第12話 隣国大使は,悪役令嬢を知らない
隣国ヴァルツ王国は,海を持つ国だった.
いくつもの港を抱え,東方から香辛料を運び,南方から絹を仕入れ,北方へ鉄と塩を送る.大陸の交易路の一部は,ヴァルツの港を通らなければ成り立たない.
一方,ルシアンたちの王国は内陸に豊かな農地を持ち,織物や陶器,精密な金属細工に強かった.海は持たないが,職人の手は確かで,農産物の質も高い.
両国は長く,互いに不足を補い合ってきた.
王国はヴァルツの港を使い,ヴァルツは王国の工芸品と穀物を得る.
それは一見,安定した関係だった.
だが,安定した関係ほど,片方が弱った瞬間に歪みが見える.
ダリウス侯爵家の不正が暴かれ,王宮が制度改革で揺れているという知らせは,すぐにヴァルツへ届いた.
ヴァルツは商人の国である.
混乱は,彼らにとって危険であると同時に好機でもあった.
「今なら,王国は強く出られない」
そう判断したヴァルツ宮廷は,大使クラウス・フォン・ハイデルを派遣した.
クラウスは,若くはないが老いてもいない,いかにも外交官らしい男だった.整えられた金髪,細い銀縁の眼鏡,少し薄い唇.身につけるものは上品で,言葉遣いは丁寧だった.
だが,その丁寧さの奥には,はっきりとした侮りがあった.
彼は王国を弱っていると見ていた.
若い王太子は改革に追われ,貴族たちは不満を抱き,王宮は内側の火消しで手一杯.そういう国との交渉は,強く押せば折れる.
クラウスはそう考えていた.
ただ一つ,彼は重大な情報を軽く見ていた.
王国には,ヴィオレッタ・ローゼンベルクがいる.
その事実を,ただの「王太子の気の強い婚約者」程度にしか理解していなかったのである.
ヴァルツ大使の来訪が決まると,王宮ではすぐに準備が始まった.
ルシアンは,外交資料を執務室に集めた.
過去の交易条約,港湾使用料,輸出入品目,関税収入,商会ごとの取引額.
ヴィオレッタは,その資料を見て眉をひそめた.
「足りませんわ」
ルシアンは顔を上げた.
「何が?」
「相手国に関する資料が表面的です.条約の文面と貿易額だけでは,交渉になりません」
「港湾設備の状況は調べている」
「公式報告だけでしょう」
「それでは足りない?」
「公式報告は,見せたい事実の整理です.見せたくない事実は,別の場所に出ます」
ルシアンは苦笑した.
「たとえば?」
「事故記録,保険料,商人の愚痴,船員の噂,修繕資材の発注量,港近くの宿代の変動」
「宿代まで?」
「港が滞れば船員が足止めされ,宿が混みます.宿代は正直ですわ」
セシリアが横で静かに言った.
「お嬢様,悪役令嬢というより諜報官でございます」
「悪役令嬢は情報戦にも強くなければなりません」
ヴィオレッタは,王都の商人,船荷を扱う仲介人,港に出入りする職人,ヴァルツから来た行商人にまで話を聞かせた.もちろん,自分で直接すべて動いたわけではない.ローゼンベルク家の人脈,セシリアの手配,そして以前ドレスを仕立て直した王都一の仕立て屋まで使った.
仕立て屋は,なぜ自分が外交情報の聞き込みをしているのか分からないまま,ヴァルツ商人の夫人たちから港の愚痴を引き出した.
「最近,南港からの荷が遅れがちで,絹の納期が読めないそうです」
報告を受けたヴィオレッタは頷いた.
「やはり」
さらに,王都の賭場に出入りする若い貴族の噂から,クラウス大使の弟が多額の借金を作っていることも分かった.
セシリアは淡々と報告した.
「クラウス大使の弟君は,王都滞在中に三つの賭場で負債を作っています.一部をヴァルツ商会が肩代わりしているようです」
「交渉相手の周囲が商会に借りを作っているのは,よい材料ですわね」
「お使いになりますか」
「最後の飾りに」
「飾りでございますか」
「ええ.本筋は港です」
ヴィオレッタは,クラウス個人を潰すつもりはなかった.
彼の弱みは使う.だが,交渉の目的は相手を恥じ入らせることではない.王国に不利な条件を退け,長く機能する交易関係を作ることだ.
そこを間違えれば,ただの嫌がらせになる.
そしてヴィオレッタは,雑な嫌がらせが嫌いだった.
