第74話
出所の手続を無事に終えた男は、刑務所の門の手前で足を止めると、付き添いの刑務官に一礼する。見上げるほど高い塀の一部に備え付けられた、低く狭い鉄製の門扉が開かれ、そこから外に足を踏み出すと、すぐにカチャンッと金属音が後ろで響いた。振り返ると、寸刻前に通った門扉は閉じられている。先程の音は、もう戻って来るなという挨拶のようだった。
男は、進むべき方向に体を向ける。すると、遠くに人が立っているのが見えた。その数は四人。
「あ……」
男は声を漏らすと、集団に向かって歩き始めた。最初は、朧気な相手の正体を確認しながらゆっくりと歩を進め、集団の一人が男の方にぽとぽとと向かってくると、長い脚を活かして歩調を速めた。喜寿に迫る年齢の脚では、さほど速くは歩けない。それでも、相手もショートボブの髪をふわふわと揺らしながら向かってくると、着実に距離は縮まっていく。
「あなた!」
「玲良さん!」
表情がはっきりとわかるまで近づくと、ぶつかる手前で同時に足を止める二人。言葉を交わすことなく抱き合うと、二人の間の隙間を埋めるように、固く、強く、互いを引き寄せた。男の頬を伝う涙は、雨粒のように玲良の頭へと落ち、玲良の涙は、男のジャケットへと染み込む。
「おかえりなさい……」
「ただいま……本当にごめんなさい。ずっと苦労を掛けて……」
抱き合いながら、啜り泣く二人。今この瞬間は、感動の再会を二人だけで。男と玲良の気持ちと、それ以外の面々の気遣いが一致したのか、二人と三人の間には数メートルの距離ができた。
数分後、二人は腕の力を緩め、互いの体を解放する。玲良は涙の跡を擦って消すと、男を見上げて温かい笑みを見せた。
「颯毅君と雅綺さんも来てくれたのよ?行きましょう」
玲良は男の横に並び、そっと腰に手を当てて、進むようにと手で軽く押す。男も玲良の背中に手を回し、隣を歩くように誘った。
三人の集団は、二人が横並びで立ち、一人は距離を取るように後ろに立っていた。男はまず、横並びで立つ男女のうち、男性の前に立つ。
「久しぶりだね。まさか、さっちゃんが来てくれるとは思わなかったよ。今は金髪なんだね」
「こっちはお前の坊主を見て笑ってやろうと思ってたのに、意外と髪伸びてんのな」
颯毅は、ククッと意地悪そうに笑った。その笑いに釣られたのか、男も肩を震わせて笑い出す。二人の笑い合いは、颯毅の隣から、くすりと一笑が聞こえるまで続いた。男がそちらに頭を向けると、セミロングヘアの女性がこちらを見ている。男は体も女性の方に向けると、久しぶりだね、と声を掛けた。
「雅綺も、来てくれてありがとう。そして、僕を雇ってくれたことにも、感謝するよ。君のお蔭で、僕はまた人を救うことができるんだ」
「いえ、むしろ手を貸していただけて助かります。あの施設は、兄さんの考えに共感し、昔の私のような経験をする人を少しでも減らしたいと思って、立ち上げたのです。毎日、救いを求めて来る方は絶えません。私達と共に、皆さんを救ってください」
お手本のような美しい最敬礼をする雅綺。男は慌てて彼女の肩を起こし、自分が頭を下げて、よろしく、と伝えた。
「ねぇ、あなた。あの子とも、話してあげて?」
男の耳に、穏やかな囁きが入ってくる。言葉の意味を瞬時に理解した男は、上げた頭を一人ぽつんと立つ女性の方に向けた。女性は、男が自分を見ているとわかると、サッと顔を俯ける。その反応に、男は一瞬眉を顰めた。
男は、颯毅と雅綺に会釈をすると、一人で女性の方へと歩いていく。1メートルほどの距離まで近づくと、男は歩みを止めた。正面には、白磁のような美しい肌を持ち、切れ長だが決して細くはない聡明な印象の目を男に向ける、壮年の女性。
「初めまして。神無幸祈さん、ですね?」
「……はい」
男の問いかけに、口籠りながらも返事をする幸祈。反応してくれたことが嬉しかったのか、男は僅かに口角を上げた。
「あなたがくれた絵や手紙が、生きる励みになりました。本当に、ありがとうございます」
深々と頭を下げる男。その頭を不安そうな目で見つめる幸祈は、両手で持つハンドバッグの柄をギュッと握り、伏せたままの頭に向けて、ぽとりと言葉を落とす。
「……お父さん」
思いがけない一言に、急に頭を上げた男は、口がポカンと開いていた。再び幸祈と対面すると、唇を噛み締め、首を横に何度も振る。
「無理に呼ばなくてもいいんだ。僕は父親らしいことを、何一つできなかったのだから」
