表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪役令嬢は,今日も悪事に失敗する  作者: くるみ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

13/15

第13話 悪役令嬢,婚約破棄されません

外交交渉が終わった数日後,王宮には少しだけ穏やかな空気が戻っていた.


もちろん,問題が消えたわけではない.

ダリウス侯爵家の不正調査は続いている.地方水利組合の再編案も,学院予算の見直しも,救貧制度の簡略化も,まだ始まったばかりだ.隣国ヴァルツとの共同修繕事業も,今後細かい条件を詰めなければならない.


だが,大きな山を一つ越えたのは確かだった.

ルシアンは以前より忙しくなった.

それでも,彼の表情には以前のような頼りなさが少しずつ消えていた.不安はある.迷いもある.だが,逃げる目ではなくなっている.


ヴィオレッタはそれを見て,密かに満足していた.

もちろん,口には出さない.


「殿下,この報告書は以前よりましですわ」


「まし,か」


「褒めています」


「君の褒め言葉は,分かりにくい」


「分かりやすい褒め言葉をお望みなら,エミリアに頼みなさい」


そう言ってから,ヴィオレッタは少しだけ口をつぐんだ.


エミリア.

男爵令嬢であり,奨学金制度の第一号候補であり,地方教育改革という夢を持つ少女.

かつてヴィオレッタは,彼女を物語のヒロインだと思っていた.王太子に見初められ,悪役令嬢である自分を追い落とす存在だと.


しかし,実際のエミリアは恋敵ではなかった.

彼女はルシアンに恋をしていない.ルシアンもまた,彼女に恋をしていたわけではない.二人の間にあったのは,憧れと救いと,少しの逃避だった.


それでもヴィオレッタの中には,まだしぶとく残っている期待があった.


婚約破棄.

悪役令嬢として,あまりにも有名な花道.

大広間で王太子に断罪され,高笑いしながら去る.その姿に,幼いヴィオレッタは憧れた.


今さら本当に破棄されたいわけではない.


たぶん.


おそらく.


しかし,物語としての未練はある.


そんなある日,ルシアンから庭園へ来てほしいと伝えられた.

ヴィオレッタは,セシリアに髪を整えられながら考えた.


「これは,ついに来たのでは?」


「何がでございますか」


「婚約破棄ですわ」


セシリアは手を止めずに言った.


「まだ諦めていらっしゃらなかったのですか」


「悪役令嬢として,最後まで可能性を捨てない姿勢は大切です」


「殿下がこの時期に婚約破棄をなさる理由がございません」


「物語の都合です」


「現実の都合を優先なさってください」


ヴィオレッタは鏡の中の自分を見た.

淡い紫のドレス.黒薔薇の小さな髪飾り.王妃候補としては少し強すぎる印象だが,彼女にはよく似合っている.


「もし婚約破棄でなければ,何でしょう」


「ご相談では」


「また書類ですの?」


「可能性はございます」


「庭園で書類の相談をする王太子など,趣がありませんわ」


セシリアは少しだけ笑った.

王宮の庭園は,春から初夏へ移る途中だった.

白薔薇は盛りを過ぎ,代わりに青い小花が風に揺れている.噴水の水音は静かで,遠くの回廊からは政務官たちの足音がかすかに聞こえた.


ルシアンは,庭園の奥にある東屋で待っていた.

いつもの執務服ではなく,少し改まった上着を着ている.顔には緊張があった.

ヴィオレッタは,その表情を見て身構えた.


「殿下,ついに決心なさったのですか」


ルシアンは瞬きをした.


「何を?」


「婚約破棄ですわ」


「まだ期待していたのかい?」


「悪役令嬢としては,諦めきれない展開です」


ルシアンは深く息を吐いた.


「残念だけれど,その予定はない」


「では,何のご用ですの」


ヴィオレッタは少し不機嫌になった.

ルシアンは一度,視線を落とした.

そして,覚悟を決めたように顔を上げた.


「君との婚約を,続けたい」


「今も続いておりますが」


「義務としてではなく,僕自身の意思として」


ヴィオレッタは黙った.

庭園の空気が,少しだけ変わった.

これまでにも,ルシアンは感謝や信頼を口にしてきた.だが,今の言葉はそれとは違った.王太子としての義務でも,政略結婚の確認でもない.一人の人間として,彼女に向き合っている.


ルシアンは話し始めた.


「昔の僕は,君が怖かった」


「知っています」


「即答だね」


「隠せていませんでしたもの」


ルシアンは苦笑した.


「君はいつも正しかった.僕の政策案が甘いときは笑った.外交の席で失言しかけたときは遮った.剣の稽古を見れば,姿勢が逃げていると言った」


「実際,逃げていましたわ」


「うん.今なら分かる.でも当時は,君に責められているように感じていた.王太子として足りない自分を,君に見透かされるのが怖かった」


ヴィオレッタは黙って聞いた.


