第7話 悪役令嬢,初めて本気で失敗する
ヴィオレッタ・ローゼンベルクは,失敗に慣れてきていた.
もちろん,本人は認めていない.
教科書を隠せば教材になる.
ドレスを破ろうとすれば最高級に仕立て直す.
お茶会で孤立させようとすれば友人が増える.
王太子を困らせようとすれば政策改革が始まる.
奨学金制度まで作ってしまった.
悪役令嬢としては,あまりにも不本意な戦績である.
「このままでは,わたくしの悪名が立つ前に,人望が立ってしまいますわ」
ヴィオレッタは自室で深刻な顔をしていた.
机の上には,エミリアが提出した『地方の子どもたちのための小さな学校案』が置かれている.赤いインクで大量に修正が入っていた.
セシリアはその紙束を見て,静かに言った.
「すでにかなり人望は立っております」
「黙りなさい」
「特にエミリア様からは,ほぼ師として慕われております」
「黙りなさいと言いました」
ヴィオレッタは扇を開いた.
しかし,その表情はいつもより少し複雑だった.
エミリアの計画書は,粗い.
資金計画は甘く,教師の確保も曖昧で,村ごとの事情の違いも十分に考えられていない.
だが,そこには確かに熱があった.
自分が学べなかった子どもたちを見てきた者の言葉.読み書きができないために契約で騙される大人たちを知る者の焦り.学ぶことが人生を変えると信じている者の願い.
ヴィオレッタは,その熱を評価していた.
だからこそ,腹が立った.
熱だけでは,人は救えない.
夢だけでは,制度は作れない.
善意だけで動く仕組みは,必ず誰かの負担に寄りかかる.そして,最初に潰れるのは,たいてい一番真面目な人間だ.
「エミリア・ベルには,現実を教える必要がありますわ」
「教育でございますね」
「悪事です」
「左様でございますか」
ヴィオレッタは,エミリアに課題を出すことにした.
内容は三つ.
第一に,地方教育計画の問題点を十項目以上挙げること.
第二に,王立学院の奨学金制度を参考に,支援対象者の選定基準を考えること.
第三に,次回の小討論会で,自分の計画を三分で説明できるよう意見書を作ること.
普通の学生なら,一週間は必要な量だった.
ヴィオレッタはそれを三日後までに提出するよう命じた.
「あなたなら,できるでしょう?」
放課後の図書室で,ヴィオレッタはそう言った.
エミリアは紙束を受け取り,一瞬だけ目を見開いた.
「三日後,ですか」
「不満?」
「いえ」
「地方に学校を作りたいのでしょう。ならば,この程度で音を上げていては話になりませんわ」
エミリアは唇を結び,頷いた.
「はい。頑張ります」
ヴィオレッタは満足した.
その返事には,覚悟があった.
「せいぜい苦しみなさいませ。夢を現実にするには,きれいごとだけでは足りないと知ることですわ」
「はい,ヴィオレッタ様」
エミリアは頭を下げた.
セシリアは,その様子を少し離れた場所から見ていた.
屋敷に戻る馬車の中で,彼女は口を開いた.
「お嬢様」
「何ですの」
「三日では,少々厳しいのでは」
「厳しくなければ鍛錬になりません」
「エミリア様は,通常授業と奨学金候補者としての面談もございます」
ヴィオレッタは少しだけ黙った.
「……だからこそ,時間管理も含めて試すのです」
「左様でございますか」
セシリアはそれ以上言わなかった.
ヴィオレッタは窓の外を見た.
自分は間違っていない.
そう思っていた.
エミリアには力がある.周囲が思っているよりもずっと強い.ただ優しく,可憐なだけの少女ではない.あの子は,自分の夢を口にできる.ならば,少しくらい追い込んでも乗り越えられるはずだ.
ヴィオレッタは,そう信じていた.
だが,彼女は一つ見落としていた.
期待は,時に重荷になる.
特に,今まで期待されることに飢えていた人間にとっては.
翌日,エミリアは授業後すぐに図書室へ向かった.
