第14話 戴冠式前夜,悪女は迷う
老王の退位が発表されたのは,初夏の終わりだった.
王都の鐘が正午を告げたあと,王宮から正式な布告が出された.
長く病を得ていた国王は,王位を王太子ルシアン・アルベルトへ譲る.戴冠式は一か月後.同時に,ルシアンの婚約者であるヴィオレッタ・ローゼンベルクは,新王妃として立つ.
布告は,その日のうちに王都中へ広がった.
広場で,市場で,学院で,貴族の屋敷で,人々はその話をした.
「ついに殿下が王に」
「まだお若いが,大丈夫だろうか」
「最近はずいぶん変わられたらしい」
「それより,王妃様だ.黒薔薇の公爵令嬢だぞ」
「不正をした貴族を大広間でやり込めた方でしょう」
「隣国大使も黙らせたとか」
「頼もしいような,怖いような」
社交界も当然,大騒ぎになった.
「ローゼンベルク嬢が王妃に」
「恐ろしい時代になりますわね」
「でも,不正をしなければ怖くないのでは?」
「それが一番難しい方も多いでしょう」
夜会でそんな会話が交わされるころ,王宮の中は嵐のような忙しさになっていた.
戴冠式は,ただ王冠を戴くだけの儀式ではない.
国内外へ,新しい王権の正当性と安定を示す場である.
招待客の席順一つで,派閥への配慮が読まれる.祝宴の献立一つで,地方産業への姿勢が見える.警備の配置一つで,王宮の緊張が伝わる.誓詞の一文で,新王の政治方針が記録に残る.
役人たちは,疲れた顔で走り回った.
そして,その中心にヴィオレッタがいた.
「この席順では,ヴァルツ大使と北方伯が隣になります」
彼女は長い名簿を一瞥して言った.
「前回の港湾交渉で揉めた相手を隣に座らせてどうするのです.祝宴の場を小戦場にしたいのですか」
「申し訳ありません,すぐ修正いたします」
「こちら,式典用の花の発注数が足りません.大聖堂前の階段が寂しくなります」
「追加いたします」
「ただし,王都の花だけでなく南部の花も使いなさい.水利負担見直しで南部代表が来るのです.目に見える形で歓迎を示すべきです」
「は,はい」
「王妃の誓詞に曖昧な表現があります.『民を慈しむ』だけでは弱い.慈しむとは何をすることか,後世の解釈で逃げ道になります」
「書き直します」
「警備配置は表門に偏りすぎです.裏手の通用門が甘い.招待客の馬車導線も重なっています.やり直し」
「ただちに」
役人たちは震えながらも,次第にヴィオレッタを頼るようになった.
彼女の指摘は厳しい.容赦がない.時に心が折れそうになる.
だが,正しい.
しかも,ただ欠点を責めるだけではない.必ず代案を出す.現場が動ける形に落とし込む.それが分かってきたからだ.
セシリアは,その様子を見て淡々と言った.
「王宮の皆様,すっかりお嬢様の赤入れに慣れてこられました」
「慣れてよいものではありません」
「頼られております」
「悪役令嬢として,恐れられているだけですわ」
「両立しているように見えます」
表向き,ヴィオレッタは完璧だった.
だが夜になると,彼女は一人で迷った.
王宮の一室に用意された仮の支度部屋には,王妃衣装の候補が並んでいた.
白,金,淡い青.
どれも美しかった.
白は清らかさを示す.金は王権の輝きを示す.淡い青は慈悲と誠実を示す.衣装係たちは,自信を持ってそれらを見せた.
「未来の王妃様にふさわしいものを揃えました」
ヴィオレッタは礼を言い,一つずつ眺めた.
確かに美しい.
美しいが,自分ではない.
鏡の中で,白いドレスを合わせた自分を見る.
知らない誰かのようだった.
王妃とは,こうあるべきなのだろうか.
白く,清らかで,柔らかく,民に愛される存在.
自分はそうではない.
彼女は,自分の過去を思い返した.
エミリアの教科書を隠そうとした.
ドレスを破ろうとした.
お茶会で孤立させようとした.
無理な課題で追い込み,倒れさせてしまった.
ダリウス侯爵を断罪したとき,自分の中には確かに怒りだけでなく,勝利の快感もあった.
隣国大使を追い詰めたときも,恐ろしい令嬢だと言われて,少し満足した.
自分は聖女ではない.
優しいだけの人間でもない.
怒りがある.
意地がある.
相手を言い負かしたいという気持ちもある.
そんな女が,王妃になってよいのか.
ヴィオレッタは鏡の前で,白いドレスを見つめ続けた.
その夜,セシリアが静かに部屋へ入ってきた.
「お嬢様」
「何ですの」
「公爵夫人がお呼びです」
ヴィオレッタは少し目を伏せた.
