第8話 悪役令嬢,婚約破棄を期待する
エミリアが倒れた一件以来,ヴィオレッタは少し変わった.
もちろん,本人は認めていない.
課題を出すときには,作業量の目安と休息日を入れるようになった.相談日も設けるようになった.資料の場所も示すようになった.
セシリアがそれを指摘すると,ヴィオレッタは決まってこう言った.
「効率よく苦しめるためですわ」
セシリアは,もう反論しなかった.
エミリアもまた,少し変わった.
以前はヴィオレッタに何か言われると,すぐに「はい,頑張ります」と答えていた.今は,少し考えるようになった.
「三日では難しいです。五日いただけますか」
「この資料は,どこを優先して読めばよいでしょうか」
「ここまでは一人でできますが,この部分は相談したいです」
そう言えるようになった.
ヴィオレッタはそれを見て,内心では満足していた.
もちろん,口ではこう言う.
「少しは生意気になりましたわね」
「ヴィオレッタ様に教わりました」
「責任転嫁しないでくださいませ」
そんな二人の様子は,学院でも少しずつ噂になっていた.
最初は,公爵令嬢が男爵令嬢をいじめているという噂だった.
次に,公爵令嬢が男爵令嬢を鍛えているという噂になった.
そして最近では,こう言われるようになった.
「ヴィオレッタ様とエミリア様は,ずいぶん仲がよろしいのね」
ヴィオレッタは,その噂を聞くたびに顔をしかめた.
「違いますわ。これは悪役令嬢とヒロインの関係です」
セシリアは淡々と言った.
「世間では,友情と呼ぶようでございます」
「世間が間違っています」
「王都の世間全体を敵に回されますか」
「悪役令嬢ですもの」
しかし,ヴィオレッタには別の大きな懸念があった.
王太子ルシアンである.
ルシアンは,エミリアとよく話していた.
内容は,地方教育のこと,学院制度のこと,奨学金の運用のことが多い.二人は庭園のベンチや図書室の片隅で,資料を広げて真剣に話し合っている.
傍目には,親しげに見えた.
ヴィオレッタはそれを見て,ひそかに頷いた.
「いよいよですわね」
「何がでございますか」
「王太子とヒロインの接近です」
「また始まりましたね」
「この流れなら,遠からず婚約破棄が来ます」
セシリアは,主人の顔を観察した.
「お嬢様は,それをお望みなのですか」
「当然ですわ。悪役令嬢の花道ですもの」
「花道というより,退場口では」
「退場の美学も重要です」
ヴィオレッタの頭の中には,すでに場面ができていた.
場所は,大広間.
人々の前で,ルシアンが冷たい声で言う.
『ヴィオレッタ・ローゼンベルク。君との婚約を破棄する』
周囲がざわめく.エミリアは涙ぐむ.ヴィオレッタは扇を広げ,高笑いする.
『おーっほっほっほ! ようやくですのね,殿下』
そして堂々と去る.
完璧である.
問題は,現実のルシアンがまったくその気配を見せないことだった.
むしろ最近のルシアンは,ヴィオレッタを避けるどころか,やたらと政務の相談を持ち込んでくる.
「ヴィオレッタ,この水利調査の結果を見てほしい」
「ヴィオレッタ,奨学金制度の二次審査に地方代表を入れる件だけど」
「ヴィオレッタ,次の演説原稿を読んでくれないか」
ある日,ついにヴィオレッタは怒った.
「殿下」
「何だい」
「わたくしは婚約者であって,執務補佐官ではありませんわ」
ルシアンは申し訳なさそうに言った.
「分かっている。でも,君に見てもらうと問題点が分かるんだ」
「それはあなたが問題点を見つけられないからです」
「その通りだ」
あまりにも素直に認めるので,ヴィオレッタは次の嫌味を失った.
「開き直らないでくださいませ」
「開き直っているわけではないよ。君の指摘は厳しいけれど,正確だから」
「悪役令嬢に正確さを求めないでください」
「君は正確だ」
「褒めないでくださいませ」
ルシアンは笑った.
その笑顔は,少し前までの頼りないものとは違っていた.疲れてはいるが,逃げてはいない.自分が未熟だと認めた上で,前へ進もうとしている.
ヴィオレッタは,それを好ましい変化だと思った.
だが,悪役令嬢としてそれを喜ぶわけにはいかない.
その日の放課後,ヴィオレッタはエミリアを庭園に呼び出した.
「単刀直入に聞きます」
「はい」
「あなた,殿下のことをどう思っていますの」
エミリアはきょとんとした.
