
屋敷の調度品を売り蓄えた金貨を崩しそのことごとくを民の食料へと替えていたが町の飢えは、そんなボルクの私財など、あっという間に食い尽くした。
そして、私財が尽きた時...
ボルクは、最後の一線に手をかけた。
クラウディアに納めるべき、塩の売上に手をつけたのだ。
それは、許されざる背信だった。
あのクラウディアの金である。露見すれば、ただでは済まないと思っていた。以前「二度、我を欺けば、魂を闇に落とす」と言い渡されていた....
その言葉が脳裏をよぎらぬ日は、なかった。
それでも——ボルクは、止められなかった。
目の前で、民が飢えている。子供が痩せ細っていく...
それを見て、見ぬふりなど――もうできる男では、なくなっていたのだ。
(……クラウディア様。申し訳ございませぬ...この償いは、必ず。……ですが今は、どうか...この者たちを、見捨てさせないでくだされ)
心の中で詫びながらボルクは、自らの食を削り、眠りを削り、私財を使い果たしてなお町の民のために走り続けていた。
かつて、魔物を「けだもの」と蔑んだあの俗物は、もうどこにもいなかった。
◇
その日。
グラウフェルトに、一団の騎馬が乗り込んできた。
きらびやかな鎧。
傲慢な顔つき。
先頭を行くのは、大柄な赤ら顔の騎士だった。
ロルフ・フォン・ダンハウザー。
第二王子ジークの側近にして、腕自慢の騎士である。その後ろには、へらへらと追従する取り巻きの貴族らが数名続いていた。
「ちっ。なんだ、この汚らしい町は」
馬上から、ロルフが吐き捨てる。飢えて地に伏せる民、廃屋のように傾いた家々を、汚物でも見るような目で睥睨した。
「王都から遠いとは聞いていたが……ここまで、みすぼらしいとはな。これだから、辺境の下民は度し難い」
「まったくで。ひひっ、まるで、豚小屋ですなぁ」
取り巻きが、げらげらと笑う。飢えて死にかけている者たちを前に彼らの目には、見下すべき「下民」の姿しか映っていなかった。
そこへ——
「お、おなか……すいた……」
一人の小さな子供が、ふらふらとロルフの馬の前へ歩み出た。
痩せこけた頬、うつろな目、その乾いた瞳が、ロルフの手にした、食べかけの果実を、じっと見つめていた。
「……なんだ、その目は」
「た...たべも...の」
「なんだ下民、この果実がほしいのか?」
コクコクと子供が果実を凝視しながら力なく頷くと、ロルフが眉をひそめ...
そして、手にした果実を——ぽとり、と、地に落とした。
子供の目が、輝く。ふらつく足でその果実へと手を伸ばした。
——瞬間。
ぐしゃり、と...ロルフの鉄靴が、その果実を子供の目の前で踏みつぶした。
「あ……」
「はーっはっはっ!施しを乞うかこの下民がぁ……身の程を知れぇ!!」
ドグッ
呆然とする子供をロルフが、蹴り飛ばした。小さな体が、地面を転がる。
「あぐっ……!」
「——おやめくだされ!!」
割って入ったのは、代官のボルクだった。痩せた体で、子供を庇うように抱き起こし、ロルフを、まっすぐに見上げる。
「その者は、まだ幼子。……飢えて食べ物を欲しがるは、子供として当然のこと! なにとぞ...なにとぞ、ご容赦を!」
「……なんだ、貴様は」
ロルフの顔が歪んだ。ボルクの痩せこけた姿を上から下までじろじろと眺め回す。
「手前は、この町の代官ボルクと申します。どうかこの者たちにお慈悲を。子は、国の宝であります。飢えた子を救うことこそ——」
「代官……だと?」
ロルフが、鼻を鳴らした。
「その、ぼろ雑巾のような、みすぼらしい形が?……わが偉大なる王国に仕える代官が?そのざまとは...あぁ嘆かわしい!!!恥を、知れ!恥を!!」
ぎらり、と...ロルフが、腰の剣を鞘ごと抜き放った。
そして——
ばしっ!!
