第11話 王太子は,悪役令嬢に頼る
ダリウス侯爵の失脚は,終わりではなかった.
むしろ,始まりだった.
学院記念式典で侯爵家の不正が暴かれたとき,多くの者は,これで一件落着だと思った.悪い侯爵が裁かれ,奨学金制度は守られ,エミリア・ベルの名誉も回復される.若き王太子は正義を示し,ヴィオレッタ・ローゼンベルクはいつものように高慢な笑みを浮かべる.
それで物語は,めでたしめでたし.
そう考えた者は,政治というものを甘く見ていた.
不正とは,一人の悪人が一人で抱えているものではない.
それを見逃した者がいる.
得をした者がいる.
沈黙した者がいる.
仕組みの中で,仕方ないと諦めた者がいる.
だから,悪人を一人取り除いても,その跡には無数の穴が残る.水が染み出すように,そこからまた別の問題が顔を出す.
王宮の調査が進むにつれて,ダリウス侯爵家の不正は,思っていたよりずっと広い範囲に広がっていた.
地方の水利組合では,水路修繕費の名目で農家から過大な負担金が集められていた.実際には修繕されていない水路も多く,帳簿の上だけで工事が完了したことになっていた.
学院予算では,教材費や図書室の整備費が削られている一方で,式典装飾や一部業者への支払いだけが年々増えていた.その業者の多くは,侯爵家と血縁か婚姻でつながっている.
救貧制度では,申請書が複雑すぎた.字を読めない者,保証人を立てられない者,役所まで行く交通費すらない者は,制度が存在していても利用できない.そして,申請を手助けする名目で,仲介料を取る者までいた.
奨学金制度にも,すでに圧力がかかっていた.
身分の低い候補者の家に,遠回しな警告が届く.
「身の丈に合わぬ望みは,家を不幸にする」
「学院で目立てば,村に迷惑がかかる」
「辞退すれば,別の形で援助する」
ルシアンは,それらの報告書を読むたびに,少しずつ口数が減っていった.
以前の彼なら,困ったように笑っていただろう.
「難しい問題だね」と言い,誰かに判断を委ねていたかもしれない.
だが今の彼は違った.
逃げなかった.
逃げなかったからこそ,傷ついた.
王太子が現実を見るということは,綺麗な理想だけでは済まないということだった.
ある会議では,南部の男爵が立ち上がり,震える声で訴えた.
「水利負担の見直しは,確かに必要です.ですが,今すぐ組合を解体されれば,来年の田植えに間に合いません.水門を誰が管理するのか,農家同士の分配を誰が調整するのか,現場は混乱します」
別の会議では,学院の事務長が頭を下げた.
「納入業者に不正があったことは認めます.しかし,契約を一斉に打ち切れば,来期の教材が届きません.学生に影響が出ます」
救貧制度の担当官は,顔を青くして言った.
「申請書の簡略化には賛成です.ですが,不正受給を防ぐ仕組みも同時に整えなければ,予算が持ちません」
改革を望む者でさえ,変化の速さを恐れていた.
一方で,既得権益を失う貴族たちは,社交界で声を大きくした.
「王太子殿下は,若さゆえに理想へ走っておられる」
「制度には歴史がある.一時の感情で壊すべきではない」
「ローゼンベルク公爵令嬢が,殿下に過激な思想を吹き込んでいるのでは」
「男爵令嬢一人のために,王国の秩序を乱すなど」
噂は,香水の匂いのように夜会を漂った.
誰も正面から言わない.
だが,耳に入るようには言う.
それが社交界のやり方だった.
ルシアンはそれでも会議に出た.資料を読み,現場の声を聞き,反対派の皮肉にも耐えた.
けれど,疲れは隠せなかった.
ある夜,ヴィオレッタは王宮の小執務室へ向かった.
廊下は静かだった.昼間は足音と声で満ちている王宮も,夜になると石壁の冷たさが際立つ.窓の外では,細い月が雲の間に浮かんでいた.
扉の前に立つ近衛兵が,ヴィオレッタを見るなり背筋を伸ばした.
「殿下は中に?」
「はい,ローゼンベルク嬢.まだお仕事を」
「でしょうね」
ヴィオレッタはため息をつき,扉を叩いた.返事はなかった.
彼女は一拍待ち,勝手に扉を開けた.
中には,書類の山があった.
そして,その山に半ば埋もれるように,ルシアンが座っていた.
蝋燭は短くなり,机の端には冷めた紅茶が置かれている.ルシアンはペンを持ったまま,額に手を当てていた.目の下には深い影がある.
ヴィオレッタは一目で状況を把握した.
「殿下,死人のような顔ですわ」
ルシアンはゆっくり顔を上げた.