「殿下,ですか」
「ええ」
「とても立派な方だと思います」
「それは恋愛感情ですの?」
「えっ」
エミリアは本気で驚いた顔をした.
「違いますの?」
「違います」
即答だった.
ヴィオレッタは思わず身を乗り出した.
「なぜですの。王太子ですわよ。優しくて,顔も悪くありません。最近は少しだけ仕事もするようになりました」
「最後の言い方がヴィオレッタ様らしいです」
「話を逸らさない」
エミリアは困ったように笑った.
「殿下は尊敬しています。私の話を身分で遮らずに聞いてくださいますし,教育制度にも関心を持ってくださいます。でも,恋ではありません」
「では,なぜ庭園であれほど親しげに」
「地方学校の話をしていました。あと,奨学金制度の申請書が難しいという話も」
「恋の話ではなく?」
「はい」
ヴィオレッタの頭の中で,物語の筋書きが音を立てて崩れた.
「あなたは,ヒロインではないのですか」
「ヒロイン……?」
「こちらの話です」
エミリアは少し考えた後,言った.
「ヴィオレッタ様は,殿下のことがお好きなのですか」
ヴィオレッタは固まった.
「なぜそうなりますの」
「気にしていらっしゃるように見えます」
「それは,殿下が王太子として未熟だからです」
「それだけですか?」
「それだけです」
「本当に?」
「エミリア・ベル」
ヴィオレッタは扇を閉じた.
「あなた,少し生意気になりましたわね」
「ヴィオレッタ様に教わりました」
「また責任転嫁ですか」
二人はしばらく見つめ合い,エミリアが先に笑った.
その日の夕方,今度はルシアンがヴィオレッタに話しかけてきた.
場所は,王宮へ続く回廊だった.夕日が窓から差し込み,石床を赤く染めている.
「ヴィオレッタ,少し話せるかな」
「婚約破棄ですの?」
ルシアンは足を止めた.
「どうしてすぐそこへ行くんだ」
「期待しているからです」
「期待?」
「悪役令嬢としての展開を」
ルシアンは困ったように笑ったが,すぐに真面目な顔になった.
「僕は,エミリアに惹かれていたのだと思う」
ヴィオレッタは身構えた.
「ついに来ましたわね」
「でも,恋ではなかった」
「……何ですって?」
ルシアンは窓の外を見た.
「彼女は自由に見えた。身分が低くても,自分の夢を言葉にできる。僕は王太子なのに,ずっと自分が何をしたいのか分からなかった。だから,彼女がまぶしかったんだ」
ヴィオレッタは黙って聞いた.
「庭園で彼女と話していたのは,楽だったからだ。王太子としての僕ではなく,一人の学生として話せる気がした。でも,それは逃げでもあった」
「ようやく自覚なさいましたのね」
「君は手厳しい」
「事実です」
「うん。事実だ」
ルシアンは小さく息を吐いた.
「僕が本当に向き合わなければならないのは,逃げ場所ではなく,自分の責任だ。君に資料を突きつけられて,ようやく分かった」
「それは結構なことですわ」
「君に叱られたおかげだ」
「感謝しないでくださいませ」
「でも,感謝している」
ヴィオレッタは扇で顔を隠した.
ルシアンは続けた.
「それと,婚約破棄はしない」
「なぜですの」
「したいのかい?」
「悪役令嬢としては,当然の展開です」
「僕は物語の王子ではないし,君もただの悪役令嬢ではない」
「わたくしは悪役令嬢です」
「そう名乗りたいなら止めない。でも,僕は君を信頼している」
信頼.
ヴィオレッタは,その言葉をうまく受け取れなかった.
悪役令嬢は恐れられるものだ.嫌われるものだ.断罪されるものだ.
信頼される悪役令嬢など,聞いたことがない.
「信頼される悪役令嬢なんて,変ですわ」
「では,君が最初になればいい」
ルシアンはそう言った.
その言葉は,なぜか胸に残った.
ヴィオレッタはその夜,日記を書いた.
『婚約破棄,失敗。殿下がエミリアを好きだと思っていたが,恋ではなかったらしい。エミリアにも恋心なし。物語として非常に不成立。殿下は思ったより厄介。』
少し迷ってから,もう一行足した.
『ただし,少しだけ王太子らしくなった』
そして,その翌週.
学院と王宮の空気が変わり始めた.
奨学金制度,地方水利調査,学院予算の見直し.それらの動きに不満を持つ者たちが,いよいよ表へ出てきたのである.
その中心にいたのが,ダリウス侯爵だった.




