第9話 侯爵家の罠と,悪女の微笑み
ダリウス侯爵は,古い貴族社会を愛していた.
それは,伝統を大切にするという意味ではない.
自分たちに都合のよい仕組みが,いつまでも変わらないことを愛していたのである.
侯爵家は長年,地方の水利組合や税の徴収事業に関わってきた.王宮に提出される報告書は整っている.数字も大きく崩れていない.表向きには,地方運営に貢献する名家だった.
だが実際には,その仕組みの中で多くの利益が侯爵家とその派閥へ流れていた.
水路の修繕費は,実際より高く見積もられる.
地方農家の負担金は,慣習の名で増やされる.
学院予算の一部は,侯爵家とつながる業者へ優先的に回される.
それでも,これまでは問題にならなかった.
誰も細かく見なかったからだ.
王太子ルシアンは優しいが,現場の数字に弱かった.王宮の役人は慣例を疑わなかった.他の貴族たちは,自分にも似たような利益があるため黙っていた.
しかし,ヴィオレッタ・ローゼンベルクが現れた.
彼女は,数字の違和感を見逃さなかった.
そして,ルシアンに資料を突きつけた.
ダリウス侯爵にとって,彼女は非常に危険な存在だった.
「ローゼンベルクの娘は,王太子を操っている」
最初の噂は,社交界の片隅から流れた.
「公爵令嬢が,男爵令嬢を使って学院制度に口を出しているらしい」
「奨学金の第一号候補が,その男爵令嬢だとか」
「身分秩序を壊すつもりでは」
噂は,すぐ学院にも届いた.
廊下で,エミリアが通ると囁きが起こる.
「結局,公爵令嬢に取り入っただけでしょう」
「男爵家なのに調子に乗って」
「奨学金も怪しいものね」
エミリアは最初,気にしないふりをした.
けれど,何度も言われれば傷つく.
授業中,彼女の手元の文字が少し乱れるようになった.
昼食の席で,ベアトリスが怒った.
「あの噂,あまりに下品ですわ」
クララも頷く.
「エミリア様の成績を見れば,不正などあり得ませんのに」
エミリアは小さく笑った.
「ありがとうございます。でも,大丈夫です」
その「大丈夫」を聞いたヴィオレッタは,眉をひそめた.
彼女はエミリアの「大丈夫」を簡単には信じないことにしていた.
放課後,ヴィオレッタはエミリアを呼び止めた.
「あなた,傷ついていますわね」
エミリアは驚いた.
「そんなことは」
「嘘が下手です」
「……少しだけです」
「少しで済ませるために,早めに手を打ちます」
「手を?」
ヴィオレッタは扇を開いた.
「悪事をします」
エミリアは一瞬きょとんとした後,なぜか安心したように笑った.
「では,よろしくお願いします」
「そこは止めるところです」
「ヴィオレッタ様の悪事なら,たぶん大丈夫です」
「信頼の方向がおかしいですわ」
ヴィオレッタは本格的に調査を始めた.
まず,ダリウス派の夫人たちをお茶会に招いた.
表向きは親睦.実際には尋問である.
テーブルには最高級の菓子を並べ,紅茶は相手の好みに合わせた.油断させるためである.
「侯爵家の南部農園は,昨年も豊作だったそうですわね」
ヴィオレッタが何気ない調子で言うと,侯爵夫人の一人が誇らしげに答えた.
「ええ。おかげさまで」
「不思議ですわ。同じ水路を使う周辺農家では,水不足で収穫が落ちていると聞きましたのに」
夫人の手が止まった.
「それは,管理の差ではありませんこと?」
「ええ,管理は大切ですわ。特に,水門の開閉記録など」
ヴィオレッタは微笑んだ.
夫人の顔がわずかに引きつった.
次に,ダリウス派の若い令息たちへ近づいた.
彼らはヴィオレッタの美貌と圧に弱かった.
「侯爵家の水利組合は,ずいぶん利益を出しているようですわね」
「え,ええ。父上がうまくやっていると」
「学院の納入業者にも,侯爵家の縁戚が多いとか」
「昔からの付き合いですから」
「昔から,という言葉は便利ですわね。説明を省けますもの」
令息は冷や汗をかいた.