「あら、そんなことないわよ?」
男が声のした方向に頭を向けると、玲良が立っていた。いつの間にか男の隣にいて、そっと背中に手を添える。
「幸祈、あれを見せてあげて?」
頷いた幸祈は、持っていたハンドバッグの中から、一冊の本を取り出した。縒れや小さな破れはあるが、日焼けやシミといった変色は無い。大切に読まれてきたであろう乳白色の本は、文字だけが並ぶ表紙に、”著者・廻神祐毅”と書かれていた。
「玲良さん、話したんですか?」
玲良は、眉を顰めながら小さく頷いた。口元では困ったような笑みを浮かべながら、男にだけ聞こえる音量で、ごめんなさいね、と口にする。
「最初は、お父さんは遠いところにいると言い聞かせていたのだけれど、いつか気づいてしまうものなのよ。だから、本のことだけでなく、私達が知るあなたを全て話したわ。お義父さんが、子供の頃のあなたの写真を見つけてくれて、入院していた頃のあなたを、雅綺さんが教えてくれた。学生時代のあなたを颯毅君が、医者になってから今日までのあなたを、私が教えたの。どうして刑務所にいるのかも、全部ね」
男はハッと息を呑み、すかさず幸祈に頭を向ける。彼女は、浮かない顔をしてはいるが、男から目を背けることは無かった。
「だったら尚更、僕のことを父親と認めたくないだろう?」
「あなた、この子が何歳だと思ってるの?さすがに、最初は色々あったけれど、話し合う時間も、考える時間も、たくさんあったわ。それに、ここに来ることを選んだのは、幸祈なのよ?」
男の頭の向きは、玲良と幸祈を行ったり来たり。明らかに狼狽えている。その姿を見て微笑む玲良と表情を変えない幸祈。どうしたら良いのだと下を向く男に、今度は幸祈から話しかけた。
「私は今、神明大学病院で医者をしています」
またすぐに男は頭を起こした。開きっぱなしの口は、今日は驚きが止まないのかと思えてしまうくらい、塞がる気配が無い。
「お父さんみたいに、なりたかったんです。苦しんでいる人に手を差し伸べられる、強くて優しい人に。もちろん、法律の範囲内で……」
真剣な表情でそう話し、最後ははにかみながら顔を俯ける幸祈。彼女の話を呆然と聞いていた男は、急に玲良の方に頭を向けた。
「玲良さん。事件の話、美談にしてません?じゃなきゃ、こんないい子に育つはずが……」
「ちゃんと話したわよ。この子なりに、たくさん悩んで、しっかり受け止めたの」
再び男は幸祈の方に向く。口元に微笑を浮かべる彼女は、しっかりと頷いた。
「私一人で育てたんじゃない、皆で大切に育てたの。お義父さんも、二人も、協力してくれたわ」
二人、という言葉に、男はすぐに振り向いた。向いた先では、颯毅がしたり顔で、雅綺がにっこりと笑っている。
「それにね?」
言葉は、なぜか途切れた。慌ただしく向きが変わる男の頭が玲良に向くと、彼女は待っていたかのように口を開く。
「あなたが紡いできた人生も、この子を育てたのよ」
男は、返す言葉を見つけられなかった。父親と呼ばれる資格は無いと考えていた男にとって、その言葉はあまりに想定外で、心に深く突き刺さる。
娘がこの世に生を受けてから現在まで、ただの一度も側にいられず、世間的な立場は犯罪者。父親らしい行いと言えば、自著の印税の一部を養育費として渡したことだけ。”金を払っただけで父親”と、かつて己の父親に抱いた感情が頭を過り、縁を切られても仕方がないとまで考えていた。だが、妻や友人と共に過ごした時間や自らの半生を記した本が、男の人柄や思想を娘に伝え、成長に影響を与えていたのだ。
男は突然、肩を震わせ、ゆっくりと下を向く。男が驚いた要因は、自身の骨ばった手を優しく握る、一回り小さい手だった。
「お父さん……ずっと、会いたかった……」
震える声を耳にし、男が頭を上げると、目に涙を蓄えた幸祈が男を見ていた。男は慌てて彼女に体を向け、空いている手を彼女に伸ばす。だが、その手は幸祈に触れることなく空中で止まり、力なく落ちていった。
「会いに来てくれた時はとても驚いたけれど、本当は嬉しかった。でも、あの塀の中にいたのは、君の父親じゃない。あの姿を、君に見せたくなかったんだ」
眉根を寄せ、理解を求めるように首を傾ける。静かに男を見つめ返す幸祈。彼女の回答は、瞳から零れ落ちる涙から始まった。
「私にとっては……どっちもお父さんだよ……」