母は,こういうときに限って,何も言わずとも察している.
ローゼンベルク公爵家の屋敷へ戻ると,母は昔と同じ部屋で紅茶を飲んでいた.
窓の外には,夜の薔薇園が広がっている.黒薔薇は夜の中で輪郭を失い,ただ濃い影のように揺れていた.
「浮かない顔ね」
母は言った.
ヴィオレッタは向かいに座った.
「王妃になる顔ではありませんか」
「あなたは昔から,考えすぎると悪役令嬢の顔を忘れるのね」
「わたくしは真剣です」
「知っています」
母はカップを置いた.
「あなたは八歳のとき,立派な悪役令嬢になると言いました」
「覚えていらしたのですか」
「もちろん.あれほど面白い宣言を忘れる母親はいません」
「面白い宣言ではありません」
「ええ.あなたにとっては,切実だったのでしょう」
ヴィオレッタは黙った.
母の声は穏やかだった.
「あなたは幼いころから,よく大人を困らせる子でした」
「褒めていますの?」
「半分は」
「残り半分は?」
「事実です」
母は少し笑った.
「あなたは,おかしいことをおかしいと言う子だった.家庭教師の説明が曖昧なら質問し,貴族の子息が使用人を軽んじれば怒り,王太子殿下が剣の稽古で逃げ腰になれば,容赦なく指摘した」
「昔から嫌な子ですわね」
「いいえ.ただ,周囲の大人は扱いに困ったのです」
母はヴィオレッタを見つめた.
「女の子は,賢くてもよい.でも,賢さを見せすぎてはいけない.意見を持ってもよい.でも,強く言いすぎてはいけない.そういう空気が,あなたを息苦しくさせていたのでしょう」
ヴィオレッタは,幼い日の暖炉を思い出した.
雪の日.
読んだ物語.
悪役令嬢が最後に言った言葉.
『わたくしは,わたくしですわ』
あの一文に,胸が震えた.
「あなたが憧れた悪役令嬢は,本当に悪い女だったのかしら」
母が尋ねた.
「物語の中では,そう書かれていました」
「でも,あなたが惹かれたのは,悪事そのものではなかったはずです」
母の声は静かだった.
「誰にも軽んじられず,自分の足で立ち,自分の言葉で世界に向かう姿.あなたが欲しかったのは,それでしょう」
ヴィオレッタは息を呑んだ.
その通りだった.
嫌われたかったのではない.
誰かを傷つけたかったのでもない.
黙らされたくなかった.
飾り物になりたくなかった.
自分の言葉を持つ人間になりたかった.
「王妃は,聖女でなければなりませんか」
ヴィオレッタは小さく尋ねた.
母は微笑んだ.
「いいえ.聖女でない王妃のほうが,国には必要なこともあります」
「怖がられる王妃でも?」
「不正を働く者に怖がられるなら,結構ではありませんか」
「わたくしは,優しいだけの人間ではありません」
「知っています」
「怒りもあります.意地もあります.勝ちたいと思う気持ちもあります」
「それを,どこへ向けるかです」
母は娘をまっすぐ見た.
「あなたの棘を,誰へ向けるのか.弱い者を傷つけるためではなく,踏みにじる者を止めるために使えるなら,黒薔薇の棘も悪くないでしょう」
ヴィオレッタは目を伏せた.
長い沈黙のあと,言った.
「わたくしは,最後まで悪役令嬢でいたいです」
「なら,そうしなさい」
母は当然のように言った.
「王妃になっても,あなたはあなたです」
翌朝,王妃衣装の最終確認が行われた.
衣装係たちは,白,金,淡い青のドレスを並べた.どれも見事だった.けれど,ヴィオレッタは一通り見たあと,首を横に振った.
「黒を」
衣装係が固まった.
「黒でございますか」
「ええ.黒薔薇の刺繍を入れなさい」
「王妃様の戴冠衣装に黒は,前例が」
「前例がないなら,作ればよろしい」
「しかし,民が驚くのでは」
「驚かせなさい」
ヴィオレッタは鏡の前に立った.
「わたくしは,聖女として王妃になるのではありません.悪役令嬢として王妃になります」
その顔は,もう迷っていなかった.
戴冠式前夜.
ルシアンは,黒いドレスの仮縫いを見て少し驚いた.
「君らしい」
「止めませんの?」
「止めてほしいのかい?」
「いいえ」
「なら,止めない」
ヴィオレッタは少しだけ笑った.
「殿下,明日からは王ですわ」
「そうだね」
「逃げるなら今のうちです」
「逃げない」
「わたくしも,逃げません」
ルシアンは頷いた.
二人はしばらく,静かに並んで立っていた.
明日,王国は新しい時代へ進む.
その隣に立つのは,白い聖女ではない.
黒薔薇をまとった,悪役令嬢だった.




