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第1話 悪役令嬢,誕生する

公爵令嬢ヴィオレッタ・ローゼンベルクが,初めて「悪役令嬢」というものに出会ったのは,八歳の冬だった.


その日は朝から雪が降っていた.


ローゼンベルク公爵家の屋敷は,王都の北にある小高い丘の上に建っている.白い石造りの外壁,黒鉄の門,冬でも枯れない薔薇園.外から見れば,まるで絵本に出てくる貴族の館のようだった.


けれど,ヴィオレッタにとってそこは,少し息苦しい場所でもあった.


公爵家の一人娘.王太子の婚約者候補.将来は王妃になるかもしれない少女.

大人たちは皆,彼女に同じことを言った.


「優しく,慎ましく,美しくありなさい」


「王家にふさわしい令嬢になりなさい」


「余計なことは言わず,微笑んでいればよいのです」


ヴィオレッタは,そのたびに首をかしげた.


なぜ,言いたいことを言ってはいけないのか.なぜ,間違っているものを間違っていると言うと,大人たちは困った顔をするのか.なぜ,賢くあれと教えられるのに,賢さを見せると「可愛げがない」と言われるのか.

幼い彼女には,それが分からなかった.


その午後,ヴィオレッタは暖炉の前で一冊の物語を読んでいた.


物語の主人公は,貧しい家に生まれた心優しい少女だった.少女は王子に愛され,悪い公爵令嬢にいじめられ,最後には真実の愛で幸せになる.


よくある話だった.

けれど,ヴィオレッタの心を奪ったのは,主人公ではなかった.


その物語に出てくる悪役令嬢である.


彼女は美しく,高慢で,誰にも媚びず,いつも背筋を伸ばしていた.人々は彼女を恐れ,王子は彼女を嫌い,最後には社交界から追放される.

それでも,彼女は最後の瞬間まで泣かなかった.


「わたくしは,わたくしですわ」


物語の中で,悪役令嬢はそう言った.

その一文を読んだ瞬間,ヴィオレッタは本を閉じた.


暖炉の火がぱちぱちと鳴っている.窓の外では,雪が静かに薔薇園を覆っていた.

ヴィオレッタは胸の奥が熱くなるのを感じた.


優しい主人公は素敵だった.正しい王子も立派だった.けれど,ヴィオレッタには,悪役令嬢だけが本当に生きているように見えた.


誰にも軽んじられない.

誰にも飾り物にされない.

誰にも黙らされない.

たとえ負けても,自分のまま立っている.

それは,幼いヴィオレッタにとって,何よりもまぶしい姿だった.


その日の夕食後,ヴィオレッタは母であるローゼンベルク公爵夫人の前に立った.

公爵夫人は,王都でも有名な女性だった.物静かで,柔らかく微笑み,決して声を荒らげない.けれど,社交界で彼女を軽んじる者はいない.一言で場を収め,一瞥で無礼者を黙らせることができる人だった.

ヴィオレッタは,そんな母を前に,胸を張って宣言した.


「お母様,わたくし,立派な悪役令嬢になりますわ」


食堂の空気が止まった.

侍女が銀の匙を落としかける.執事が咳払いをこらえる.


しかし,公爵夫人だけは少しも動じなかった.彼女は紅茶のカップを置き,静かに娘を見た.


「そう.では,まず早寝早起きから始めなさい」


ヴィオレッタは瞬きをした.


「悪役令嬢なのに?」


「体力がなければ,悪事は続きません」


「なるほど」


ヴィオレッタは深く頷いた.

翌朝から,彼女の悪役令嬢修行が始まった.


朝六時に起きる.姿勢を正して歩く.挨拶は優雅に,視線は強く,声はよく通るように.

家庭教師たちは,公爵家の方針変更に少し戸惑った.


「お嬢様,なぜ突然そのように熱心に礼法を?」


「悪役令嬢は,立っているだけで人を圧倒しなければなりませんもの」


「そ,そうでございますか」


舞踏の授業では,彼女は一歩も気を抜かなかった.


「悪役令嬢が転ぶなど,あってはなりませんわ」


歴史の授業では,戦争と婚姻政策に強い関心を示した.