幸祈は一歩近寄り、男の肩に額をこつんと当てる。そこで男は、自身の行いを顧みた。父親が犯罪者だと知るだけでも、娘にとっては大きな衝撃。その上で実見すれば、彼女に与える影響は想像するに余りある。ならば顔を知らぬ方が娘の幸せ、と男は考えていた。そこに、この地に娘を踏み入れさせたくないという思いも重なる。だが、それは娘の意思や感情を無視した行い。彼女はいつまでも子供ではないと、ようやく理解した。加えて、玲良を長い間、二人の間という辛い立場に立たせていたのだと、今になって気付く。
男は、少しずつ玲良の方に頭を向ける。二人に対する申し訳なさで深まった眉間の皴、真一文字に結ばれた口。男の感情を悟った玲良は、彼を後押しするように、ゆっくりと深く頷く。玲良の頷きに、男は口元だけで笑みを返すと、幸祈の手を離さぬようにギュッと握り、空いている手で彼女の頭をそっと包み込んだ。
「ごめん……ずっと寂しい思いや、辛い思いをさせて、本当にごめん……」
幸祈の頭に頬を寄せ、謝罪を繰り返す男。瞬間、男の頬に陽の光が当たると、煌めきが流れ落ちていく。
「元気に産まれてくれて……お父さんと呼んでくれて……本当にありがとう」
二人は手を握り合ったまま、男は幸祈の肩を強く抱きしめ、幸祈は男の背中に手を回し、ジャケットをギュッと握りしめた。
長い時を経て、感動の初体面を果たした親子。この瞬間がどれほど大切か、重々理解している三人は、二人が満ち足りるまで温かく見守った。
涙の対面を終えた五人は、ぞろぞろと、刑務所の敷地外に向けて歩き出す。久々の外の世界へ踏み出す男に、これから何をしたいかと玲良が問うと、皆が耳を澄ませた。
「出所が決まった時に、考えてみたよ。すぐに働きたい気持ちはあるけど、新婚旅行に行けなかったから、家族で旅行に行きたいな。アメリカに行って、野球を観戦してみたいんだ」
「お前、野球に興味あったっけ?」
「友人が見たいと言っていたことを思い出してから、少し興味が湧いてね。あぁ、でも、玲良さんや幸祈が行きたいところも聴きたいな」
そこからは、どこに旅行するかで話が弾む。同行するか不明な颯毅と雅綺も、あそこが良い、あの国に行ってみたいと、話を盛り上げた。皆が楽しげに話す中、男が遠慮がちに、でも、と口にすると、話し声はピタリと止む。
「まずは墓参りかな」
その言葉に、皆は頷いたり、微笑んだり、すぐに納得を示した。
「出所したことと……僕は今、幸せに生きているということを、家族に報告したい」
男は、皆に笑顔を見せた。それは、かつて男が得意としていた偽りの笑みではなく、心の奥底から溢れ出た、喜びの表情。その顔は見る者にも広がり、男の周囲は喜色に満ちる。
男はもう、独りではない。皆と共に外の世界へ踏み出したその一歩は、家族と一緒に人を救う人生への、新たな一歩である。
『アスクレピオスに聞き糺せ』を最終話まで読んでくださり、ありがとうございます。
初めて書く小説だったため、設定の作り込みが甘かったり、頭に浮かんだイメージを文章化するのに長考したり、自分でも想像していた以上に完結まで時間がかかってしまいました。
継続して読んでくださった方々(いなかったかもしれませんが)を長い時間お待たせしてしまい、大変申し訳ございませんでした。
ですが、皆様が読んでくださっていることが励みとなり、無事に完結させることができました。ひたすら感謝しかありません!
ゼロから物語を考えることは、とても大変でした。ですがそれ以上に、とても楽しかったです。悩んでいる最中、突然セリフや展開を思いついた時の爽快感は、日常生活ではなかなか得られないものだと感じました。
この物語はここで終わりですが、これからも小説は書き続けるつもりです。ただ、今作があまりに無知識で着手してしまったので、もう少し小説の書き方を勉強してから、構想を練って書き出したいと思っています。いつになるかわかりませんが、新作を投稿した際には、ぜひ読んでいただけますと嬉しいです。
最後に改めて。
お忙しい中読んでくださいまして、本当に、本当に、ありがとうございました!!
冴樂 紅
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2026/7/29 最後のセリフを少しだけ変えました。
(他エピソードは誤字脱字の修正だけなので、後書きでの報告は行っていません)