王国の地方行政に関する本,過去の教育制度の記録,教会が運営する読み書き教室の資料,水利と農期に関する報告書.彼女は慣れない専門書を積み上げ,一つずつ読み始めた.
分からない単語は書き写し,学院の辞書で調べる.
授業で疲れていても,手を止めない.
夕食の時間になっても,パンを片手に資料を読み続けた.
同じ奨学金候補の学生が声をかける.
「ベルさん,少し休んだら?」
エミリアは笑った.
「大丈夫です。ヴィオレッタ様が,私ならできると思ってくださったから」
その言葉は,彼女にとって励ましだった.
けれど同時に,鎖でもあった.
二日目,エミリアの顔色は少し悪くなっていた.
それでも彼女は笑った.
ベアトリスが心配して言う.
「あなた,目の下に隈ができていますわよ」
「少し寝不足なだけです」
クララも言った.
「無理はよくありませんわ」
「大丈夫です。本当に」
エミリアは,その言葉を何度も繰り返した.
大丈夫.
まだできる.
期待に応えたい.
ヴィオレッタ様に,見込み違いだったと思われたくない.
三日目の午前.
王国史の授業中,エミリアは立ち上がろうとして,そのまま倒れた.
椅子が床を擦る音がした.
教室が騒然となる.
「エミリア様!」
誰かが叫んだ.
ヴィオレッタは,その瞬間を少し離れた席から見ていた.
時間が止まったように感じた.
エミリアの顔は青白く,手には書き込みだらけの資料が握られていた.
医務室に運ばれたエミリアは,過労と睡眠不足だと診断された.
命に別状はない.数日休めば回復する.
医師はそう言った.
だが,その言葉はヴィオレッタを安心させなかった.
医務室の白い寝台で眠るエミリアを前に,ヴィオレッタは立ち尽くしていた.
いつものように高笑いはできない.
「お嬢様」
セシリアが静かに声をかける.
ヴィオレッタは答えなかった.
机の上には,エミリアの課題が置かれていた.
問題点の列挙は,途中までよくできていた.
選定基準も粗いながら考えられている.
意見書は,何度も書き直した跡があった.文字は後半になるにつれて乱れている.
最後の行には,こう書かれていた.
『学びたい子どもが,学びたいと言える場所を作りたい』
その文字を見た瞬間,ヴィオレッタは胸をつかまれたような気がした.
自分は何をしたのか.
鍛えるつもりだった.
試すつもりだった.
悪事のつもりだった.
けれど,その結果,エミリアは倒れた.
今回は笑えない.
本当に,失敗したのだ.
夕方,エミリアが目を覚ました.
彼女はぼんやりと天井を見つめ,やがてヴィオレッタに気づいた.
「ヴィオレッタ様……」
「寝ていなさい」
「すみません。課題,まだ終わっていなくて」
その第一声に,ヴィオレッタは息を呑んだ.
「もう結構です」
「でも,私が遅いから」
「違いますわ」
ヴィオレッタの声は,自分でも驚くほど低かった.
「わたくしが量を見誤りました」
エミリアは目を丸くした.
「ヴィオレッタ様が?」
「ええ」
その一言を認めるのに,喉が痛むほどの努力が必要だった.
ヴィオレッタ・ローゼンベルクは,謝罪が苦手だった.
悪役令嬢は簡単に頭を下げない.
けれど,今はそんな美学を言い訳にしてよい場面ではなかった.
「あなたを潰すなら,もっと美しく潰しますわ」
エミリアは瞬きをした.
「え?」
「こんな雑な倒れ方,許しません。計画も不完全,休息も不足,報告もない。まったく,美しくありませんわ」
エミリアは少しだけ笑った.
「それは,謝ってくださっているのですか?」
「解釈は任せます」
「では,謝ってくださったことにします」
「勝手になさい」
沈黙が落ちた.
医務室の窓の外では,夕焼けが学院の庭を染めている.
エミリアは布団の中で,ぽつりと言った.
「私も悪かったです」
ヴィオレッタは眉を寄せた.
「あなたが?」
「できないと言えませんでした」
「言えばよかったのです」
「言えませんでした」
エミリアは布団を握った.
「期待されるのが,うれしかったからです」
ヴィオレッタは黙った.
