第13話 悪役令嬢,婚約破棄されません
外交交渉が終わった数日後,王宮には少しだけ穏やかな空気が戻っていた.
もちろん,問題が消えたわけではない.
ダリウス侯爵家の不正調査は続いている.地方水利組合の再編案も,学院予算の見直しも,救貧制度の簡略化も,まだ始まったばかりだ.隣国ヴァルツとの共同修繕事業も,今後細かい条件を詰めなければならない.
だが,大きな山を一つ越えたのは確かだった.
ルシアンは以前より忙しくなった.
それでも,彼の表情には以前のような頼りなさが少しずつ消えていた.不安はある.迷いもある.だが,逃げる目ではなくなっている.
ヴィオレッタはそれを見て,密かに満足していた.
もちろん,口には出さない.
「殿下,この報告書は以前よりましですわ」
「まし,か」
「褒めています」
「君の褒め言葉は,分かりにくい」
「分かりやすい褒め言葉をお望みなら,エミリアに頼みなさい」
そう言ってから,ヴィオレッタは少しだけ口をつぐんだ.
エミリア.
男爵令嬢であり,奨学金制度の第一号候補であり,地方教育改革という夢を持つ少女.
かつてヴィオレッタは,彼女を物語のヒロインだと思っていた.王太子に見初められ,悪役令嬢である自分を追い落とす存在だと.
しかし,実際のエミリアは恋敵ではなかった.
彼女はルシアンに恋をしていない.ルシアンもまた,彼女に恋をしていたわけではない.二人の間にあったのは,憧れと救いと,少しの逃避だった.
それでもヴィオレッタの中には,まだしぶとく残っている期待があった.
婚約破棄.
悪役令嬢として,あまりにも有名な花道.
大広間で王太子に断罪され,高笑いしながら去る.その姿に,幼いヴィオレッタは憧れた.
今さら本当に破棄されたいわけではない.
たぶん.
おそらく.
しかし,物語としての未練はある.
そんなある日,ルシアンから庭園へ来てほしいと伝えられた.
ヴィオレッタは,セシリアに髪を整えられながら考えた.
「これは,ついに来たのでは?」
「何がでございますか」
「婚約破棄ですわ」
セシリアは手を止めずに言った.
「まだ諦めていらっしゃらなかったのですか」
「悪役令嬢として,最後まで可能性を捨てない姿勢は大切です」
「殿下がこの時期に婚約破棄をなさる理由がございません」
「物語の都合です」
「現実の都合を優先なさってください」
ヴィオレッタは鏡の中の自分を見た.
淡い紫のドレス.黒薔薇の小さな髪飾り.王妃候補としては少し強すぎる印象だが,彼女にはよく似合っている.
「もし婚約破棄でなければ,何でしょう」
「ご相談では」
「また書類ですの?」
「可能性はございます」
「庭園で書類の相談をする王太子など,趣がありませんわ」
セシリアは少しだけ笑った.
王宮の庭園は,春から初夏へ移る途中だった.
白薔薇は盛りを過ぎ,代わりに青い小花が風に揺れている.噴水の水音は静かで,遠くの回廊からは政務官たちの足音がかすかに聞こえた.
ルシアンは,庭園の奥にある東屋で待っていた.
いつもの執務服ではなく,少し改まった上着を着ている.顔には緊張があった.
ヴィオレッタは,その表情を見て身構えた.
「殿下,ついに決心なさったのですか」
ルシアンは瞬きをした.
「何を?」
「婚約破棄ですわ」
「まだ期待していたのかい?」
「悪役令嬢としては,諦めきれない展開です」
ルシアンは深く息を吐いた.
「残念だけれど,その予定はない」
「では,何のご用ですの」
ヴィオレッタは少し不機嫌になった.
ルシアンは一度,視線を落とした.
そして,覚悟を決めたように顔を上げた.
「君との婚約を,続けたい」
「今も続いておりますが」
「義務としてではなく,僕自身の意思として」
ヴィオレッタは黙った.
庭園の空気が,少しだけ変わった.
これまでにも,ルシアンは感謝や信頼を口にしてきた.だが,今の言葉はそれとは違った.王太子としての義務でも,政略結婚の確認でもない.一人の人間として,彼女に向き合っている.
ルシアンは話し始めた.
「昔の僕は,君が怖かった」
「知っています」
「即答だね」
「隠せていませんでしたもの」
ルシアンは苦笑した.
「君はいつも正しかった.僕の政策案が甘いときは笑った.外交の席で失言しかけたときは遮った.剣の稽古を見れば,姿勢が逃げていると言った」
「実際,逃げていましたわ」
「うん.今なら分かる.でも当時は,君に責められているように感じていた.王太子として足りない自分を,君に見透かされるのが怖かった」
ヴィオレッタは黙って聞いた.
