第72話
祐毅が刑務所に収容されてから、世の中にはある変化が起こる。それは、特定の数値の著しい増加。臓器移植ネットワークや骨髄バンクへの登録者数、献血者数といった善意の数。悩み相談窓口への相談件数、精神科・心療内科の受診者数などの苦悶の数。そして、行方不明者数や自殺者数といった失意の数。報道番組では、これらの数値が取り上げられ、事件との関連性が専門家によって話し合われる。その度に事件の概要が説明され、悩める者に向けて相談窓口が紹介されると、再び数値が増加した。もちろん、事件と数字の因果関係が科学的に証明されていたわけではない。だが、”可能性はある”と含みを持たせる専門家達の物言いが、世間に影響を与えていた。ネガティブな数値の増加を受け、次第に報道は自粛。こうして、事件も数値の動向も、世間の耳目を集める機会を失くしていった。
世間が事件を忘れても、決して忘れない人もいる。その一人が、玲良だ。彼女は、毎月欠かさず祐毅の面会に訪れた。“月に1度は会いに来る“と、かつて二人が交わした約束は、立場が入れ替わっても守られている。
崇志も同様に、毎月面会に訪れては、刑務所から出ることの出来ない彼に、家族の近況を詳細に伝える。対面する二人からは、時折笑顔が見られ、まるで親子としての時間を取り戻したかのようだった。そんな崇志は、晩年を小夜子と過ごしたが、婚姻関係を結ぶことは無かった。祐毅に財産を遺すと決め、小夜子も崇志の気持ちを支持。彼女と余生を共にしながら、一縷の望みを捨てずに息子の出所を待ち続ける。だが、親子が塀の外で会うことは、終に叶わなかった。
祐毅が収容されてから数年後、厚生労働大臣だった池神は、総裁選に出馬する。国民のために粉骨砕身働くと宣言し、齢70を超えた体で精力的に広報活動を行い、他候補と拮抗した選挙戦を繰り広げた。そんな中、とある動画がSNSに投稿されると、均衡は一気に崩れる。それは、”Epi-dem”と名乗る投稿者による、”I大臣の悪代官振り”と題された、黒塗りの画像の裏で二つの音声が流れる動画。一つは拒む相手に身体的接触を強要する音声で、もう一つは新薬の承認に便宜を図る見返りに金を受け取る音声。一部加工が施されているが、二つの音声に共通する特定の声だけは未加工。その声の主が池神ではないかと誰かがSNSに書き込むやいなや、動画は瞬く間に拡散された。池神は、事実無根であり、他候補によると誹謗中傷だと訴えたが、過去の悪評までもが蒸し返され、彼が置かれた立場は悪化の一途を辿る。結果、総裁選は敗戦、閣僚に選出されることもなかった。その後も止まぬ批判の嵐から逃れるように、体調不良を訴えて入院。それ以降、池神の名が世間の目に晒されることは無かった。
時は大きく流れ、時代が変わった、ある春の日。刑務所内の一室では、一人の男が出所の準備を整えていた。肩幅の余ったスーツ、だらんと弛んだ腕時計のベルト。長年の刑務作業で体格が変化したことは、誰が見ても明らかだった。
部屋の中には、男の他に刑務官が二人。その場に突如、コンコン、とノック音が響く。すぐにドアは開き、スーツの男性が入室してきた。その顔を見て、三人に緊張が走る。
「所長……なぜ、こちらに……」
刑務官の一人がすぐに側まで寄り、声をかけた。入室してきたのは、刑務官らにとっては上司であり、男にとっては最も恐れる存在である、この刑務所の最高責任者、刑務所長。
「すまないが、少し外してくれるか?」
不思議そうに顔を見合わせながらも、刑務官二人は退出していった。ドアが閉まるまで見届けると、刑務所長は男に向き直る。
キリリとした太い眉、鋭い眼光、広い肩幅。厳格さと貫禄を醸し出すその姿に、男は眉間に皴を寄せた。
「突然のことで驚かせてしまい、申し訳ありません。ですがどうしても、最後に先生と話がしたかったのです」
声は意外にも、柔らかだった。今まで姿を数える程度しか見たことのない刑務所長の声を初めて聞き、しかも自分に話があると言う。加えて、意味深長な物言いに、男は眉間の皴は、驚きと疑心でさらに深くなる。
「僕はもう、先生と呼ばれる資格を持っていませんよ」
丁寧に断りを入れると、刑務所長はなぜか微笑んだ。そして次に、ネクタイを緩め始め、上から順にワイシャツのボタンを外していく。不可解な行動に、男は無意識に一歩後ろへ体を逃がした。僅かな恐れを匂わせる男の行動に構うことなく、刑務所長は襟元を開けながら、男に話しかける。
「私の母は、”こころの休憩所”という電話相談窓口で働いていました」
開けた襟元からは、胸の中心を通る白く細い線が、顔を覗かせた。男は、刑務所長の言動から得られた情報を元に、自身の記憶を探る。検索にかかった時間は五秒ほど。男は突然ハッと息を呑み、だがすぐに口元を緩めた。
「そうか。君が、廻神祐毅の最後の患者か」




