第73話
男の頭の中には、古い記憶が断片的に三つ、蘇っていた。
一つ目は、目の下に薄っすらクマのできた女性とカフェで会話をしたこと。彼女は涙を浮かべながら、深々と男に頭を下げてきた。
二つ目は、昔勤めていた病院に、民間救急車で運ばれてきた、一人の少年。離れた場所から見ていたが、特徴的な太い眉ははっきりと見え、彼の隣には、カフェで話をした女性が寄り添っていた。
そして三つ目は、罪が明るみになる前日に訪れた、廃業したクリニック。出頭の準備中、黒く細長い鞄の中に、抱き抱えてもピクリとも動かない人形のようなものを入れて、車に詰め込んだ。
これらの記憶の結末がどうなったか。知る術はないと思っていた男だったが、刑務所長の一言で、一気に想像が駆け巡る。それは当時、男が願った展開。現実になったことに驚きが先行したが、企てが実ったことに笑みが零れたのだった。
男の言葉に対して、刑務所長はコクッと頷くと、襟元を整えながら話し始めた。
「先生が刑務所に収容された後、母から話を聞きました。私の命を救ってくれたのは、先生だと」
「いや、君の命を救ったのは、お母さんと臓器を提供してくれた人だ。僕はただの犯罪者だよ」
首を横に振る男。それを見て、刑務所長も同じ向きに首を振る。
「私達を救ってくれたのは先生だと、母は言っていました。母の元に警察が来ることはありませんでしたが、もし協力者だと疑われたら、息子が病院で人質に取られて仕方なく、と言うように指示をされたそうですね。それに、仕事の掛け持ちを止め、クラウドファンディングで治療費を募れ、と助言されたとも聞きました。集まった寄付金で、私は手術を受けることができ、母と共に生きて来られたのです」
話を聴いた男は、再度首を振り、フッと鼻で笑う。
「君が一人にならないようにしたいと思っただけだよ。逮捕されたり、無理が祟って倒れてしまったり、お母さんがいなくなれば、君の命に関わると思ってね。それより、寄付が集まって良かったよ。世の中には、善意を持った人が意外といるものだね」
男はカッカと、肩を震わせながら笑った。その様子を見つめる刑務所長は、なぜか苦笑いを浮かべる。
「寄付は目標金額を上回るほど集まり、その中には高額な寄付をしてくださった方が数名いたそうです。匿名で募ったので推測でしかありませんが、そのうちの一人は先生だと、母は考えていました。違いますか?」
その推測に、男は数秒ポカンと口を開いて止まる。その態度が半分答えのようなものだが、男はその答えを隠すように、唇で緩やかな弧を描く。
「大切なのは金額ではなく、寄付をしてくれた人の多さだよ。金で買えない命が、金が無いと救えないという現実に、共に立ち向かってくれた人達がいた。皆に平等に感謝すべきだ。まぁ、僕から言えることがあるとすれば、当時は金を残すことを考えていなかったということかな。今はそれが仇となって、妻に苦労を掛けてしまっているがね」
フッと自嘲の笑いを漏らした男だったが、ふうっと一息つくと、僅かに頭を下げ、落ち着いた声音で話を続けた。
「あの時は、死ぬつもりだった。でも、家族や友人が、僕にはまだ役目があると教えてくれたんだ。その役目の一つとして本を書き、印税は、家族の生活の足しにしてもらったよ」
男は、友人のジャーナリストの協力を得て、1冊の本を出版していた。本には、病と闘い続けた末に事故死した姉からの臓器移植で命を紡いだ己の半生を綴り、自身が手に掛けた被害者がどのような境遇と苦しみに喘いでいたかを書き記した。同じような苦しみを抱える人を少しでも減らしたい。たった一度でもいいから、苦しむ人に手を差し伸べてあげてほしい。本には、そんな祈りが込められている。
「本の印税は、遺族への賠償と、再生医療を普及する財団への寄付にも充てられていましたよね?」
