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アスクレピオスに聞き糺せ  作者: 冴樂 紅


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第69話

 弁護(べんご)(がわ)の証拠調べが終わると、被告人(ひこくにん)質問(しつもん)(おこな)われた。今回の裁判は裁判員(さいばんいん)裁判(さいばん)ということもあり、まず脳死の前提に関して、被告人への質問という形で説明された。

 脳死。それは脳全体の機能が失われた状態を言う。植物(しょくぶつ)状態(じょうたい)と違って回復する見込みはなく、人工(じんこう)呼吸器(こきゅうき)などで延命(えんめい)治療(ちりょう)(ほどこ)さなければ、いずれ心臓も停止する。日本では、患者(かんじゃ)本人(ほんにん)の意思表示や家族の承諾(しょうだく)によって臓器提供を行うと判断した場合に限り、法的(ほうてき)脳死(のうし)判定(はんてい)を行い、患者を脳死、つまり死亡したと判定して臓器提供が行われる。

 法的脳死判定の方法は、厚生(こうせい)労働省(ろうどうしょう)によって(さだ)められている。決められた判定項目を、資格を(ゆう)する判定医(はんてい)二名(にめい)以上(いじょう)で判定すること。6時間以上の間隔(かんかく)()け、二回判定を行うこと。そして、二回の判定とも項目を()たした場合、二回目の判定終了時刻を死亡時刻とし、患者が死亡したと見做(みな)す、としている。

 この他に、臓器提供を前提としない臨床的(りんしょうてき)脳死判定という判定方法もある。これは、医者が治療方針を決定するために、患者が脳死になっている可能性が高いかどうかを判断するために行う判定。自発(じはつ)呼吸(こきゅう)有無(うむ)、という項目以外は法的脳死判定と同じ項目の判定を行う。この判定で脳死と判断されても、臓器提供は行われない。必ず本人の意思表示の確認や家族の承諾を得て、法的脳死判定を行った(のち)に臓器提供が行われる。


 説明が終わると、続けて犯行(はんこう)の手順に関する質問が、特に被害者と接触(せっしょく)してからの行動に焦点(しょうてん)を当てて問われた。


「自殺を思い(とど)まるように説得して、それに(おう)じなかった被害者が、自殺を(はか)る前に麻酔(ますい)を打ちます。眠らせてクリニックに連れ帰り、(しばら)くの間は睡眠(すいみん)状態(じょうたい)維持(いじ)時機(じき)を見て、被害者が脳死状態になるように、道具を(もち)いて脳に傷害(しょうがい)(あた)えます。これは、被害者をあらゆる苦痛(くつう)から解放(かいほう)するための処置です。その()、脳死の兆候(ちょうこう)が見られたら、判定医は僕しかいませんが、脳死判定を実施。一回の判定で項目を満たしたら、二回目の判定は行わずに、被害者を移動させます。病院の近くまで運び、人気(ひとけ)のない場所に置いて、救急(きゅうきゅう)通報(つうほう)をしてから立ち去る。というのが、一連の流れです」


 この回答から御武(おんたけ)は、祐毅(ゆうき)()かった嫌疑(けんぎ)を順番に否定していく。

 まず、脳死判定が被告人(ひこくにん)一人(ひとり)によって一回しか行われていないのであれば、被害者が(いた)った状態は法的そして臨床的にも脳死とは言えず、被告人が被害者を置き去った後に第三者(だいさんしゃ)が被害者に傷害を加えて脳死状態に至った可能性も(いな)めない、と主張した。

 また、被害者が法的に亡くなったとされるのは、二回目の脳死判定が終わった時。脳死判定が被告人の行為の延長線(えんちょうせん)(じょう)に行われた出来事だとしても、法的に死亡したと見做(みな)したことを、被告人による殺人と()()えることは不当(ふとう)である、と主張。ただ、法的脳死判定をしていない被害者が、延命治療の甲斐(かい)(むな)しく亡くなってしまった場合は、第三者の介在(かいざい)がないと証明できた場合に(かぎ)り、傷害(しょうがい)致死(ちし)該当(がいとう)する可能性はある、と(つみ)(おか)していることは(みと)めた。

