第5話 王太子を困らせるため,政策の欠陥を暴きます
王太子ルシアン・アルベルトは,優しい少年だった.
誰かが困っていれば話を聞く.使用人にも礼を言う.学院でも身分の低い学生に横柄な態度を取らない.
その優しさは,美徳だった.
しかし,ヴィオレッタに言わせれば,それだけでは足りない.
「優しいだけの王太子など,柔らかい椅子と同じですわ」
執務室へ向かう廊下で,ヴィオレッタはそう言った.
セシリアは少し首を傾げた.
「座り心地はよさそうでございます」
「座られる側になってどうするのです。王とは,座る者ではなく支える者です」
「お嬢様,今の発言はかなり王妃向きでございます」
「違います。悪役令嬢としての一般教養です」
ルシアンは最近,庭園でエミリアと話していることが多かった.
二人の関係は恋愛というより,気安い相談相手に近い.それでも,周囲は勝手に噂をする.王太子が男爵令嬢を気に入っているらしい,公爵令嬢との婚約に不満があるのではないか,と.
ヴィオレッタは,それを聞いても嫉妬はしなかった.
少なくとも,本人はそう信じていた.
彼女が許せなかったのは,ルシアンが政務研修を抜け出して庭園にいることだった.
「王太子が現実から逃げてどうしますの」
その日,ヴィオレッタはルシアンの予定を調べた.
午前,外交史の講義.午後,王宮での政務研修.夕方,学院行事の打ち合わせ.
しかし実際には,午後の政務研修が短縮され,ルシアンは庭園でエミリアと地方教育について話していた.
話題自体は悪くない.むしろ,エミリアの視点を聞くのは有益だ.
だが,王太子が聞くだけで満足しているのが問題だった.
「聞いて感心するだけなら,誰にでもできますわ」
ヴィオレッタはその夜,自室に資料を集めた.
税制,地方農地の水利,学院予算,救貧制度,王太子の演説原稿.
彼女は赤いインクを手に取り,一つずつ読み込んでいった.
地方農家が水利組合に過大な負担金を払っていること.
学院予算が貴族向け行事に偏り,教材や地方出身者への支援が不足していること.
救貧制度の申請手続きが複雑すぎて,本当に困っている者ほど利用できないこと.
そして,ルシアンの演説原稿が,現場を知らない美しい言葉だけでできていること.
夜が更けても,ヴィオレッタはペンを止めなかった.
セシリアが三度目の紅茶を置く.
「お嬢様,そろそろお休みになっては」
「まだです」
「殿下を困らせるために,お嬢様が先に倒れそうでございます」
「悪事には準備が必要ですわ」
「この資料量は,もはや政策顧問の仕事でございます」
「違います。嫌がらせです」
翌朝,ヴィオレッタはルシアンの執務室を訪れた.
ルシアンは驚いた顔をした.
「ヴィオレッタ? こんな朝早くにどうしたんだ」
「殿下,こちらをご覧くださいませ」
彼女は分厚い資料の束を机に置いた.
重い音がした.
ルシアンは少し怯えた.
「これは?」
「あなたを困らせるための資料ですわ」
「困らせる?」
「ええ。貴族税制の欠陥,地方農地の水利問題,学院予算の無駄遣い,救貧制度の抜け穴,そして殿下の演説原稿の論理破綻です」
ルシアンは最初,冗談だと思ったようだった.
しかし一枚目を読んだ瞬間,表情が変わる.
「この水利負担額は,本当なのか」
「調べれば分かりますわ」
「地方の小規模農家が,ここまで負担しているなんて聞いていない」
「殿下に届く報告書には,『おおむね安定』と書いてありますものね」
「違うのか」
「安定しているのは,報告書の文体だけです」
ルシアンは言葉に詰まった.
ヴィオレッタは次の資料を開く.
「こちらは学院予算です。舞踏会や式典には十分な費用が出ていますが,地方出身者の教材支援はほとんどありません。エミリア・ベルの教科書が古かった理由も,おそらくここにあります」
「エミリアの……」
「殿下,そこで彼女個人の顔を思い浮かべるのは悪くありません。しかし,彼女だけを助けても意味がないのです。同じ状況の学生が他にもいます」
ルシアンは黙って資料を見た.
彼の顔から,いつもの柔らかな曖昧さが消えていく.
「僕は,何も見えていなかった」
「ええ」
ヴィオレッタは容赦なく頷いた.
「あなたは優しい方です。でも,優しさを制度に変えなければ,王太子の優しさなど一時の慰めで終わります」
その言葉は厳しかった.
ルシアンは傷ついたように目を伏せた.
だが,逃げなかった.
「どうすればいい」
ヴィオレッタは少しだけ目を細めた.
「まず,徹夜なさい」
「徹夜?」
「これをすべて読み,分からない部分を書き出すのです。翌朝,わたくしが確認します」
「君が?」
「わたくしが突きつけた資料ですもの。逃げ道を塞ぐ責任くらい取ります」
ルシアンは資料を見つめた.
そして,深く息を吸った.
「分かった」
ヴィオレッタは満足した.
「苦しみなさいませ,殿下。己の未熟さに打ちのめされ,眠れぬ夜を過ごすがいいですわ」
「ヴィオレッタ」
「何ですの」
「ありがとう」
ヴィオレッタは凍った.
「今,何と?」
「ありがとう。僕は,見ないようにしていたものを見せてもらった」
「感謝しないでくださいませ。わたくしはあなたを苦しめたかっただけです」
「必要な苦しみだ」
ルシアンは資料を抱えた.
「僕は王太子なのに,整えられた報告だけを見て,自分は国を知っているつもりになっていた。君が怒るのも当然だ」
「怒ってなどいません」
「怒っているだろう」
「悪役令嬢として,殿下の怠慢を楽しんでいただけです」
「君は本当に,言い方が不器用だね」
ヴィオレッタは扇を開いた.
「不敬ですわ」
しかし,ルシアンは笑った.
その笑顔には,以前より少しだけ芯があった.
その夜,ルシアンは本当に徹夜した.
翌朝,目の下に隈を作りながら,彼は資料の疑問点をまとめていた.
ヴィオレッタはそれを見て,内心で少しだけ感心した.
「雑ではありませんね」
「褒めている?」
「最低限の評価です」
「それでも嬉しいよ」
「嬉しがらないでください」
その後,ルシアンは王宮で小さな調査会を立ち上げた.
最初の議題は,学院予算の見直しと,地方水利負担の実態調査.まだ改革と呼べるほど大きなものではない.
けれど,確かに一歩だった.
グレアム宰相は,その様子を興味深そうに見ていた.
「ローゼンベルク嬢」
「何でしょう,宰相閣下」
「殿下が変わりましたな」
「わたくしは困らせただけです」
「人を正しく困らせるのは,なかなか難しいものです」
「嫌な褒め方ですわね」
グレアムは穏やかに笑った.
「制度を動かすには,優しさだけでなく,誰かの厳しさが必要です。あなたは,殿下にその厳しさを与えた」
「わたくしを政治に巻き込まないでくださいませ」
「もう巻き込まれておりますよ」
ヴィオレッタは,非常に嫌な予感がした.
その予感は当たる.
学院予算の見直しは,やがて奨学金制度という具体的な形を取り始めることになる.
そしてその制度は,エミリアだけでなく,多くの学生の未来を変えるものになるのだった.