ヴィオレッタは,彼らの言葉を一つずつ記録した.
さらに,セシリアを通じて学院の納入記録を確認した.
教材費は不足しているのに,式典装飾の費用は年々増えている.その業者の一部は,ダリウス侯爵家の親族が経営していた.
「分かりやすすぎますわ」
ヴィオレッタは資料を見て呟いた.
「悪事にしては雑です」
セシリアが言う.
「お嬢様の悪事の基準が高すぎるのでは」
「悪事にも美学が必要です。これはただの不正ですわ」
一方で,エミリアにも命じた.
「あなたは逃げずに勉強しなさい」
「勉強,ですか」
「ええ。噂を完全に消すことはできません。けれど,不正受給と言われたなら,不正など不要だと点数で殴り返しなさい」
エミリアは目を丸くした.
「点数で殴り返す」
「満点を取りなさい」
「満点ですか」
「できないなら,満点に近い点で妥協します」
「妥協の基準が高いです」
「あなたならできるでしょう。ただし,休息時間は守りなさい」
エミリアは少し笑った.
「はい。今度は倒れません」
ヴィオレッタは満足げに頷いた.
試験当日.
エミリアは落ち着いていた.以前のように無理を重ねている様子はない.計画的に勉強し,睡眠も取っていた.
結果は,学院の掲示板に張り出された.
エミリア・ベル,首席.
廊下がざわめいた.
「本当に?」
「男爵令嬢が首席?」
「不正では」
そう言いかけた学生は,隣に立つヴィオレッタを見て口を閉じた.
ヴィオレッタは美しく微笑んでいた.
「何か,おっしゃりたいことでも?」
誰も何も言わなかった.
その日の夕方,ヴィオレッタは学院の廊下でダリウス侯爵と出くわした.
彼は学院理事の一人として,式典準備の確認に来ていたのだ.
「ローゼンベルク嬢」
「侯爵閣下」
二人は微笑んだ.
ただし,周囲の空気は冷たかった.
ダリウスは低い声で言った.
「公爵令嬢が,ずいぶん政治に口を出しているようですな」
「わたくしは口を出しているのではありません。穴を指摘しているだけです」
「女の身で,あまり出過ぎると身を滅ぼしますぞ」
ヴィオレッタは扇を開いた.
「ご忠告,痛み入ります」
そして,一歩近づいた.
「ですが,わたくしを脅すなら,もう少し準備なさったほうがよろしいですわ」
「何だと」
「悪役令嬢を敵に回すには,覚悟と証拠隠滅が足りません」
ダリウスの目が細くなる.
「小娘が」
「その小娘に足元を見られているお気分は,いかがですの?」
二人の間に,見えない火花が散った.
その日,ダリウスは決めた.
ヴィオレッタを公の場で失脚させる.
学院記念式典.王族,貴族,教師,学生が集まる場で,彼女を断罪する.
王太子を操り,男爵令嬢を利用し,制度改革を私物化する危険な公爵令嬢として.
もちろん,ヴィオレッタもそれを予想していた.
屋敷に戻った彼女は,集めた資料を机に並べた.
地方水利の記録.学院納入業者の名簿.奨学金候補者への圧力の証言.侯爵家と関係する会計係の証言予定.
セシリアが尋ねた.
「お嬢様,これらは」
「悪事のために集めた弱みですわ」
「正義のための証拠に見えます」
「言い方が悪いです」
ヴィオレッタは赤いインクで資料に印を付ける.
「わたくしを悪役令嬢と呼ぶなら,構いません。けれど,努力する者を踏みにじり,制度を食い物にする者が無傷でいられると思うなら,それは大きな間違いですわ」
セシリアは静かに礼をした.
「お嬢様,今度の悪事は成功しそうでございますね」
ヴィオレッタは微笑んだ.
「ええ。相手を泣かせます」
その舞台は,すぐに整うことになる.
学院記念式典.
悪役令嬢が断罪されるはずの場で,彼女は初めて,断罪する側に立つ.