「ヴィオレッタ……」
「王太子が机で干からびるなど,国の恥です」
「辛辣だね」
「事実ですもの」
いつもなら,彼はそこで苦笑した.
けれど,この日は笑えなかった.
ルシアンは視線を落とし,低く言った.
「僕は,王に向いていないのかもしれない」
ヴィオレッタは黙った.
その言葉を,すぐには否定しなかった.
安易な慰めほど,今のルシアンに無意味なものはないと分かっていたからだ.
ルシアンは続けた.
「不正は正すべきだ.それは分かっている.水利費の横流しも,学院予算の偏りも,救貧制度の不備も,見過ごしていいはずがない」
「ええ」
「でも,何かを変えようとすると,必ず誰かが困る」
彼は机の上の資料を一枚持ち上げた.
「水利組合を解体すれば,不正をしていた役員は困る.それはいい.でも,同時に,来年の水門管理を本当に誰がするのか分からなくなる農民も困る」
別の資料を見る.
「納入業者を切れば,不正は止まるかもしれない.でも,教材が遅れれば,困るのは学生だ」
さらに別の資料.
「救貧制度の申請を簡単にすれば,本当に困っている人は助かる.でも,不正に利用しようとする者も出る」
ルシアンは顔を上げた.
「僕は,誰かを助けたいと思っていた.でも,王太子の決定は,一人だけを助けるものではない.誰かを救うために,別の誰かに負担を求めることもある」
その声は,疲れきっていた.
「正しいことをしたいのに,正しさだけでは足りない」
ヴィオレッタは,その言葉を聞いて,少しだけ目を細めた.
彼はようやく,王になる者の入口に立っている.
理想を語るだけなら簡単だ.
悪人を断罪するだけなら,まだ分かりやすい.
だが,本当に国を動かすとは,正しさの後始末まで背負うことなのだ.
ヴィオレッタは机の上の資料を一枚取り上げた.
水利組合の再編案だった.
「殿下」
「何だい」
「王になる方が,孤独ごときで泣き言を言うのですか」
ルシアンは苦笑した.
「君なら,そう言うと思った」
「ですが」
ヴィオレッタは資料を机に置き直した.
「孤独を言い訳に,雑な決定をするのはもっと許せません」
ルシアンの目が,少しだけ動いた.
「雑な決定」
「この水利組合の再編案です.理念は悪くありません.ですが,実施時期が性急です.来年の田植え前に現場を混乱させれば,困るのは侯爵家ではなく農民ですわ」
「やはり,そうか」
「分かっていて悩んでいたのですか」
「うん」
「なら,悩む時間で代案を作りなさい」
ヴィオレッタは椅子を引いて座った.
いつものように,当然の顔で.
「水利組合はすぐに解体しません.まず監査役を入れます.会計を透明化し,来期までは既存の運用を一部残す」
ルシアンは急いでペンを取った.
「一部残す」
「ただし,負担金には上限を設定します.不正が確認された役員は交代.水門管理の実務を知る者は残し,帳簿を操作した者を外す.二年かけて再編する形が現実的です」
「二年」
「改革を急ぎすぎる者は,畑を見たことがない人間ですわ.季節は命令では動きません」
ルシアンは顔を上げた.
「君は,農地のことまで」
「王太子を困らせるには,農期の知識も必要です」
「それは本当に悪事なのかい?」
「もちろんです」
ヴィオレッタは次の資料を引き寄せた.
「学院納入業者についても同じです.契約を一斉に切れば教材が遅れます.まずは新規契約から入札方式を変え,既存契約は監査を入れて段階的に見直すべきです」
「不正業者は?」
「証拠が明確な業者は即時停止.ただし,代替業者を確保してからです.正義感で空白を作るのは愚かですわ」
「救貧制度は?」
「申請書を簡略化します.ただし,窓口担当者を増やすだけでは不十分です.字を読めない人のために代筆制度を設ける.その代筆者を登録制にし,不当な手数料を取れば罰する」
ルシアンは書き続けた.
疲れていたはずの目に,少しずつ光が戻っていく.
ヴィオレッタは,その様子を見ながら言った.
「改革は,斬ればよいというものではありません.腐った枝を落とすなら,幹まで折らないようにしなければ」
ルシアンはペンを止めた.
「君は,怖いのに慎重だ」
「怖いから慎重なのです」
ヴィオレッタは淡々と答えた.
「雑な悪事は嫌いです.雑な正義は,もっと嫌いですわ」
その言葉に,ルシアンはしばらく黙っていた.
やがて,小さく笑った.
「君らしい」
「笑う余裕があるなら,働きなさい」
「うん」
「ただし,今夜はこれ以上一人で抱え込まないこと」
ヴィオレッタは書類の山を半分,自分の側へ引き寄せた.