「男爵家の娘だから無理だと言われることは多かったです。可哀想だと言われることも,身の程を知れと言われることもありました。でも,ヴィオレッタ様は,私ならできるって思ってくださった気がして」
「思い上がりですわ」
「はい」
エミリアは素直に頷いた.
「でも,うれしかったんです。だから,できないと言ったら,その期待を失ってしまう気がしました」
その言葉は,ヴィオレッタの中に深く刺さった.
期待することも,期待されることも,力になる.
だが,扱いを間違えれば,人を追い詰める.
ヴィオレッタは,そんな当たり前のことを,今さら知った.
「今後は,限界を越える前に言いなさい」
「はい」
「限界を言葉にできない者に,制度設計は任せられません。現場の無理を見落とすからです」
「はい」
「それから,計画書には休息時間も入れなさい」
「休息も,計画に?」
「当然です。善意で動く人間ほど,自分を数に入れません。けれど,自分を燃やし尽くして作る仕組みは,長続きしませんわ」
エミリアは,ゆっくりと頷いた.
「覚えておきます」
「覚えるだけでは足りません。次の計画書に書きなさい」
「はい」
「返事だけは良いのですから」
エミリアは笑った.
その笑顔はまだ弱かったが,確かに戻っていた.
その夜,ヴィオレッタは屋敷に戻ってからも,なかなか眠れなかった.
机に向かい,日記を開く.
いつものように,悪事の記録を書こうとした.
『本日の悪事』
そこまで書いて,手が止まる.
今回のことを,いつものように笑い話にはできなかった.
彼女はしばらく考えた後,ゆっくりと書いた.
『悪事にも責任が必要.無責任な悪女は美しくない』
その一文を書いた瞬間,胸の奥の何かが少しだけ静まった.
翌日,ヴィオレッタは課題の出し方を変えた.
期限だけでなく,作業量の目安を書く.
必要な資料の場所を示す.
途中で相談する日を設ける.
そして,必ず休息日を入れる.
セシリアがそれを見て言った.
「お嬢様,ずいぶん親切な課題になりました」
「違います。より効率的に相手を鍛えるためです」
「左様でございますか」
「倒れられると,こちらの悪事の完成度が下がりますもの」
「言い訳がやや苦しくなっております」
ヴィオレッタは扇で顔を隠した.
数日後,回復したエミリアが図書室に戻ってきた.
彼女はヴィオレッタに新しい計画書を差し出した.
そこには,作業日程と休息時間がきちんと書き込まれていた.
一番下には,小さくこう書かれている.
『支える人が倒れない仕組みにする』
ヴィオレッタはそれを見て,少しだけ口元を緩めた.
「少しはましになりましたわね」
「はい。ヴィオレッタ様のおかげです」
「感謝しないでくださいませ」
「でも,ありがとうございます」
「本当に厄介な方ですわね,あなたは」
エミリアは笑った.
この出来事をきっかけに,二人の関係は少し変わった.
エミリアは,ヴィオレッタをただ憧れの人として見るだけではなくなった.厳しく,間違えることもあり,それでも自分の過ちから逃げない人として見るようになった.
ヴィオレッタもまた,エミリアをただのヒロイン役として扱えなくなった.
彼女は傷つく.
無理もする.
期待に応えようとして,倒れることもある.
だからこそ,守られるだけではなく,自分で立つための仕組みが必要なのだ.
ヴィオレッタは,そのことを学んだ.
もちろん,本人はこう言うだろう.
「悪役令嬢として,より高度な嫌がらせを覚えただけですわ」
だが,セシリアは知っていた.
この日,ヴィオレッタの悪事は初めて本当に失敗し,その失敗によって彼女は少しだけ変わったのだと.
そしてこの変化は,次の騒動へつながっていく.
なぜならヴィオレッタは,エミリアとの関係が深まったにもかかわらず,まだ大きな勘違いをしていたからである.
王太子ルシアンは,エミリアに恋をしている.
だから,自分はいつか婚約破棄される.
悪役令嬢としての花道が,ついに来る.
そう,本気で思い込んでいたのだった.