会議当日.
王宮の外交会議室には,長い楕円形の机が置かれ,両国の代表が向かい合って座った.
王国側にはルシアン,グレアム宰相,数名の役人,そしてヴィオレッタ.壁際にはセシリアが控えている.
ヴァルツ側にはクラウス大使と随行員たちがいた.
クラウスは入室した瞬間から,柔らかい笑みを浮かべていた.
「王太子殿下,本日はお時間をいただき感謝いたします」
「こちらこそ,遠路ご苦労でした」
ルシアンは落ち着いて応じた.
以前の彼なら,こうした場で相手の調子に飲まれていたかもしれない.だが今は,少なくとも背筋は逃げていない.
ヴィオレッタは横目でそれを確認し,小さく頷いた.
クラウスは書類を広げた.
「早速ですが,現行の交易条件について,いくつか見直しをお願いしたい」
「伺いましょう」
「まず,港湾使用料の大幅な引き上げです.近年,港の維持費が増えております.これは避けられません」
「程度によります」
「次に,ヴァルツ商会に対する関税優遇.我が国の商会は,貴国との交易において重要な役割を果たしておりますから」
王国側の役人が眉をひそめる.
クラウスは,さらに続けた.
「加えて,貴国側の工芸品輸出については,今後,我が国の認可制としたい.品質維持のためです」
会議室がざわめいた.
港湾使用料だけなら交渉の余地はある.しかし,関税優遇と輸出認可制は一方的すぎる.王国の職人や商人を,ヴァルツの管理下に置くに等しい.
ルシアンは静かに言った.
「大使閣下,これは現行条約から大きく逸脱しています」
クラウスは肩をすくめた.
「時代は変わります.港を持つ我が国の負担は大きい.貴国も安定した交易路を維持したいなら,相応の譲歩が必要でしょう」
その言葉は丁寧だった.
だが,意味は明白だった.
海を持たない王国に,選択肢は少ないだろう.
クラウスはそう言っているのだ.
そして彼は,ルシアンの隣に座るヴィオレッタへ視線を移した.
「ところで,こちらのご令嬢は?」
ルシアンが紹介しようと口を開く.
しかし,クラウスはその前に笑った.
「美しい婚約者を会議に同席させるとは,王国は華やかですな」
会議室の空気が凍った.
グレアム宰相が静かに目を閉じた.
セシリアの目がわずかに細くなる.
ルシアンは,あ,という顔をした.
ヴィオレッタはゆっくり扇を開いた.
「まあ」
声は優雅だった.
「初対面でそれほど無知を披露なさるなんて,勇気がおありですのね」
クラウスの笑みが固まった.
「何と?」
「美しいだけの女だと思ってくださるなら,そのままで結構ですわ.無知な方との交渉は,こちらが楽ですもの」
ルシアンが小声で言った.
「ヴィオレッタ,少し抑えて」
「殿下,外交とは,相手に現実を教える慈善活動でもあります」
「そうなのか?」
「少なくとも今はそうです」
ヴィオレッタは机の上に一枚の資料を置いた.
「大使閣下,まず貴国の港湾設備について確認いたしましょう」
クラウスの目が細くなった.
「我が国の港に何か?」
「東港では昨年,荷役事故が七件.南港では大型船の停泊制限が始まっています.北港の第三倉庫は雨漏りにより,香辛料の保管に不適切との苦情が商人から出ておりますわね」
クラウスの指が,机の上でわずかに動いた.
「よくお調べで」
「悪事には下調べが必要ですもの」
「悪事?」
「こちらの話です」
ヴィオレッタは次の資料を出した.
「三年前から修繕費は増加していますが,実際の工事は遅れています.修繕資材の発注記録と港湾局の報告に差があります.つまり,港湾使用料の引き上げ自体には理由がある.ですが,その費用が本当に港へ使われるかは別問題です」
ヴァルツ側の随行員がざわめいた.
クラウスは表情を保とうとしていたが,目だけは笑っていなかった.
「内政に踏み込むおつもりですか」
「いいえ.我が国が支払う金の行き先を確認しているだけです」
ヴィオレッタはさらに一枚出した.
「次に,ヴァルツ商会の一部による関税逃れの記録です.もちろん,すべての商会ではありません.ただし,今回関税優遇を求めている商会の中に,過去の申告で積荷の種類を偽った疑いがあるところが含まれています」
王国側の役人たちが,今度は別の意味でざわめいた.
クラウスの頬がわずかに引きつった.
