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悪役令嬢は,今日も悪事に失敗する  作者: くるみ


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11/15

第11話 王太子は,悪役令嬢に頼る

ダリウス侯爵の失脚は,終わりではなかった.

むしろ,始まりだった.


学院記念式典で侯爵家の不正が暴かれたとき,多くの者は,これで一件落着だと思った.悪い侯爵が裁かれ,奨学金制度は守られ,エミリア・ベルの名誉も回復される.若き王太子は正義を示し,ヴィオレッタ・ローゼンベルクはいつものように高慢な笑みを浮かべる.


それで物語は,めでたしめでたし.

そう考えた者は,政治というものを甘く見ていた.


不正とは,一人の悪人が一人で抱えているものではない.

それを見逃した者がいる.

得をした者がいる.

沈黙した者がいる.

仕組みの中で,仕方ないと諦めた者がいる.


だから,悪人を一人取り除いても,その跡には無数の穴が残る.水が染み出すように,そこからまた別の問題が顔を出す.

王宮の調査が進むにつれて,ダリウス侯爵家の不正は,思っていたよりずっと広い範囲に広がっていた.


地方の水利組合では,水路修繕費の名目で農家から過大な負担金が集められていた.実際には修繕されていない水路も多く,帳簿の上だけで工事が完了したことになっていた.

学院予算では,教材費や図書室の整備費が削られている一方で,式典装飾や一部業者への支払いだけが年々増えていた.その業者の多くは,侯爵家と血縁か婚姻でつながっている.

救貧制度では,申請書が複雑すぎた.字を読めない者,保証人を立てられない者,役所まで行く交通費すらない者は,制度が存在していても利用できない.そして,申請を手助けする名目で,仲介料を取る者までいた.

奨学金制度にも,すでに圧力がかかっていた.

身分の低い候補者の家に,遠回しな警告が届く.


「身の丈に合わぬ望みは,家を不幸にする」


「学院で目立てば,村に迷惑がかかる」


「辞退すれば,別の形で援助する」


ルシアンは,それらの報告書を読むたびに,少しずつ口数が減っていった.

以前の彼なら,困ったように笑っていただろう.


「難しい問題だね」と言い,誰かに判断を委ねていたかもしれない.


だが今の彼は違った.

逃げなかった.

逃げなかったからこそ,傷ついた.


王太子が現実を見るということは,綺麗な理想だけでは済まないということだった.

ある会議では,南部の男爵が立ち上がり,震える声で訴えた.


「水利負担の見直しは,確かに必要です.ですが,今すぐ組合を解体されれば,来年の田植えに間に合いません.水門を誰が管理するのか,農家同士の分配を誰が調整するのか,現場は混乱します」


別の会議では,学院の事務長が頭を下げた.


「納入業者に不正があったことは認めます.しかし,契約を一斉に打ち切れば,来期の教材が届きません.学生に影響が出ます」


救貧制度の担当官は,顔を青くして言った.


「申請書の簡略化には賛成です.ですが,不正受給を防ぐ仕組みも同時に整えなければ,予算が持ちません」


改革を望む者でさえ,変化の速さを恐れていた.

一方で,既得権益を失う貴族たちは,社交界で声を大きくした.


「王太子殿下は,若さゆえに理想へ走っておられる」


「制度には歴史がある.一時の感情で壊すべきではない」


「ローゼンベルク公爵令嬢が,殿下に過激な思想を吹き込んでいるのでは」


「男爵令嬢一人のために,王国の秩序を乱すなど」


噂は,香水の匂いのように夜会を漂った.

誰も正面から言わない.

だが,耳に入るようには言う.

それが社交界のやり方だった.

ルシアンはそれでも会議に出た.資料を読み,現場の声を聞き,反対派の皮肉にも耐えた.

けれど,疲れは隠せなかった.


ある夜,ヴィオレッタは王宮の小執務室へ向かった.

廊下は静かだった.昼間は足音と声で満ちている王宮も,夜になると石壁の冷たさが際立つ.窓の外では,細い月が雲の間に浮かんでいた.

扉の前に立つ近衛兵が,ヴィオレッタを見るなり背筋を伸ばした.


「殿下は中に?」


「はい,ローゼンベルク嬢.まだお仕事を」


「でしょうね」


ヴィオレッタはため息をつき,扉を叩いた.返事はなかった.

彼女は一拍待ち,勝手に扉を開けた.

中には,書類の山があった.

そして,その山に半ば埋もれるように,ルシアンが座っていた.


蝋燭は短くなり,机の端には冷めた紅茶が置かれている.ルシアンはペンを持ったまま,額に手を当てていた.目の下には深い影がある.

ヴィオレッタは一目で状況を把握した.