「敵を知るには,家系図と税制ですわね」


政治学の授業では,教師が用意した初級の課題に不満を漏らした.


「この政策案,あまりに穴だらけです.十歳のわたくしを油断させる罠ですの?」


教師は汗を拭きながら,翌週から教材を上級向けに変えた.

やがて,ヴィオレッタは扇の開き方まで研究し始めた.


「セシリア,見ていなさい」


彼女は鏡の前に立ち,黒い練習用の扇を開く.


「おーっほっほっほ!」


高笑いが部屋に響いた.

侍女のセシリアは,幼いころからヴィオレッタに仕えている少女だった.表情の変化は少ないが,主人への観察眼は鋭い.


彼女は少し考えてから言った.


「お嬢様,高笑い自体は見事でございます」


「でしょう?」


「ただ,少し楽しそうすぎます」


「悪事は楽しむものではなくて?」


「その解釈ですと,悪役令嬢は天職でございます」


ヴィオレッタは満足げに頷いた.


けれど,セシリアは内心で思っていた.


この方は悪役令嬢になりたいと言いながら,誰よりも努力家で,誰よりも真面目で,誰よりも雑な仕事を嫌う.

このまま悪役令嬢を目指したら,どこへ着地するのだろうか.



時は流れ,ヴィオレッタは十五歳になった.


王立学院への入学の日,彼女は黒に近い深紫のドレスを選んだ.胸元には,ローゼンベルク家の紋章である黒薔薇の刺繍が入っている.


「お嬢様,初日から威圧感がございます」


「当然です.悪役令嬢の第一印象は大切ですわ」


馬車で学院へ向かう道中,ヴィオレッタは窓の外を眺めていた.王都の街は朝の光に包まれ,人々が忙しそうに行き交っている.


これから始まる学院生活.そこには,彼女の婚約者である王太子ルシアン・アルベルトもいる.

ルシアンは優しい少年だった.幼いころから知っているが,いつも少し困ったように笑う.王太子として期待されているのに,自分が何を望むのか分からないような目をしていた.


ヴィオレッタは彼を見るたび,少し苛立った.

王になる者が,なぜそんなに迷うのか.


もちろん,その苛立ちを心配だとは認めない.悪役令嬢は婚約者を心配したりしない.厳しく鍛えるだけである.


学院の大広間で,入学式が始まった.

貴族の子女たちが並び,教師たちが祝辞を述べる.ヴィオレッタは背筋を伸ばし,完璧な角度で微笑んでいた.


そのとき,一人の少女が目に入った.

栗色の髪を緩く結び,少し古いが丁寧に手入れされた制服を着ている.男爵家の娘らしく,周囲の令嬢たちに比べれば装いは質素だった.


けれど,彼女は誰に対してもまっすぐ挨拶をしていた.笑われても,困ったように笑うだけで,決して俯かない.


「エミリア・ベルと申します.どうぞよろしくお願いいたします」


その声は,広間の喧騒の中でも不思議と耳に残った.

さらに,ヴィオレッタは見てしまった.


ルシアンが,その少女を見ていたのである.

ほんの一瞬だった.けれど,確かに視線を向けていた.


ヴィオレッタは震えた.

怒りではない.

歓喜である.


「来ましたわ」


隣に控えるセシリアが,小声で尋ねた.


「何がでございますか」


ヴィオレッタは扇を開いた.


「ヒロインですわ」


「はあ」


「可憐な男爵令嬢.彼女を見つめる王太子.そして,その前に立ちはだかる高慢な公爵令嬢.完璧ではありませんこと?」


「お嬢様,現実と物語を混同なさっていませんか」


「現実を物語にするのが,悪役令嬢の腕の見せどころですわ」


セシリアは深く礼をした.


「では,どうぞご無理のない範囲で悪事を」


「悪事に無理はつきものです」


その日,ヴィオレッタは決意した.


エミリア・ベルを相手に,王国史上最悪の悪役令嬢として名を残すのだと.


まだ誰も知らなかった.


その決意が,彼女自身の人生を変え,王太子を鍛え,男爵令嬢の夢を支え,果てにはこの国の政治まで少しずつ変えてしまうことを.


そしてもちろん,ヴィオレッタ本人だけは,最後までそれを悪事だと信じ続けることになる.

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