19.
二〇一五年六月二十九日。今日の気分は良好。
「被告は、原告に対し接近してはならない」
その一文だけでよかった。
読み上げられる金額も、周囲の安堵も、どこか遠くで鳴っているみたいだった。
RAITの元で働かせてもらえれば、どうにかできる額だと思う。
そうでなくても、最初から、自分で返済するつもりだった。
それよりも——
もう、会わなくていい。
その事実だけが、静かに落ちてくる。
自分の中に流れているものが、ずっと嫌だった。
切り離せないものとして、まとわりついていた。
どこまで行っても、あの人の子どもだという証明みたいで。
けれど、
「接近してはならない」
その言葉で、初めて線が引かれた気がした。
同じ血でも、同じ側じゃない。
息を吸う。
驚くくらい、深く入った。
ようやく終わった、と思った。
およそ十ヶ月前に重度の鬱病と診断されてから、安定するまでに多くの時間を費やした。何度も薬を変えながら試行錯誤して寛解を目指した。オーバードーズや自傷行為をしたい欲求を減らすことを目的に主治医の先生は力を尽くしてくれた。
次は、辛くなる前に、悲しくなる前に、病院へ行くことを約束して退院した。
次のステージへ向かうための基盤作りが始まった。
体力、メンタル、歌唱力、主にこの三点に注力して、RAITと大地からのスパルタ教育に耐える毎日。不思議と苦痛はなかった。むしろ、頑張ることに喜びを感じた。
RAITは平然と言う。俺はどうやら、来年の春に東京ドームに立つらしい。
半年と少ししかないのに、何を言っているのだろうと思う。
考えても分からないことは深く考えずに流すようにした。なんとなく、RAITの後ろについていればどうにでもなるだろうという変な自信があったからかもしれない。
ーーー精神状態が安定して、RAITが先陣を切った裁判に勝訴して、ドーム公演の告知がされて、浮かれていたのだと、今ならわかる。
いつだって、大波に乗ったあとには地獄を見てきた。何度も死を想像した。
このまま終わるなんて、ありえない話だったんだ。
「えっ。辞めた!?」
ハードな筋トレとボイトレを終えて自宅で夕食を食べているとき、広太が衝撃発言をした。
「うん。学びたいこと頭に入ったし。時間は有限だからね。なんかあったらまた違うとこ行きゃ良いし」
入院している間に大学を辞めたと言う。
金持ちなのは知っていたけど、なんというか、規模が違う。
「RAITんとこで経営もかじってるし、座学より実務っしょ」
手作りの肉じゃがを食べながらなんでもないことのように話す。
「ん、優も辞めるって言ってたな」
「え」
「あっちは親がうるさいらしい。東大以外許さないって。今更言うなよな」
「広太のとこは?厳しくないの。高卒って」
「あー、うちは知っての通り放任主義だから。むしろ思考が柔軟だって褒められたよ。俺がほしいのは学歴じゃなくて知識だし」
次元が違いすぎて意味がわからなかった。もしかして、これが多様性か?
「そういや、英語もやんなきゃまずいよな」
「うん。仮歌録ったけど、カタコトすぎて大地に笑われた」
予定外の入院で遅れていたアメリカのロック歌手、ジョー・ダニエルとのコラボ楽曲も同時進行で制作することになったのだ。
「俺も聴きたいんだけど!」
味噌汁を啜りながらスマホを操作した。大地にデータを要求したのだろう。頼むから消していてほしい。
「ん!やべ!」
急に席を立ったかと思ったら、広太は大慌てで部屋へ消えてしまった。
入院生活で養った味覚のおかげで広太の手料理が店レベルの美味しさであることを知った。
たまに、ネギを丸齧りしたい欲求に駆られることはあるけれど、今はすっかり健康生活を送っている。
「やべー!陽菜にまたキレられる」
「なにしたの?」
部屋から出てきた広太の手には、陽菜が大学で使うノートパソコンと数冊のノート。
「今日返せって言われてたのめっちゃ忘れてた。朝イチで持ってったら許してくれっかな」
「学校行く前ならワンチャン」
「いや、待て。あいつら一緒にいたら、あっちにキレられる。あー!まじでやらかした」
「今返しに行く?」
しばらく考えてから、明日の朝イチに返すことにしたらしい。一緒にいるであろう、優の寝起きの悪さに怯えながら。
「まじで憂鬱。ポストに投函していいかな」
「パソコン入らなそう」
「空、代わりに行く?」
「自分で行って」
軽口を叩いて笑った。