「殿下,死人のような顔ですわ」


ルシアンはゆっくり顔を上げた.


「ヴィオレッタ……」


「王太子が机で干からびるなど,国の恥です」


「辛辣だね」


「事実ですもの」


いつもなら,彼はそこで苦笑した.

けれど,この日は笑えなかった.

ルシアンは視線を落とし,低く言った.


「僕は,王に向いていないのかもしれない」


ヴィオレッタは黙った.

その言葉を,すぐには否定しなかった.

安易な慰めほど,今のルシアンに無意味なものはないと分かっていたからだ.

ルシアンは続けた.


「不正は正すべきだ.それは分かっている.水利費の横流しも,学院予算の偏りも,救貧制度の不備も,見過ごしていいはずがない」


「ええ」


「でも,何かを変えようとすると,必ず誰かが困る」


彼は机の上の資料を一枚持ち上げた.


「水利組合を解体すれば,不正をしていた役員は困る.それはいい.でも,同時に,来年の水門管理を本当に誰がするのか分からなくなる農民も困る」


別の資料を見る.


「納入業者を切れば,不正は止まるかもしれない.でも,教材が遅れれば,困るのは学生だ」


さらに別の資料.


「救貧制度の申請を簡単にすれば,本当に困っている人は助かる.でも,不正に利用しようとする者も出る」


ルシアンは顔を上げた.


「僕は,誰かを助けたいと思っていた.でも,王太子の決定は,一人だけを助けるものではない.誰かを救うために,別の誰かに負担を求めることもある」


その声は,疲れきっていた.


「正しいことをしたいのに,正しさだけでは足りない」


ヴィオレッタは,その言葉を聞いて,少しだけ目を細めた.

彼はようやく,王になる者の入口に立っている.

理想を語るだけなら簡単だ.

悪人を断罪するだけなら,まだ分かりやすい.


だが,本当に国を動かすとは,正しさの後始末まで背負うことなのだ.

ヴィオレッタは机の上の資料を一枚取り上げた.

水利組合の再編案だった.


「殿下」


「何だい」


「王になる方が,孤独ごときで泣き言を言うのですか」


ルシアンは苦笑した.


「君なら,そう言うと思った」


「ですが」


ヴィオレッタは資料を机に置き直した.


「孤独を言い訳に,雑な決定をするのはもっと許せません」


ルシアンの目が,少しだけ動いた.


「雑な決定」


「この水利組合の再編案です.理念は悪くありません.ですが,実施時期が性急です.来年の田植え前に現場を混乱させれば,困るのは侯爵家ではなく農民ですわ」


「やはり,そうか」


「分かっていて悩んでいたのですか」


「うん」


「なら,悩む時間で代案を作りなさい」


ヴィオレッタは椅子を引いて座った.

いつものように,当然の顔で.


「水利組合はすぐに解体しません.まず監査役を入れます.会計を透明化し,来期までは既存の運用を一部残す」


ルシアンは急いでペンを取った.


「一部残す」


「ただし,負担金には上限を設定します.不正が確認された役員は交代.水門管理の実務を知る者は残し,帳簿を操作した者を外す.二年かけて再編する形が現実的です」


「二年」


「改革を急ぎすぎる者は,畑を見たことがない人間ですわ.季節は命令では動きません」


ルシアンは顔を上げた.


「君は,農地のことまで」


「王太子を困らせるには,農期の知識も必要です」


「それは本当に悪事なのかい?」


「もちろんです」


ヴィオレッタは次の資料を引き寄せた.


「学院納入業者についても同じです.契約を一斉に切れば教材が遅れます.まずは新規契約から入札方式を変え,既存契約は監査を入れて段階的に見直すべきです」


「不正業者は?」


「証拠が明確な業者は即時停止.ただし,代替業者を確保してからです.正義感で空白を作るのは愚かですわ」


「救貧制度は?」


「申請書を簡略化します.ただし,窓口担当者を増やすだけでは不十分です.字を読めない人のために代筆制度を設ける.その代筆者を登録制にし,不当な手数料を取れば罰する」


ルシアンは書き続けた.

疲れていたはずの目に,少しずつ光が戻っていく.

ヴィオレッタは,その様子を見ながら言った.


「改革は,斬ればよいというものではありません.腐った枝を落とすなら,幹まで折らないようにしなければ」


ルシアンはペンを止めた.


「君は,怖いのに慎重だ」


「怖いから慎重なのです」


ヴィオレッタは淡々と答えた.


「雑な悪事は嫌いです.雑な正義は,もっと嫌いですわ」


その言葉に,ルシアンはしばらく黙っていた.

やがて,小さく笑った.


「君らしい」


「笑う余裕があるなら,働きなさい」


「うん」


「ただし,今夜はこれ以上一人で抱え込まないこと」


ヴィオレッタは書類の山を半分,自分の側へ引き寄せた.