「その記録は,どこから」
「悪女に情報源を尋ねるなんて,礼儀がなっておりませんわ」
さらに,ヴィオレッタは小さな紙を指先でつまんだ.
「加えて,大使閣下の弟君が王都で作られた借金の一覧もございます」
クラウスは椅子から立ち上がりかけた.
「それは条約と関係ない!」
「ええ,直接は」
ヴィオレッタは微笑んだ.
「ただし,交渉者の身内が王都の賭場で多額の借金を作り,その一部を関税優遇の対象となる商会が肩代わりしているとなれば,交渉の公平性を疑う材料にはなりますわ」
「脅す気か」
「いいえ.交渉です」
彼女は扇を閉じた.
「脅しなら,もっと美しくやります」
会議室は静まり返った.
だが,ヴィオレッタはそこで止まらなかった.
相手を黙らせることが目的ではない.
この場で必要なのは,王国が不利な条件を飲まされないこと.同時に,ヴァルツの港が機能し続けること.交易を壊さず,しかし利用されない形を作ることだった.
「とはいえ,貴国が港湾修繕費を必要としているのは事実です.港が止まれば,我が国も困ります」
クラウスは黙ってヴィオレッタを見た.
「ですので,港湾使用料の引き上げ自体は認めます」
王国側の役人が驚いて声を上げかける.
ヴィオレッタは片手でそれを制した.
「ただし,一度にではありません.三年をかけて段階的に引き上げる.その代わり,関税優遇は撤回.工芸品輸出の認可制も認めません」
ルシアンが続けた.
「港湾修繕については,共同事業とする」
クラウスが彼を見る.
ルシアンは落ち着いていた.
「我が国の技術者と監査官を派遣し,修繕の進捗と費用を双方で確認する.費用が適切に使われるなら,我が国も使用料の引き上げに協力できます」
ヴィオレッタは頷いた.
「これにより,貴国は港の機能を維持できる.我が国は安全な交易路を確保できる.双方に利益がありますわ」
クラウスは長く黙った.
彼は侮っていた.
若い王太子は甘く,王国は内政で弱っている.隣にいる令嬢は飾りにすぎない.そう思っていた.
だが,飾りどころか,最も鋭い刃だった.
しかも,ただ刺すだけの刃ではない.落としどころまで用意している.
「恐ろしいご令嬢だ」
クラウスは苦々しく言った.
ヴィオレッタは満足げに微笑んだ.
「ようやく正しい認識に至りましたわね」
交渉は,王国にとって有利な形でまとまった.
港湾使用料は三年かけて段階的に引き上げる.関税優遇と輸出認可制は撤回.共同修繕事業を立ち上げ,双方の監査官が費用と工事の進捗を確認する.関税逃れの疑いがある商会については,両国で再調査することになった.
会議後,王国側の役人たちはしばらく呆然としていた.
グレアム宰相だけが,楽しそうに笑っていた.
「ローゼンベルク嬢,お見事でした」
「当然ですわ」
ルシアンも深く息を吐いた.
「助かった,ヴィオレッタ」
「殿下も,途中からはきちんと発言なさいました」
「途中から?」
「最初は少し表情が硬かったです」
「厳しいね」
「王になる方には,厳しくします」
ルシアンは少し笑った.
「君は悪女ではない」
ヴィオレッタは即座に睨んだ.
「殿下」
「でも,善良なだけでもない」
「それで?」
「この国で一番恐ろしくて,一番信用できる人だ」
ヴィオレッタは扇で口元を隠した.
「……褒め言葉として受け取っておきますわ」
「褒めている」
「なら,なおさら困ります」
その日の夜,グレアム宰相は老王に報告した.
老王は病により,すでに政務の多くをルシアンへ任せていた.それでも,退位の時期については明言していなかった.
「殿下は,本日の外交交渉で落ち着いておられました」
グレアムが言う.
「もちろん,ローゼンベルク嬢の働きは大きい.しかし殿下は,彼女に頼るだけでなく,自分で条件を理解し,判断しておられた」
老王は静かに目を閉じた.
「そうか」
「はい.そして,殿下の隣に立つべき方も,ほぼ決まったように思われます」
老王は少し笑った.
「黒薔薇の娘か」
「ええ.敵に回すには恐ろしく,味方にすればこれほど頼もしい方はおりません」
老王は窓の外を見た.
王国は変わりつつある.
その中心には,優しさだけでは足りないことを知った王太子と,悪役令嬢を自称する公爵令嬢がいた.
退位の時は,近づいていた.




