第2話 教科書を隠したら,教材になりました
悪役令嬢として名を残すためには,まず最初の一手が重要である.
ヴィオレッタはそう考えていた.
あまりに大きな悪事を最初から仕掛ければ,下品である.かといって,誰にも気づかれない程度の小さな嫌がらせでは,悪役令嬢としての存在感に欠ける.
必要なのは,古典的で,分かりやすく,それでいて被害が大きすぎない悪事.
三日三晩考えた結果,ヴィオレッタは結論を出した.
「教科書隠しですわ」
朝の支度をしていたセシリアは,櫛を持つ手を止めた.
「教科書隠しでございますか」
「ええ.悪役令嬢入門として,これほど基本に忠実なものはありません」
「お嬢様,基本という言葉の使い方に若干の不安を覚えます」
「問題ありません.まずはエミリア・ベルの教科書を隠し,授業中に困らせるのです.彼女は教師に叱られ,周囲はひそひそ笑う.そこでわたくしが扇を広げ,高笑いする」
「お嬢様,想像上のご自分が大変楽しそうでございます」
「当然ですわ.悪役令嬢の第一歩ですもの」
その日の早朝,ヴィオレッタはいつもより早く学院へ向かった.
まだ教室には誰もいない.朝の光が窓から差し込み,机の列を淡く照らしている.
ヴィオレッタは足音を忍ばせ,エミリアの席へ近づいた.
机の中には,丁寧に布で包まれた教科書が入っていた.
彼女はそれを取り出す.
表紙の角は擦り切れ,何度も開いた跡がある.紙の端には小さな書き込みがあり,分からない単語には印が付いていた.裕福な学生が買う新品ではない.誰かから譲られたものを,大切に使っているのだろう.
ヴィオレッタは眉を寄せた.
「ずいぶん古い教科書ですわね」
セシリアが小声で答える.
「男爵家のご令嬢ですから,新しいものをすべて揃えるのは難しいのかもしれません」
「だからといって,この状態はいただけませんわ」
「お嬢様,悪事の途中でございます」
「分かっています」
ヴィオレッタは教科書を持ったまま考え込んだ.
この教科書を隠せば,エミリアは困る.それは間違いない.
しかし,古いとはいえ大切に使われている本を乱雑に扱うのは,美しくない.まして破るなど論外である.本に罪はない.
机を空にするだけでは,あまりに露骨だ.泥を入れるのは掃除が面倒.虫を入れるのは自分が嫌.花を入れるのは嫌がらせとして意味が分からない.
「仕方ありませんわ」
ヴィオレッタは自分の鞄を開けた.
そこから取り出したのは,予備の教科書だった.もちろん新品である.さらに,彼女が前日までにまとめていた講義ノートも添えた.
セシリアは沈黙した.
「何ですの,その目は」
「いえ,今なさっていることを分類しておりました」
「悪事ですわ」
「左様でございますか」
「この完璧なノートを見れば,彼女は自分との差に打ちのめされるはずです」
「お嬢様,その説明ですと,教材提供とほぼ同義でございます」
「言葉選びの問題です」
やがて学生たちが登校してきた.
エミリアも少し急いだ様子で教室に入る.彼女は席に着くと,机の中を見て目を丸くした.
「まあ……」
新品の教科書と,美しく整理されたノート.
エミリアは戸惑いながらも,ノートを開いた.
ヴィオレッタは斜め後ろの席から,扇の陰でその様子を観察する.
「ふふふ.驚いていますわ」
「感激しているように見えます」
「違います.知識量の差に震えているのです」
「お嬢様,震えているのはおそらく感動でございます」
授業が始まった.
その日の科目は王国史だった.教師は,中級者向けの少し難しい問いを出した.
「では,百年前の東方交易条約が,地方商業に与えた影響を説明できる者はいますか」
教室が静まる.
多くの学生にとって,条約名を覚えるだけでも面倒な範囲だった.その影響を地方商業の観点から説明するとなると,かなり難しい.
そのとき,エミリアがおずおずと手を挙げた.
「はい」
教師は少し驚いた顔をした.
「ベル嬢,どうぞ」
エミリアはノートをちらりと見た.
「東方交易条約によって,王都の大商会は輸入品を安定して扱えるようになりました.そのため王都では商業が発展しましたが,一方で地方の小規模商人は価格競争に負けやすくなりました.また,関税収入は増えましたが,物流網が王都中心になったことで,地方の市場はかえって弱くなった面があります」
教師の目が輝いた.
「すばらしい.そこまで理解しているとは」
エミリアは頬を赤くした.
「いえ,こちらのノートに分かりやすく整理されていて……」
教師は彼女の机まで歩み寄り,ノートを覗き込んだ.
そして,はっきりと感嘆の声を漏らした.
「これは見事だ.重要事項だけでなく,背景と影響まで整理されている.誰のノートですか」
教室中の視線が,ゆっくりとヴィオレッタへ向いた.
ヴィオレッタは扇で顔を隠した.
「なぜ分かるのです」
セシリアが後ろで囁く.
「お嬢様の筆跡は,美しすぎて目立ちます」
教師は言った.
「ローゼンベルク嬢,このノートを教材として写し,授業で使わせてもらえませんか」
「……何ですって?」
「近年,学生の基礎学力には差があります.特に地方出身者や下級貴族の子女は,家庭教師を十分に付けられないことも多い.このノートは,多くの学生の助けになるでしょう」
ヴィオレッタは言葉を失った.
悪事が,教育支援に変わりつつある.
エミリアは立ち上がり,ヴィオレッタに向かって深く頭を下げた.
「ヴィオレッタ様,ありがとうございます.私,初めて授業についていけた気がします」
その声は,本当にうれしそうだった.
感謝.
ヴィオレッタが悪役令嬢として最も避けたい攻撃である.
「お……おーっほっほっほ!」
彼女は何とか高笑いをした.
「せいぜい感謝なさいませ.わたくしの知性の前に,ひれ伏すがいいですわ」
「はい!」
エミリアは真剣に頷いた.
「ひれ伏さないでくださいませ! そこは怯えるところです!」
教室に小さな笑いが広がった.
翌日,学院新聞に大きな見出しが載った.
『ローゼンベルク公爵令嬢,学力格差解消に貢献』
ヴィオレッタは新聞を握りしめ,震えた.
「違いますわ……」
セシリアが紅茶を置く.
「お嬢様,記事の内容はおおむね事実でございます」
「違いますわ! わたくしは教科書を隠したのです!」
「その代わりに,より良い教材を置かれました」
「言い方が悪いです!」
「では,教科書を隠した結果,学院全体の学習環境が改善されました」
「もっと悪いですわ!」
ヴィオレッタは机に突っ伏した.
悪役令嬢としての第一歩は,見事に失敗した.
けれど,廊下の向こうでは,エミリアが他の学生たちと一緒にノートを見ながら笑っていた.分からないところを教え合い,身分の違う学生たちが一つの机を囲んでいる.
ヴィオレッタはそれを見て,ほんの少しだけ表情を和らげた.
「まあ,初回ですもの」
「はい」
「次こそ,本物の悪事を見せて差し上げますわ」
「次は何をなさるおつもりですか」
ヴィオレッタは扇を開き,不敵に笑った.
「舞踏会です.ヒロインの晴れ舞台を台無しにするには,ドレスが最適ですわ」
セシリアは静かに目を伏せた.
「また善行になる気がいたします」
「なりません」
ヴィオレッタは断言した.
しかし,セシリアの予感はだいたい当たるのである.




