第63話
待ち合わせ場所に着いた祐毅は、一枚の扉の前で立ち尽くしていた。黒いフレームの扉が重厚だからというだけでなく、決まりきらぬ覚悟のせいでドアノブに手が伸びない。だが、ここまで来て帰るわけにもいかないし、会うと承知してしまった。約束を反故にすれば、誰にどんな文句を言われるものか。いや、今更文句など気にしたとて。などと悶々としながら固まっていると、扉が勝手に開いた。
ゆっくりと開いていく扉。その中からひょっこりと出てきたのは、オレンジブラウンに染まった人頭。それを見下ろす祐毅は、正体に気づいてギョッとし、一歩後ろに距離を取った。彼の動きを追うように揺れるロングヘア。少しずつ頭が上へと向くにつれ、髪は後ろへと流れていき、白磁のような肌が見えてきた。
切れ長の目とパッチリとした二重、二つの視線が交差する。いつもは目を離さずに笑顔で挨拶を交わす二人だが、今日も、とはいかなかった。目が合って一秒と経たずに祐毅は視線を外し、唇をキュッと結ぶ。背けられた相手は、彼の顔を黙って見つめるが、自然と潤んできた目を隠すように顔を俯けた。一拍置き、上がって来た顔は、店で見る華麗さとは異なる、素顔に近いメイクが施されている。だが、彼に向けられる優しい笑顔は、普段と何ら変わりはなかった。
「いつも通り、5分前行動ね」
聞き覚えのある声は、いつにも増して明るかった。元気な時とは質の違う明るさに気づいた祐毅は、様子を伺うようにゆっくりと顔を正面に戻す。笑顔と目が合っても、祐毅の顔に笑みは浮かばなかった。
「ご無沙汰してます、レイラさん……」
ハッキリと挨拶を口にするが、その声は普段より覇気がない。彼女に諦めさせるにはどうするべきか、妙案は未だ浮かばぬが、最早背を向けられる状況ではない。祐毅は迷いと不安を抱えたまま、レイラに導かれて「クラブ Sanatio」の店内へと入っていった。
VIPルームに入室した二人は、コの字の角を間にして、斜め45度の位置関係に座る。体は正面に向けながら前傾姿勢を取り、浮かぬ顔を俯ける祐毅。対して、似たような表情を浮かべるが、彼に体を向けて座るレイラ。どれほど見つめても、目を合わせる気も話す気も無さそうだと察すると、先に話し始める。
「御武君からは、祐毅君が望んでないから保釈は請求できないって言われたのだけれど、どうして保釈されたの?」
祐毅の肩が、ピクッと震える。この質問は、まるで自分の思い通りに事が運んでいないことを指摘されているようで、彼にとっては恥ずかしい内容だった。目をキョロキョロと泳がせ、頬をポリポリと掻き始める。
「それは、その……僕の意思とは関係なく請求されて……」
「一体、誰が出してくれたの?」
ぼそぼそと答える合間に、レイラにチラチラと目を向けると、純粋な瞳で祐毅を見つめていた。
彼女は、単に疑問を持っただけ。自分にはどうすることもできず、祐毅にはその意思が無かったはずなのに、彼はなぜかここにいる。誰のお蔭で再会できたのか、知りたいのだ。
うーんと頭を抱え、悩みに悩んだ祐毅は、こう答える。
「……元理事長」
しんっと静まり返る室内。だったが、レイラが突然、プッと吹き出した。
「お父さんって呼びたくないのはわかるけど……元理事長って、あなたもじゃない」
クスクスと笑う彼女を見て、祐毅はムッとする。父と呼びたくないことを知っているのに、わざわざ揚げ足を取られたことが、面白くなかったようだ。だが、彼女の笑い顔を見つめていると、祐毅のへの字に曲がった唇は、次第に元の形へ戻っていく。今し方会った崇志は昔の彼ではなくなっていたし、電話口で泣いていたレイラが今は笑っているのだから、揚げ足など些細なことか、と。そう思った彼の表情は穏やかになった。
「あの人が自分で保釈請求をしたそうです。レイラさんの電話に出るまで、二人で話をしていました」
その言葉を聞いてレイラは、えっ、と目を丸くする。彼女は、崇志が変貌を遂げたことを知らず、祐毅が彼をどれだけ憎んでいたかを知っている。驚くのは当然の反応だった。
「今は小夜ママと一緒に暮らしているそうです。二人は昔から、周囲には内緒で付き合っていたらしく、ようやく一緒になれて幸せだと言っていました。でも、それと同時に、過去の過ちに気づいたので、償いのために僕を保釈したと」
要点を掻い摘んだ祐毅の説明。それを聞くレイラは、真ん丸の目はそのままに、ハッと息を呑んで両手で口を覆った。
「確かに、他のお客様より親しいと感じる時はあったわ。昔からの知り合いだからかと思っていたけれど、そういう仲だったなんて……」
「ちなみに子供もいます。歳は僕の一つ下です」
「えぇっ!!」
室内に響く驚愕の声と共に、レイラは勢いよく立ち上がった。初めて聞いたら驚きますよね、と祐毅は冷静な目で語る。その目が、見合うレイラに冷静さを与えたのか、彼女はトスッとソファーに腰を落とした。
「それって……二人は不倫関係で、小夜ママはシングルマザーで子供を育てていたってこと?」