鞘に納めたままの剣で、ボルクの肩を力任せに打ち据えた。
「ぐっ……!」
「王国の威信を、貴様のようなみすぼらしい下郎が汚しておるのだ」
ばしっ、ばしっ、と。ロルフは、なおもボルクを打ち続けた。
骨を打つ、鈍い音が響く。
ボルクは、子供を抱えたまま痩せた背でそれを受け続けた。
「ひひっ。いい様ですなぁ、代官どの」
取り巻きの一人も、面白がって倒れかけたボルクの脇腹を蹴りつけた。
「ぐあっ……!」
「おらおら、王国貴族様へのご挨拶がなっておらんぞ?」
げらげらと笑いながら、取り巻きらが次々とボルクを蹴る。
痩せ細った体が地面を無様に転がった。腕の中の子供を、庇いながら。
——その時だった。
「……やめ、て」
小さな声がした。
ボルクに庇われていたはずのあの子供がよろよろとその腕から抜け出し今度は、倒れたボルクの前に立ちはだかった。
痩せた両手を、精一杯に広げて。
「おじちゃんを……いじめ、ないで……!」
ふらつく足で、今にも倒れそうな体で、それでも幼子は、動かなかった。
自分を庇ってくれた、その男を守ろうとするように。
「……ちっ。クソガキがっ」
取り巻きが、ボルクを庇い立っているその子供を、どっ、と蹴り飛ばした。
バキッ
「あぐっ……!」
「ひゃはは! 下民のガキが、代官を庇うとは! 涙ぐましいなぁ!」
地面に転がった子供へ、取り巻きがなおも足を振り上げる。
「——おやめ、くだされぇっ!!」
ボルクが、ボロボロの体で地を這い子供の上に覆いかぶさった。
自らの背を盾にして、振り下ろされる蹴りから子供を守る。
「この子は……! この子だけは……! どうか、どうか……!」
ばすっ、ばすっ、と。ボルクの背を蹴りが打つ。ボルクは歯を食いしばり、それでも子供を抱きしめ続けた。
「……ちっ。興が、削がれたわ」
ロルフが、つまらなそうに吐き捨てた。そして、地に伏すボルクへと、ぺっ、と唾を吐きかける。
「いいか、代官……期日は、変わらん。飢えていようが、死のうが、知ったことか。期日までに、きちんと納税せよ。……できねばこの町は、地図から消える」
そう言い捨てて、ロルフは馬首を返した。取り巻きを引き連れ、げらげらと笑いながら、去っていく。
後に残されたのは、血を流し倒れ伏すボルクとその背に守られた子供。
そして、なす術もなく震える、飢えた民たちだった。
「ボ、ボルク様……! ボルク様ぁ……!」
駆け寄る、ボルクの付き人。
「……げほっ……子供...は……無事、か?」
「は、はい! 子供は、無事です! ですが、ボルク様が……! こんな、お怪我を……!」
「……そう、か。……よかった」
ボルクは、血に濡れた口元でかすかに笑った。
それから、途切れ途切れの声で付き人に告げた。
「……もう、限界だ。……町の蓄えも、儂の財も……この、老いぼれの体もな」
「ボルク様……!」
「……頼みが、ある。……アルブローゼンへ、行け。……クラウディア様に、お伝えするのだ……儂が、あの方の金を、使い込んだと……すべて、白状すると」
ボルクの、意識が、遠のいていく。
「……そして……どうか、この町を……この民を……お救いくださいと……儂の首と...引き換えに...で....も構わ...ぬ...と……」
そこまで言い残して。
ボルクは、意識を手放した。
ボルクが、命を賭して守ろうとしたもの。
それは——種族も、身分も超えたただ一つの想いだった。
「民を...守...る」
そのたった一つの願いのため。ボルクは、すべてを投げ打ったのだった。