突然の指摘に、男は勢いよく頭を上げた。なぜそれを知っているのかと、唖然とする口の形だけで問い質すと、正面からは柔らかい微笑みが返ってくる。
「恩赦願書を受け取った時に、先生のことを調べさせてもらいました。刑務所内での作業態度は至って真面目で模範囚。元医者の経験から、倒れた受刑者を救ったこともある。被害者遺族への賠償は既に終えられ、現在は財団への寄付とご家族の生活に、印税を充てられていますね。服役中に民間のカウンセリング資格を取得され、出所後は元部下の方が立ち上げた施設で、カウンセラーとして雇用してもらえると伺いました」
男の首はすくみ、ワイシャツの下ではゾワッと鳥肌が立つ。誰かを調べることは過去にしてきたが、己が調べられ、刑務所外での私行までもが把握されている事実に、体が驚きと恐怖を露わにした。
シンと静まる室内。正面の崩れぬ微笑み。反応を待たれていると察した男は、ふっと息を吐いて冷静さを取り戻すと、指摘の内容に補足を付け加えた。
「遺族への賠償金は、父が大半を払ってくれた。偽証罪に問われる、なんて冗談を言って、僕にはあまり払わせてくれなくてね。印税の残りは、妻に渡そうとしたんだが、自分のやりたいことに使えと、受け取りを拒まれた。そこで思いついたのが、再生医療の発展だ。臓器提供を待つ以外の選択肢があれば、救われる人が増えると考えた。僕や家族のような思いをする人を、少しでも減らしたかったんだ。印税の大半は財団に寄付するから、残りを受け取ってくれと妻にお願いした。犯罪者である僕と一緒になることを選び、見捨てずにいてくれた妻に、僕ができるのはそれくらいしかなかったんだ。まぁ、何十年も前に出版したから、もう一銭も入っていないだろうけどね」
男は、唇を弓なりに曲げ、正面のそれと似た形を作る。微笑を見せ合う二人。だが、一方から投げかけられる質問に、もう一方の笑みはすぐに薄れる。
「先生は、なぜ人を救い続けるのですか?」
弓状で固まっていた男の唇は、少しずつへの字に形を変えていく。答えを探し、そしてどう言葉にするか、考えているようだ。再び訪れた沈黙。だが十秒ほどで、男の唇の形が変化し、室内に音が戻る。
「僕にとって人を救うということは、自分を救うことなんだ。幼い頃の経験からか、誰かが苦しんでいる姿を見ると、自分のことのように苦しく感じる。そして、相手が苦しみから救われた時は、自分も解放された気持ちになるんだ。これは僕だけの感覚ではなく、恐らく医神もそう感じていたのではないかな。苦しむ人や亡くなられた人の姿に心を痛め、自身を含めた皆に対して救済を行ったのだと、僕は考えている。偽善や損得勘定ではなく、慈悲の心だ。命より大切なものなど何一つない、僕はこの信念のもとに行動してきたわけだが、これがある意味で悪辣だった。人助けとは名ばかりの犯罪。本来は、生涯外に出ることのできない程の罰を与えられたのだから、今後も人を救い続けるつもりだよ」
「先生はもう、恩赦によって刑期を終えられたのです。自らを罰する必要は、ないのですよ」
刑務所長の穏やかな声掛けに、男は僅かに頭を俯けながら、そうだね、と呟く。眉間に皴を寄せて、口を閉ざすその様子は、どこか悩んでいるように見えた。刑務所長がじっと待つ中、ようやく開いた男の口は、薄笑いを浮かべている。
「罰、でもあるが、僕の役目であり人生、という側面の方が強いかな。長い刑期を経ても、信念を変えることは出来なかった。きっと死ぬまで変わらないんだ。だか、人を救う手段は変えることができる。ここからは、メスを握れたとしても救えない、人の心を救う道を歩むよ」