「エミリアと話すのは楽だった」
その名が出ても,ヴィオレッタはもう動揺しなかった.
少しだけ,胸の奥がちくりとした気はしたが,それはきっと気のせいである.
「彼女は僕を王太子として評価しない.一人の学生として,地方の学校の話や,学べない子どもたちの話をしてくれた.それが救いだった」
「恋ではなかったのでしょう」
「ああ.憧れだった.逃げ場所でもあった」
ルシアンは少し恥じるように目を伏せた.
「でも,君は逃がしてくれなかった」
「悪役令嬢ですから」
「そうだね」
彼は微笑んだ.
「君は僕を甘やかさない.間違えば叱る.逃げれば引き戻す.必要なときは,書類の山を半分持ってくれる」
「最後の部分は忘れてください」
「忘れない」
「不敬ですわ」
「まだ王ではないから許してほしい」
「王になってからも忘れないつもりでしょう」
「うん」
ヴィオレッタは扇で顔を隠した.
ルシアンは,一歩近づいた.
「僕は,君に王妃になってほしい」
その言葉は,政略の確認ではなかった.
願いだった.
ヴィオレッタは,幼いころ読んだ物語を思い出した.
悪役令嬢は,最後に婚約破棄される.
皆に責められ,孤独に去る.
それでも,自分を曲げない.
その姿に憧れた.
けれど,今,自分の前にいる王太子は,彼女を追放しようとはしていない.彼は彼女の厳しさを知り,怖さを知り,それでも隣にいてほしいと言っている.
物語とは違う.
だからこそ,ヴィオレッタは困った.
「わたくし,嫌味を言いますわよ」
「知っている」
「徹夜させますわよ」
「できれば減らしてほしい」
「無理ですわ」
「分かっている」
「感謝されると不機嫌になります」
「それも知っている」
「失敗した政策案は,容赦なく破ります」
「破ってほしい」
「あなたが逃げようとすれば,引きずってでも戻します」
「戻してほしい」
「悪役令嬢ですわよ」
ルシアンは,静かに笑った.
「それでも,君がいい」
ヴィオレッタはしばらく黙っていた.
風が庭園を抜ける.白薔薇の花びらが一枚,彼女の足元に落ちた.
彼女は扇を閉じた.
「なら,せいぜい立派な王になりなさいませ」
ルシアンは息を止めた.
ヴィオレッタは続ける.
「わたくしが隣に立っても,恥ずかしくないように」
ルシアンの顔に,安堵が広がった.
「全力でやる」
「努力ではなく?」
「全力で」
「よろしい」
それは,甘い愛の誓いとは少し違った.
花束も,詩も,涙の告白もない.
けれど,二人にはそれが似合っていた.
その日の夕方,エミリアにも話が伝わった.
彼女は廊下でヴィオレッタを見つけるなり,目を輝かせて駆け寄ってきた.
「ヴィオレッタ様,おめでとうございます!」
「廊下を走らない」
「すみません.でも,うれしくて」
「あなた,少しも恋敵らしくありませんわね」
「恋敵だったことは一度もありません」
「それが問題です」
エミリアは笑った.
その笑顔には,もう遠慮だけではない親しさがあった.
「私は,地方教育改革の道へ進みます」
「知っています」
「いつか,本当に学校を作ります」
「計画書は?」
「書いています」
「資金計画は?」
「まだ穴があります」
「教師育成は?」
「そこも相談したいです」
「では,持っていらっしゃい.破って差し上げます」
「はい!」
ヴィオレッタは,ほんの少し寂しさを覚えた.
エミリアはもう,ただ守られる少女ではない.自分の夢を持ち,自分の足で進もうとしている.
それは喜ばしいことだ.
けれど,少し寂しい.
もちろん,ヴィオレッタはそんなことを認めない.
「あなたを追い出すなら,立派な教育官にしてからですわ」
「追い出されるのですか?」
「悪役令嬢ですもの」
「では,追い出される前に,たくさん学びます」
「中途半端な成功など,わたくしが許しません」
「はい,ヴィオレッタ様」
エミリアは笑った.
ヴィオレッタも,ほんの少しだけ笑った.
婚約破棄は,最後まで起きなかった.
悪役令嬢の予定は,また一つ失敗した.
けれど,その失敗は悪くなかった.
むしろ,少しだけ心地よかった.
その夜,ヴィオレッタは日記に書いた.
『婚約破棄,完全に失敗.殿下はわたくしを王妃にしたいらしい.非常に物語として不本意.』
そして,少し間を置いて書き足した.
『ただし,隣に立つなら,鍛えがいはある』
彼女はまだ知らなかった.
その言葉が,すぐに現実になることを.
老王の退位が,正式に決まろうとしていた.