祐毅は平然とした顔で、首を縦に振る。その顔になのか、その頷きになのか、とにかく自身との温度差を感じたレイラは、白けた目をして身を引き下げた。
「それは……全く知らなかったわ……そんな素振りは無かったもの」
「レイラさんと小夜ママが出会った頃には、もう家を出た後かもしれませんね。高校卒業と同時に家を出て行ったきり、連絡が取れなくなったそうです」
「音信不通ってこと?」
これまたスンとした表情で頷く祐毅。もうレイラも驚きに対して耐性が付いたのか、彼の顔に反応しなくなった。
「母親はホステスでシングルマザー。周囲から色眼鏡で見られ、母に相談しても仕事を変えてもらえない。現実に耐えかねて、家を出て行ったそうです。何年も連絡が付かず、生死不明の状態でしたが、僕の事件がきっかけで、小夜ママは彼女を見つけた」
「彼女?」
ここでの頷きは、今までで一番深かった。時間をかけて元の位置まで引き上げられた顔。目はキリッと力が入り、覚悟を決めるようにすぅっと大きく息を吸った。
「僕の秘書だった、真島つむぎさんが、小夜ママの娘です」
「……えっ?」
その一驚は、呟きに等しい声量。付けたはずの耐性を通り越した反応か、衝撃のあまり、彼女は固まってしまった。
「真島さん。本名は美住雅綺と言うのですが、あの人と小夜ママの間に産まれた子で、僕の異母兄弟です」
「祐毅君の、妹?」
「はい。以前彼女を紹介した時、秘書にスカウトしたのは知人に似ていたから、と話しましたね。本当は知人とわかっていてスカウトしました。彼女は昔、僕と同時期に入院していた子で、姉と仲が良かったんです。三人で兄弟、という設定で妹のように接していましたが、まさか実の妹とは考えもしませんでした」
幼少期の雅綺から別れ際の雅綺までを、走馬灯のように思い出した祐毅は、自嘲の笑みを浮かべる。妹の存在を想像するだけの要素は、十分にあった。雅綺が紬祈から移植を受けて完治したと仮定した時や崇志の不倫や依存症のことを知った時、さらには崇志と小夜子の関係を疑った時など。症状という現状からあらゆる病の可能性を想像する医者として、そして人として、想像力が足りなかったと嗤えてしまった。
「彼女は……祐毅君と兄妹だって知ってるの?」
「いえ、知りません。この話を知っているのは、恐らくあの人と小夜ママと僕くらいでしょう。雅綺に打ち明けるべきか、まだ悩んでいて……」
「えっ……じゃあ、どうして私に話してくれたの?」
レイラが小首を傾げるのも無理はない。それは当人にすら明かされていない、長年隠し通されてきた秘密。祐毅は、柔らかな笑みを見せてから答えを明かした。
「彼女は僕同様、姉からの移植で助かった子です。姉が救った命を死なせたくなかったし、姉も僕も実の妹のように思っていたので、この先どんなことがあっても生きていて欲しかった。だからレイラさんに彼女を気にかけてほしいとお願いしたんです。信頼する、あなただから頼みました。そして、実の妹と知ったことで、尚のこと幸せに生きてほしいと思った。なのでレイラさん」
祐毅は揃えた膝をレイラに向け、姿勢を正す。太ももの上にギュッと握った拳を乗せると、頭を下げた。
「改めて、雅綺が何か困っていたら、助けてあげてください。どうか、よろしくお願いします」
「それは、いいけど……」
頭を下げずとも、レイラがNoと言わないことはわかっていた。だが、兄という立場であり、厳刑が科される可能性のある立場の彼にとって、レイラは雅綺を頼める数少ない人物。誠心誠意頼み込むことが、雅綺のためにできる最大限の務めであると考えての行動だった。
戸惑いが滲む声で返答したレイラだが、頭を上げ切った祐毅の顔を見ると、何かを閃いたように、あっ、と呟く。
「じゃあ、今度は口約束じゃなくて、ちゃんと念書みたいな書類を交わしてもいいかしら?」
「えっ……そこまで、必要ですか?」
「必要よ。前は書面で明記しなかったから、月に一度っていう約束を忘れちゃったんじゃないかしら?」
痛いところを衝かれ、視線を泳がせる祐毅。彼の反応を見て微笑を浮かべながら、レイラは隣に置いてあるハンドバッグから、折り畳まれた紙を取り出す。四つ折りになっているそれを広げると、テーブルの上に置き、祐毅の前までスライドさせた。
白地に罫線がオレンジ色の記入欄が並ぶ書類。祐毅は左上の文字を見た瞬間、レイラに見開いた目を向けた。
「いや、待ってください。間違った書類を出してませんか?」
「いいえ、合ってるわ。これにサインして?」
祐毅は丸くなった目を、再び書類に落とす。記入欄のいくつかは、既に黒字で埋められていた。次に取るべき行動も、口にすべき言葉も、何も頭に浮かばず、レイラに視線を戻す祐毅。彼女は真剣な眼差しで見つめ返しながら、寸前の言葉を換言して述べた。
「私と、籍を入れてほしいの」
祐毅の目の前に提示された書類は、婚姻届だった。




