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第15話 王国史上最悪の王妃

戴冠式の日,王都は晴れていた.


夜明け前から,大聖堂へ続く大通りには人が集まり始めていた.商人たちは店先に布を張り,子どもたちは背伸びをしながら行列を待ち,老人たちは杖をついて広場の端に座った.

王都の鐘が朝を告げるころには,通りは人で埋まっていた.


新しい王が生まれる日である.

老王の時代は終わり,若き王ルシアンの時代が始まる.

人々の期待は大きかった.

同時に,不安もあった.


ここ数か月で,王国は大きく揺れた.貴族不正の暴露,学院制度の改革,地方水利組合の監査,救貧制度の見直し,隣国との交渉.


変化は希望である.


けれど,変化は怖くもある.


「殿下は本当に王になれるのかしら」


「最近はずいぶん立派になられたと聞くぞ」


「それより王妃様だ.黒薔薇の公爵令嬢だろう?」


「不正貴族を大広間で黙らせた方だって」


「隣国の大使もやり込めたとか」


「頼もしいような,怖いような」


「悪いことをしていなければ怖くないのでは?」


「それが怖い人もいるだろうね」


民衆は好き勝手に噂した.


大聖堂の中では,静かな緊張が張り詰めていた.

各地の貴族,地方代表,王宮の役人,学院関係者,隣国の使節,そして民衆代表.さまざまな立場の者が,一つの場に集まっている.


その視線の先で,ルシアンは王冠を受けた.

彼は緊張していた.

だが,逃げる目ではなかった.

誓詞を読み上げる声は,よく通った.


「私は,この国の民と法を守り,過ちから目を逸らさず,力ある者のためだけでなく,声の小さき者のためにも王冠を戴く」


その言葉は,彼自身が何度も書き直したものだった.


最初の案は,ヴィオレッタに曖昧だと破られた.

二度目の案は,綺麗すぎて現実味がないと赤を入れられた.

三度目の案は,民という言葉が広すぎると突き返された.

四度目でようやく通った.


ルシアンは,その誓詞を自分の言葉として読み上げた.

そして,彼の隣にヴィオレッタが進み出た.


大聖堂に,かすかなざわめきが走った.

彼女は黒いドレスをまとっていた.


夜明け前の闇のような黒.裾には黒薔薇の刺繍があり,歩くたびに控えめな光を返す.王妃の衣装としては異例だった.白でも金でも青でもない.

しかし,その姿は奇妙なほど堂々としていた.


清らかな聖女ではない.


飾られた人形でもない.


自分の足で立つ女だった.


ヴィオレッタは,大聖堂の奥までまっすぐ視線を向けた.

そこにはエミリアがいた.教育庁に進むことが内定している彼女は,学院代表の一人として参列していた.


エミリアは,目を潤ませながらも笑っていた.

ベアトリスやクララもいる.かつてお茶会で人生相談をした令嬢たちは,今ではそれぞれ自分の道を歩き始めていた.

セシリアは少し離れた場所に控えていた.表情はいつも通り静かだが,目元だけが少し柔らかい.


ヴィオレッタは,ほんのわずかに顎を上げた.

誓いの言葉を述べる.


「私は,王妃として,この国の弱き声を聞き,強き者の横暴を見逃さず,王の隣に立つ者として責務を果たします」


そこまでは,王妃らしい言葉だった.

だが,彼女は少し間を置き,続けた.


「ただし,不正を働く者,弱き者を踏みにじる者には,慈悲深い王妃であることを約束いたしません」


大聖堂が静まり返った.

ルシアンが,隣で小さく笑った.

グレアム宰相は目を伏せ,肩を震わせていた.笑いをこらえているのだ.

外の広場にも,その言葉は伝えられた.


一瞬の沈黙.


そして,どこかで子どもが叫んだ.


「王妃様,かっこいい!」


その声をきっかけに,広場に笑いと拍手が広がった.


「黒い王妃様だ!」


「黒薔薇様!」


「いいぞ,新しい時代らしい!」


ヴィオレッタは,わずかに目を見開いた.

ルシアンが隣で小さく言った.


「悪役令嬢とは呼ばれなかったね」


「残念ですわ」


「本当に?」


「少しだけ」


「でも,悪人たちはそう呼ぶと思う」


その予言は,すぐに当たった.


即位後,ルシアンとヴィオレッタは改革を本格化させた.


水利組合には監査役を入れ,会計を公開させた.農民の負担金には上限を設け,実際に修繕が行われたかを地方代表が確認できるようにした.不正をした役員は罰せられたが,現場の実務を知る者は必要に応じて残された.


「全部斬ればよいというものではありません」


ヴィオレッタはそう言った.


学院予算は見直された.


派手な式典や過剰な装飾に使われていた費用は削られ,教材支援と地方学生の寮費補助が増えた.最初,令嬢たちは舞踏会の飾りが減ったことに不満を漏らしたが,その代わり図書室の蔵書が増え,音楽室の古い楽器が修繕されたので,最終的には多くの学生が喜んだ.