ルシアンが驚いた顔をした.
「ヴィオレッタ?」
「こちらはわたくしが見ます」
「君も疲れているだろう」
「あなたが倒れると,わたくしの嫌がらせ相手がいなくなりますもの」
「それは困るね」
「ええ,非常に」
ルシアンは,今度こそ少し笑った.
その笑いは弱かったが,本物だった.
二人は夜明け近くまで書類を読んだ.
部屋には,紙をめくる音と,ペンが走る音だけが響いていた.
ときどき,ヴィオレッタが容赦なく言う.
「この表現は曖昧です」
「この数字の根拠はどこですの」
「現場の担当者名がありません.やり直し」
ルシアンはそのたびに,疲れた顔で頷いた.
だが,もう折れそうな顔ではなかった.
途中,彼がぽつりと言った.
「僕は,君に頼ってばかりだ」
「自覚があるなら改善なさい」
「改善する。でも,今夜だけは頼らせてほしい」
ヴィオレッタは赤いインクで修正を書きながら,少しだけ視線を下げた.
「今夜だけですわ」
「ありがとう」
「感謝は仕事で返してください」
「必ず」
夜明け前,窓の外が白み始めた.
王宮の庭が薄い青に沈み,遠くで朝の鐘が鳴る.
ルシアンは眠気をこらえながら,ふと尋ねた.
「君は,どうしてそこまでできるんだ」
ヴィオレッタのペンが止まった.
「わたくしは,悪役令嬢になりたかったのです」
「知っている」
「悪役令嬢は,誰にも軽んじられない.誰にも利用されない.誰にも黙らされない.そう思っていました」
「今は?」
「今も,そう思っています」
彼女は少しだけ笑った.
「ただ,黙らされない力は,自分のためだけに使うものではないのかもしれません」
ルシアンは何も言わなかった.
その沈黙は,優しかった.
ヴィオレッタは,慌てるように次の資料を差し出した.
「ほら,手が止まっています.王太子が感傷に浸る時間はありませんわ」
「はい,先生」
「誰が先生ですか」
「悪役令嬢?」
「よろしい」
二人はまた書類に向かった.
翌朝,ルシアンは会議に出た.
目の下には隈があったが,声はしっかりしていた.
彼は用意された原稿を読むだけではなかった.
水利組合の再編は二年かけること.監査役を入れ,会計を公開すること.負担金に上限を設けること.不正をした役員は交代させるが,現場の実務を知る者は必要に応じて残すこと.
学院納入業者は段階的に見直し,教材供給の空白を作らないこと.
救貧制度は申請書を簡略化し,登録代筆者制度を設けること.
彼は,一つずつ自分の言葉で説明した.
反対派の貴族が言った.
「殿下は,伝統ある制度を軽んじておられる」
ルシアンは答えた.
「伝統を理由に,不正を隠すことは認めません.しかし,現場に必要な知恵まで捨てるつもりはありません」
別の役人が尋ねた.
「予算はどう確保なさいますか」
「学院式典費と一部装飾費を見直します.また,不正支出が確認された契約の停止分を教材支援へ回す」
「実施時期は」
「農期と学院暦に合わせ,段階を分けます」
彼は逃げなかった.
分からない質問には,分からないと認めた.
「その点は,まだ調査が足りません.一週間以内に数字を出します」
そう言うこともできた.
会議が終わったとき,地方代表の一人が深く頭を下げた.
「殿下,現場を見てくださるなら,我々も協力します」
ルシアンは静かに頷いた.
「力を貸してください」
その様子を,ヴィオレッタは後方で見ていた.
「少しは王太子らしくなりましたわね」
セシリアが隣で言う.
「嬉しそうでございます」
「違います.育成が成功しただけです」
「育成」
「悪役令嬢には,王子を鍛える責務もありますわ」
セシリアは静かに礼をした.
「王国の悪役令嬢は,多忙でございますね」
その日から,ルシアンはヴィオレッタに頼るだけでなく,自分で決め,自分で責任を取るようになった.
もちろん,完全な王になったわけではない.
迷う日もあった.
間違える日もあった.
ヴィオレッタに資料を破られる日もあった.
だが,逃げなくなった.
それは,王になる者にとって,最初の大きな変化だった.
そして王宮にようやく少しの余裕が戻り始めたころ,新たな問題が持ち込まれた.
隣国ヴァルツから,大使クラウスが来訪することになったのである.
内政改革で揺れる王国を見て,彼らは不利な交易条約を押しつけようとしていた.
そして,彼らはまだ知らなかった.
この国には,悪役令嬢を自称する,とても面倒な公爵令嬢がいることを.