「エミリアと話すのは楽だった」


その名が出ても,ヴィオレッタはもう動揺しなかった.

少しだけ,胸の奥がちくりとした気はしたが,それはきっと気のせいである.


「彼女は僕を王太子として評価しない.一人の学生として,地方の学校の話や,学べない子どもたちの話をしてくれた.それが救いだった」


「恋ではなかったのでしょう」


「ああ.憧れだった.逃げ場所でもあった」


ルシアンは少し恥じるように目を伏せた.


「でも,君は逃がしてくれなかった」


「悪役令嬢ですから」


「そうだね」


彼は微笑んだ.


「君は僕を甘やかさない.間違えば叱る.逃げれば引き戻す.必要なときは,書類の山を半分持ってくれる」


「最後の部分は忘れてください」


「忘れない」


「不敬ですわ」


「まだ王ではないから許してほしい」


「王になってからも忘れないつもりでしょう」


「うん」


ヴィオレッタは扇で顔を隠した.

ルシアンは,一歩近づいた.


「僕は,君に王妃になってほしい」


その言葉は,政略の確認ではなかった.

願いだった.

ヴィオレッタは,幼いころ読んだ物語を思い出した.


悪役令嬢は,最後に婚約破棄される.

皆に責められ,孤独に去る.

それでも,自分を曲げない.

その姿に憧れた.


けれど,今,自分の前にいる王太子は,彼女を追放しようとはしていない.彼は彼女の厳しさを知り,怖さを知り,それでも隣にいてほしいと言っている.


物語とは違う.

だからこそ,ヴィオレッタは困った.


「わたくし,嫌味を言いますわよ」


「知っている」


「徹夜させますわよ」


「できれば減らしてほしい」


「無理ですわ」


「分かっている」


「感謝されると不機嫌になります」


「それも知っている」


「失敗した政策案は,容赦なく破ります」


「破ってほしい」


「あなたが逃げようとすれば,引きずってでも戻します」


「戻してほしい」


「悪役令嬢ですわよ」


ルシアンは,静かに笑った.


「それでも,君がいい」


ヴィオレッタはしばらく黙っていた.


風が庭園を抜ける.白薔薇の花びらが一枚,彼女の足元に落ちた.


彼女は扇を閉じた.


「なら,せいぜい立派な王になりなさいませ」


ルシアンは息を止めた.

ヴィオレッタは続ける.


「わたくしが隣に立っても,恥ずかしくないように」


ルシアンの顔に,安堵が広がった.


「全力でやる」


「努力ではなく?」


「全力で」


「よろしい」


それは,甘い愛の誓いとは少し違った.

花束も,詩も,涙の告白もない.

けれど,二人にはそれが似合っていた.


その日の夕方,エミリアにも話が伝わった.

彼女は廊下でヴィオレッタを見つけるなり,目を輝かせて駆け寄ってきた.


「ヴィオレッタ様,おめでとうございます!」


「廊下を走らない」


「すみません.でも,うれしくて」


「あなた,少しも恋敵らしくありませんわね」


「恋敵だったことは一度もありません」


「それが問題です」


エミリアは笑った.

その笑顔には,もう遠慮だけではない親しさがあった.


「私は,地方教育改革の道へ進みます」


「知っています」


「いつか,本当に学校を作ります」


「計画書は?」


「書いています」


「資金計画は?」


「まだ穴があります」


「教師育成は?」


「そこも相談したいです」


「では,持っていらっしゃい.破って差し上げます」


「はい!」


ヴィオレッタは,ほんの少し寂しさを覚えた.

エミリアはもう,ただ守られる少女ではない.自分の夢を持ち,自分の足で進もうとしている.


それは喜ばしいことだ.

けれど,少し寂しい.

もちろん,ヴィオレッタはそんなことを認めない.


「あなたを追い出すなら,立派な教育官にしてからですわ」


「追い出されるのですか?」


「悪役令嬢ですもの」


「では,追い出される前に,たくさん学びます」


「中途半端な成功など,わたくしが許しません」


「はい,ヴィオレッタ様」


エミリアは笑った.

ヴィオレッタも,ほんの少しだけ笑った.


婚約破棄は,最後まで起きなかった.

悪役令嬢の予定は,また一つ失敗した.

けれど,その失敗は悪くなかった.


むしろ,少しだけ心地よかった.


その夜,ヴィオレッタは日記に書いた.


『婚約破棄,完全に失敗.殿下はわたくしを王妃にしたいらしい.非常に物語として不本意.』


そして,少し間を置いて書き足した.


『ただし,隣に立つなら,鍛えがいはある』


彼女はまだ知らなかった.

その言葉が,すぐに現実になることを.


老王の退位が,正式に決まろうとしていた.

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