 さらに、本当に殺意(さつい)があったならば、その場で殺害(さつがい)するはずであるとし、自殺を思い留まるよう説得したこと、麻酔を打って連れ去ったこと、被害者を置き去りにする際に救急車を呼んだことは、殺意ある者が取る行動ではない、と説明。(くわ)えて、説得に応じなかった被害者だけを脳死状態にしたことも、(くる)しみに()えかねた彼等を精神的(せいしんてき)肉体的(にくたいてき)苦痛(くつう)から解放する目的があったとして、改めて殺意を否定した。


 これに対して、検察側(けんさつがわ)異議(いぎ)(とな)えた。(かり)に明確な殺意が無かったとしても、その行動には未必的(みひつてき)殺意(さつい)があったと主張する。未必的殺意とは、相手が死亡することを(かなら)ずしも意図(いと)していないが、死亡の可能性を認識しながらに行為を行う、”結果的に被害者が死亡しても(かま)わない”という心理状態を()す。医者であれば、脳死状態になった被害者がいずれ死亡することは予見(よけん)でき、また、脳という生命(せいめい)維持(いじ)中枢(ちゅうすう)器官(きかん)に傷害を加えれば、被害者が死亡もしくは重篤(じゅうとく)な状態に(おちい)ることは容易(ようい)に想像できたと反論(はんろん)。このことから、故意(こい)に脳に傷害を加える行為は、被告人は被害者が死亡する可能性を認識していた、と(ろん)じた。


 この”脳に傷害を加えた”ことに対する検察側の見解(けんかい)に、今度は弁護側が物申(ものもう)す。

 人間の脳とは複雑(ふくざつ)で、(いま)だ解明されていない部分が多いため、確実に脳死状態に至らしめる方法や条件が存在するとは断言できない。凶器(きょうき)製作(せいさく)した祐毅に質問しても、必ずしも脳死状態にできるという確信(かくしん)は持っておらず、偶然(ぐうぜん)起こることを(いの)っていた、と言う。実際、脳死状態に至るまでの時間は被害者(ごと)(ちが)い、軽症(けいしょう)が発生した(のち)に症状が進行して脳死状態に至った被害者もいた、と話した。

 凶器については、検察側・弁護側双方(そうほう)の専門家も”脳死状態を引き起こす可能性はある”と意見を一部(いちぶ)一致(いっち)させていた。だが一方(いっぽう)で、死亡させる可能性もあったとする検察側と、引き起こす可能性のある症状は軽症から重症(じゅうしょう)まで予測できないとする弁護側で、意見が分かれる。

 それぞれの意見を検証(けんしょう)することは、(きわ)めて(むずか)しい。死亡もしくは脳死状態に至らせる可能性のある凶器を、人体(じんたい)で検証することは出来ないからだ。仮にシミュレーションが出来たとしても、脳の構造(こうぞう)は人によって細部(さいぶ)個人差(こじんさ)があるため、(ひと)つの事象(じしょう)のみを連続(れんぞく)して確実(かくじつ)に発生させるということは、不可能(ふかのう)(ちか)い。

 つまり、死亡する可能性も、脳死状態になる可能性も、軽症になる可能性も、(すべ)ては確率であって、確実ではないということ。殺傷(さっしょう)能力(のうりょく)が高いと断定(だんてい)できないのであれば、凶器から殺意を推認(すいにん)するのは不当(ふとう)である、と反論した。


 殺意があったか、そうでないか。これがどちらに(ころ)ぶかで、祐毅の刑罰(けいばつ)は大きく変わる。難しいとわかっていても御武は、あらゆる方面(ほうめん)から殺意や殺人の嫌疑を(くず)そうと、弁論(べんろん)()くした。

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