第3話 破るはずのドレスを,最高級に仕立てました
王立学院の春の舞踏会は,ただの学生行事ではない.
それは,若き貴族たちにとって最初の社交戦であり,将来の婚姻,人脈,派閥形成にまで影響する重要な場だった.
誰と踊るか.誰に声をかけるか.誰の視線を集めるか.
一曲のワルツが,十年後の政治関係を変えることもある.
ヴィオレッタは,その重要性をよく理解していた.
だからこそ,悪役令嬢としてここを逃すわけにはいかなかった.
「次の悪事は,ドレスですわ」
自室で舞踏会用の装飾品を選びながら,ヴィオレッタは宣言した.
セシリアは宝石箱を持ったまま尋ねる.
「エミリア様のドレスに何かされるのですか」
「ええ.舞踏会で最も分かりやすい嫌がらせといえば,衣装への細工です」
「古典的でございますね」
「古典を軽んじる者に,革新はできません」
「悪事の話でございますよね」
「もちろんですわ」
ヴィオレッタの計画は単純だった.
エミリアのドレスを少しだけ破る.完全に台無しにするのは下品だし,危険でもある.踊れないほどではなく,けれど恥ずかしくなる程度にする.
そして舞踏会の場で,エミリアが困った顔をする.
そこへヴィオレッタが現れ,扇を広げて高笑いする.
「おーっほっほっほ! 男爵令嬢には,舞踏会など早かったようですわね」
完璧である.
少なくとも,ヴィオレッタの頭の中では完璧だった.
舞踏会前日の夕方,彼女は学院の衣装室へ向かった.
学院では,遠方から来た学生や屋敷を持たない学生のために,舞踏会用の衣装を一時的に保管する部屋が用意されている.エミリアのドレスも,そこにあるはずだった.
衣装室には,色とりどりのドレスが並んでいた.絹,レース,刺繍,宝石飾り.貴族の娘たちが家の威信をかけて用意したものばかりである.
その中で,エミリアのドレスはすぐに分かった.
淡い水色の,質素なドレスだった.
安価な布ではあったが,丁寧に洗われ,リボンもきちんと整えられている.派手さはないが,エミリアの素朴な雰囲気にはよく似合う色だった.
ヴィオレッタは裁ち鋏を手に取った.
「ふふふ.これで,あの子は舞踏会で……」
しかし,近づいた瞬間,彼女の笑みが消えた.
肩の縫い目が甘い.
裾の長さが左右で微妙に違う.
腰の補強も足りない.このまま踊れば,破るまでもなく途中で布が裂れる可能性がある.
しかも,縫い直した跡がいくつもあった.おそらく,古いドレスを何とか仕立て直したのだろう.エミリア自身か,家族か,あるいは村の誰かが,一生懸命に整えたのかもしれない.
ヴィオレッタは震えた.
「許せませんわ」
「エミリア様をでございますか」
セシリアが確認する.
「この縫製をです!」
ヴィオレッタは裁ち鋏を机に置いた.
「こんな状態で舞踏会に出たら,本当に事故になります.悪役令嬢の嫌がらせより先に,仕立ての雑さで恥をかくなど,美しくありません」
「お嬢様,目的がずれております」
「ずれていません.これは悪事の品質管理です」
「初めて聞く概念でございます」
ヴィオレッタはすぐに命じた.
「王都一の仕立て屋を呼びなさい.今すぐです」
「今からでございますか」
「夜通し作業させます.報酬は三倍」
「悪事にかける費用ではございませんね」
「黙りなさい」
その夜,衣装室は急ごしらえの工房になった.
呼び出された仕立て屋は,眠そうな顔でやって来たが,ヴィオレッタにドレスを見せられた瞬間,職人としての目を覚ました.
「これは……確かに危険でございますね」
「でしょう」
ヴィオレッタは腕を組んだ.
「ただ直すだけでは足りません.彼女の雰囲気を生かしなさい.豪華にしすぎては駄目.男爵令嬢が無理をしているように見えると,かえって滑稽です」
「では,装飾は控えめに?」
「ええ.首元は少し開けて,姿勢がよく見えるように.肩の線は柔らかく.裾は軽くして,踊るときに花びらのように広がるように」
仕立て屋は必死にメモを取る.
「腰の位置は少し上げなさい.彼女は背が高くないけれど,足の運びが軽い.そこを生かすのです」
セシリアは横で聞いていた.