男は満足げに、首を縦に細かく何度も振る。これは男が、刑務所に収容される前から考えていたこと。かつてと肩書が異なろうとも、かつてのように外科的治療ができずとも、苦しむ人を救うことのできる道が残っているのならば、その道を歩めばいいと。
男の様子を見ながら、なぜか刑務所長も納得したように、うんうんと頷く。
「やはり私の判断は、間違っていなかった」
ボソッと零れたその言葉は、男の耳には届かなかった。だが、何かを口にしたことには気づくと、男は首を傾げて問いかける。
「この恩赦は、恩返しになったでしょうか?」
「……っ!まさか」
言葉の意味を察し、男は驚きの声を上げる。その反応に、刑務所長は控えめにハハッと笑いながら、片手を胸の前で左右に振った。
「手心を加えたつもりはありません。先生のことを調べ、改悛されたと判断したので、恩赦が下るように尽力したまでのこと。恩返しなどと大それたことを言いましたが、この状況は起こるべくして起こったのだと、私は考えています」
「……どういうことかな?」
先程までの笑いはどこへやら。刑務所長は、キリリと目に力を籠め、厳格な顔つきで男を見据える。
「私は、先生の本を読んで、刑務官を志しました。私から見れば、命の恩人である先生の行動は正義ですが、見る人の立場によっては、不義であり、罪となる。先生が再犯せずに新たな正義を行えるように手助けしたい、可能であれば会って感謝を伝えたい、そう思ったのです。私は刑務官になり、時を経て刑務所長に就任して、先生の恩赦に携わることができました。これは、先生が私達家族を救い、本を出版し、長期間罪と向き合って心を入れ替えたからです。そうでなければ、こうして先生に会うことは叶いませんでした」
「それは……さすがに私論が過ぎないかい?僕が何もせずとも、君のドナーは見つかっていたかもしれないだろう?」
「可能性は否定しませんが、逮捕前にご自身が何をされたか、憶えているのではないですか?それは変えることのできない過去であり、そして先生と私が今ここにいるという現在がある。これを”巡り合わせ”とは言えないでしょうか?」
刑務所長は、晴やかだが控えめな笑みを浮かべる。発言に自信を見せるその顔で、男は自身の過去を思い出し、そしてかつては少年だった刑務所長の人生を想像する。二つの映像は繋ごうと思えば繋ぐことができる、そう思った瞬間、男は息を呑み、ある言葉を口にした。
「これも、報いなのか……」
それは男が、かつて父親に言われた言葉。男の行動は、殺人という悪行と決定され、期限の無い服役という報いを与えられて閉じられた。だがその裏には、人を救うという善行の積み重ねと、救った人々によって男の情状酌量が求められるという報いもあった。まさかその報いに続きがあったとは、想像もしていなかっただろう。
呆然と立ち尽くす男。刑務所長は、その姿をしばらく眺めていたが、話したいことを言い終えたのだろう、不意に腕時計を一瞥した。
「些か話し過ぎましたね。ご家族がお待ちなのでしょう?お時間を取らせてしまい、申し訳ありませんでした」
声掛けに男はハッとして、下がり気味だった頭を上げる。真正面では、刑務所長がスッと背筋を伸ばし、両手の中指をスーツの縫い目に合わせていた。
「先生のご支援のお蔭で、私は母と幸せな時間を過ごすことができました。本当に、ありがとうございました。どうか残りの人生は、再びここに来ること無く、ご家族と幸せに過ごしてください」
「……あぁ。ありがとう。君に会えて、本当によかったよ」
刑務所長は深々と頭を下げると、男も同じように礼をする。男が頭を上げた頃、刑務所長はドアを背に立ち止まっていた。彼は潤む瞳を男に向け、失礼します、と会釈をすると、背を向けて目元を拭ってから、部屋を後にした。
次話が最終話となります。
最終話は明日、投稿します。