ルシアンが驚いた顔をした.


「ヴィオレッタ?」


「こちらはわたくしが見ます」


「君も疲れているだろう」


「あなたが倒れると,わたくしの嫌がらせ相手がいなくなりますもの」


「それは困るね」


「ええ,非常に」


ルシアンは,今度こそ少し笑った.

その笑いは弱かったが,本物だった.


二人は夜明け近くまで書類を読んだ.

部屋には,紙をめくる音と,ペンが走る音だけが響いていた.

ときどき,ヴィオレッタが容赦なく言う.


「この表現は曖昧です」


「この数字の根拠はどこですの」


「現場の担当者名がありません.やり直し」


ルシアンはそのたびに,疲れた顔で頷いた.

だが,もう折れそうな顔ではなかった.


途中,彼がぽつりと言った.


「僕は,君に頼ってばかりだ」


「自覚があるなら改善なさい」


「改善する。でも,今夜だけは頼らせてほしい」


ヴィオレッタは赤いインクで修正を書きながら,少しだけ視線を下げた.


「今夜だけですわ」


「ありがとう」


「感謝は仕事で返してください」


「必ず」


夜明け前,窓の外が白み始めた.

王宮の庭が薄い青に沈み,遠くで朝の鐘が鳴る.

ルシアンは眠気をこらえながら,ふと尋ねた.


「君は,どうしてそこまでできるんだ」


ヴィオレッタのペンが止まった.


「わたくしは,悪役令嬢になりたかったのです」


「知っている」


「悪役令嬢は,誰にも軽んじられない.誰にも利用されない.誰にも黙らされない.そう思っていました」


「今は?」


「今も,そう思っています」


彼女は少しだけ笑った.


「ただ,黙らされない力は,自分のためだけに使うものではないのかもしれません」


ルシアンは何も言わなかった.

その沈黙は,優しかった.

ヴィオレッタは,慌てるように次の資料を差し出した.


「ほら,手が止まっています.王太子が感傷に浸る時間はありませんわ」


「はい,先生」


「誰が先生ですか」


「悪役令嬢?」


「よろしい」


二人はまた書類に向かった.



翌朝,ルシアンは会議に出た.

目の下には隈があったが,声はしっかりしていた.

彼は用意された原稿を読むだけではなかった.


水利組合の再編は二年かけること.監査役を入れ,会計を公開すること.負担金に上限を設けること.不正をした役員は交代させるが,現場の実務を知る者は必要に応じて残すこと.


学院納入業者は段階的に見直し,教材供給の空白を作らないこと.


救貧制度は申請書を簡略化し,登録代筆者制度を設けること.


彼は,一つずつ自分の言葉で説明した.


反対派の貴族が言った.


「殿下は,伝統ある制度を軽んじておられる」


ルシアンは答えた.


「伝統を理由に,不正を隠すことは認めません.しかし,現場に必要な知恵まで捨てるつもりはありません」


別の役人が尋ねた.


「予算はどう確保なさいますか」


「学院式典費と一部装飾費を見直します.また,不正支出が確認された契約の停止分を教材支援へ回す」


「実施時期は」


「農期と学院暦に合わせ,段階を分けます」


彼は逃げなかった.

分からない質問には,分からないと認めた.


「その点は,まだ調査が足りません.一週間以内に数字を出します」


そう言うこともできた.

会議が終わったとき,地方代表の一人が深く頭を下げた.


「殿下,現場を見てくださるなら,我々も協力します」


ルシアンは静かに頷いた.


「力を貸してください」


その様子を,ヴィオレッタは後方で見ていた.


「少しは王太子らしくなりましたわね」


セシリアが隣で言う.


「嬉しそうでございます」


「違います.育成が成功しただけです」


「育成」


「悪役令嬢には,王子を鍛える責務もありますわ」


セシリアは静かに礼をした.


「王国の悪役令嬢は,多忙でございますね」


その日から,ルシアンはヴィオレッタに頼るだけでなく,自分で決め,自分で責任を取るようになった.

もちろん,完全な王になったわけではない.


迷う日もあった.

間違える日もあった.

ヴィオレッタに資料を破られる日もあった.

だが,逃げなくなった.


それは,王になる者にとって,最初の大きな変化だった.

そして王宮にようやく少しの余裕が戻り始めたころ,新たな問題が持ち込まれた.


隣国ヴァルツから,大使クラウスが来訪することになったのである.

内政改革で揺れる王国を見て,彼らは不利な交易条約を押しつけようとしていた.


そして,彼らはまだ知らなかった.

この国には,悪役令嬢を自称する,とても面倒な公爵令嬢がいることを.

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