奨学金制度は拡充され,家名を伏せた一次審査は正式な規則になった.不正防止のため,審査記録は保管され,毎年外部監査を受けることになった.


救貧制度の申請書は簡略化され,字を読めない者のために登録代筆者制度が作られた.代筆者が不当な手数料を取れば罰せられる.


もちろん,すべてが順調だったわけではない.


反発する貴族はいた.

抜け道を探す役人もいた.

制度の隙を突こうとする商人もいた.

そういう者たちのもとには,ある日,黒い封筒が届いた.


差出人は,王妃ヴィオレッタ.

中には,たった一文.


『ご説明を伺いますわ』


それだけで,多くの者が震え上がった.


黒い封筒を受け取った伯爵が,慌てて帳簿を持って王宮へ駆け込んだという話もある.

ある商人は,封筒を見た瞬間,三年前の不正申告まで自白した.

ある役人は,まだ何もしていないのに「これからするつもりでした」と謝罪した.

ヴィオレッタはそれを聞き,少し不満そうに言った.


「まだ何も問い詰めていませんのに」


セシリアは答えた.


「王妃陛下の悪名が,順調に広がっております」


「ようやくですわね」


「ただし,民衆からの評判も上がっております」


「なぜですの」


「不正をした方々だけが震えているからではないでしょうか」


ヴィオレッタは納得いかない顔をした.


エミリアは学院を卒業後,教育庁に入った.

男爵令嬢が王宮の部署で働くことには反対もあった.


「身分が低い」


「経験が足りない」


「王妃のお気に入りではないか」


そう言う者たちに,エミリアは成績と実績で答えた.地方学校案の試験計画,読み書き教室の運営記録,奨学金受給者による学習支援の成果.彼女は一つずつ積み上げた.

もちろん,その計画書は何度もヴィオレッタに破られた.


「資金計画が甘いです」


「はい」


「教師の研修期間が短い」


「はい」


「村ごとの農繁期の違いを,もう少し細かく見なさい」


「はい」


「休息制度は?」


「入れました」


「見せなさい」


エミリアは緊張した顔で差し出した.

そこには,教師が倒れないよう,交代制と休養日が組み込まれていた.一番下には,小さくこう書かれている.


『支える人が倒れない仕組みにする』


ヴィオレッタは,ほんの少しだけ口元を緩めた.


「理念は悪くありません」


エミリアの顔が明るくなる.


「では」


「通します.ただし,三か月ごとに報告書を出しなさい」


「ありがとうございます,ヴィオレッタ様」


「王妃陛下と呼びなさい」


「はい,ヴィオレッタ様」


「聞いていませんわね」


エミリアは笑った.

セシリアは,王宮侍女長になっていた.

今もヴィオレッタのそばで,変わらず淡々と予定を読み上げる.


「王妃陛下,本日の予定です」


「読み上げなさい」


「午前,水利監査報告.午後,教育庁との会議.夕方,不正疑惑のある伯爵との面談」


「最後が楽しみですわ」


「悪役令嬢らしい笑みでございます」


「当然です」


ルシアンは王として忙しくなった.

それでも,ヴィオレッタと向き合う時間を欠かさなかった.

二人は甘い言葉を交わすよりも,政策案を読み合う時間のほうが長かった.


ある夜,ルシアンが言った.


「君が隣にいてくれてよかった」


ヴィオレッタは書類から目を上げずに答えた.


「感謝は仕事で返してくださいませ」


「明日の会議で返す」


「よろしい」


「でも,たまには言わせてほしい」


ヴィオレッタは少しだけ視線を上げた.


「一回だけです」


「ありがとう,ヴィオレッタ」


「……明日は,いつもより厳しく資料を見ます」


「照れている?」


「不敬ですわ」


二人の関係は,甘いだけの恋ではなかった.

互いに叱り,支え,並んで国を背負う関係だった.


年月が流れ,二人の間には一人の王女が生まれた.

王女は幼いころのヴィオレッタによく似て,好奇心が強く,少し生意気だった.

ある日,王宮の庭で王女が尋ねた.


「お母様は,悪役令嬢だったの?」


ヴィオレッタは娘を膝に乗せ,誇らしげに答えた.


「ええ.今もそうですわ」


「でも,みんなお母様のこと好きだよ?」


「それは,みんながわたくしの悪事の恐ろしさをまだ理解していないからです」


「どんな悪事?」


ヴィオレッタはにっこり笑った.


「この国を,少しずつ良くしてしまうことですわ」


王女はきょとんとして,それから笑った.


「それ,悪事じゃないよ」


ヴィオレッタは高らかに笑った.


「おーっほっほっほ! そう思わせるところまでが,わたくしの計画ですわ!」


庭に明るい笑い声が響いた.


悪役令嬢ヴィオレッタ・ローゼンベルクは,今日も悪事に失敗する.

嫌がらせは支援になり,毒舌は助言になり,陰謀は改革になる.

けれど本人は,今でも本気で信じている.


自分こそ,王国史上最悪の悪役令嬢なのだと.

そして国民も,それを否定しない.


なぜなら彼女は確かに,悪人たちにとっては最悪の王妃だったからだ.

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