「お嬢様,これは完全に専属衣装係の働きでございます」
「違います.美しすぎるドレスを着せて,注目を浴びせ,緊張で足を震わせる作戦ですわ」
「かなり遠回りな悪事でございます」
「高度な悪事です」
作業は夜明け近くまで続いた.
ヴィオレッタは途中で何度も駄目出しをした.
「そのリボンは不要です.甘すぎます」
「袖の長さが半寸長いですわ」
「刺繍は銀ではなく白糸で.光らせるのではなく,近くで見たときに分かる程度がよろしい」
仕立て屋は最後には半泣きだったが,完成したドレスを見て,自分でも深く頷いた.
「これは,美しい」
翌日の舞踏会.
大広間にはシャンデリアが輝き,楽団が優雅な曲を奏でていた.令嬢たちは色とりどりのドレスをまとい,令息たちは互いに牽制しながら相手を探している.
ヴィオレッタは深紫のドレスで現れた.黒薔薇の刺繍が光り,誰もが思わず道を開ける.
「悪役令嬢らしい威圧感でございます」
「褒め言葉として受け取りますわ」
そして,エミリアが広間に入ってきた.
一瞬,場が静かになった.
淡い水色のドレスは,彼女を飾り立てるのではなく,彼女自身の明るさを引き出していた.歩くたび,軽い裾が揺れ,まるで春の空気をまとっているように見える.
派手な宝石はない.豪華なレースもない.
けれど,誰もが目を引かれた.
「まあ,素敵」
「男爵令嬢とは思えないわ」
「いえ,あの控えめな感じがよいのです」
王太子ルシアンも,思わずエミリアを見た.
ヴィオレッタはその視線を確認し,内心で頷いた.
「よし.王子とヒロインが接近しましたわ.これは悪役令嬢として正しい展開」
そう自分に言い聞かせていたところへ,エミリアが小走りで近づいてきた.
「ヴィオレッタ様!」
「廊下でも広間でも,急いで歩くものではありませんわ」
「すみません.でも,どうしてもお礼を言いたくて」
「礼?」
エミリアはドレスの裾をそっと持ち上げた.
「このドレス,ヴィオレッタ様が直してくださったのですね」
ヴィオレッタは仕立て屋を探した.
広間の隅で,仕立て屋が満足げに親指を立てていた.
「余計なことを……」
「私,こんなに綺麗な服を着たのは初めてです」
エミリアの声は震えていた.
「母が,古いドレスを直してくれたんです.でも,本当は少し不安でした.踊っている途中で破れたらどうしようって」
ヴィオレッタは一瞬,言葉を失った.
やはり危なかったのだ.
エミリアは続ける.
「でも,今は怖くありません.ありがとうございます」
周囲の令嬢たちが,そのやり取りを聞いていた.
「ヴィオレッタ様は,本当に面倒見がよろしいのね」
「未来の王妃にふさわしい器ですわ」
「男爵令嬢にもお優しいなんて」
ヴィオレッタは扇を握りしめた.
「おーっほっほっほ!」
彼女は高笑いした.
「当然ですわ! わたくしの審美眼にかかれば,粗末なドレスもこの通りです!」
「はい,本当にすごいです!」
エミリアが目を輝かせる.
「褒めないでくださいませ!」
その後,エミリアはルシアンにダンスを申し込まれた.
ヴィオレッタは壁際から二人を見ていた.
本来なら,嫉妬に燃える場面である.
しかし,彼女の胸にあったのは妙な満足感だった.エミリアのドレスは美しく,踊っても破れない.ルシアンの足運びはやや硬いが,エミリアがうまく合わせている.
「悪役令嬢としては,失敗ですわね」
セシリアが言った.
「まだ失敗と決まったわけではありません」
「皆様,お嬢様のことを褒めております」
「聞こえません」
「王妃様にふさわしい,との声もございます」
「聞こえませんわ」
その夜,屋敷に戻ったヴィオレッタは椅子に沈み込んだ.
「また善行になりました……」
セシリアが紅茶を置く.
「教科書,ドレスと続いております.次はもう少し明確な悪事をお勧めいたします」
「ええ.次こそ,誰が見ても悪事と分かるものにします」
「たとえば」
ヴィオレッタは少し考え,目を光らせた.
「社交界で孤立させるのですわ」
「お茶会でございますか」
「ええ.お茶会は令嬢の戦場.今度こそ,あの子を孤立させてみせます」
セシリアは静かに目を伏せた.
「また失敗する予感がいたします」
「今度こそ成功しますわ」
ヴィオレッタは力強く宣言した.
だが,その予感は正しかった.




