第64話
ドクンッ!
祐毅の全身に轟く鼓動。何かを訴えかけているのか、ただ驚いただけか。彼はその理由を考えるよりも先に、頭に浮かんだ言葉を発した。
「あなたバカですか!?」
「バカって何よ?!」
「だってそうでしょ!犯罪者の妻になりたいなんて、バカ以外に言い様がありますか?!」
怒鳴られた勢いで、似たような大声を返すレイラ。だが、先を上回る祐毅の怒号に、彼女は臆し、しょげた顔で俯いた。
瞬間的に感情のボルテージが上がってしまった祐毅は、肩で呼吸をしながら気持ちを落ち着ける。
「僕にはもう、金なんてありませんよ」
「目的はお金じゃない。私が欲しいのは、あなたを支えるための力なの」
「力?」
レイラは少々顔を強張らせながらも、その問いにはしっかりと答えるという意思を、深い頷きで見せた。
「あなたが逮捕された後、お金ならいくらでも払うから保釈してって御武君に頼んだけど、止められてるから出来ないって断られた。なら私がやるって言ったけど、知人という間柄では保釈請求はできないって返されて。色々調べたら、保釈だけじゃなくて、面会すらできないそうね。それを知った時、あなたに言われた言葉を痛感したわ。私達の関係は、ただの客とホステスだってことを。いくらお金があっても、助けたいと強く願っても、他人の私には何もできない。あなたに会うには、これからも支えるためには、家族という立場が必要なの」
淡々と話すレイラ。だが、当時感じたであろう苦しさや無力さが、瞳の潤いとして滲み出てきた。そんな彼女の瞳を注視しながら、祐毅は首を横に振る。
「犯罪者の妻になる必要なんてないんです。あなたはもっと、保身に走るべきだ」
「あなたは、そうじゃなかったでしょ?罪とわかっていても、誰かを救うことに人生を懸けて、世間に知られても逃げようとしなかった。誰にでもできる事じゃないわ。そんなあなただから、今まで支えてきたの。夢が叶うまで支えるって言ったこと、忘れちゃった?」
「もう支える必要なんてないんです。僕のことは忘れて」
「忘れられるわけないじゃない!」
話を途中で断つ、レイラの怒号。勢いに負けて、口も体も止まる祐毅だが、彼女の瞳から雫が零れると、視線だけが唯一動きを再開する。
「無理よ……あなたを忘れるなんて……」
一言発するたびに、一粒零れ落ちる涙。レイラはそれを拭おうとはせず、両手を膝の上でギュッと握ると、揺らめく瞳に祐毅を映し続けた。
「祐毅君に出会った日から今日まで、話した内容も、その時の表情も、全部記憶に焼き付いてる。あなたをお店で初めて見た瞬間に心惹かれて、それから毎日あなたの顔を思い出しては、次に会える日を楽しみに待ってた。話は難しい内容が多かったけど、患者さんのことを凄く真剣に考えていることが伝わってきて、その姿勢が眩しかったわ。それに、他のお客様と違って、店の子に愛嬌を振り撒かれても浮かれたりしないし、口説いたりしないところも素敵だった。ホステスが好きじゃないあなたに、どうしたら気に入ってもらえるか考えて、髪色を落ち着いたカラーにしたり、言葉遣いも気を付けたりした。でも、会って話して、あなたを知るにつれて、この人は人を救うことに一生懸命で、他のことには興味がないんだって気づいたの。好かれる努力をしても、無駄かもしれない。でもそれなら、あなたの計画を誰よりも近くで支える、一番の味方でいようって決めて、気持ちは伝えないことにしたわ」
話すことに向けられる意識の割合が高いためか、涙は穏やかに頬を伝っていく。だが、話の区切りをつけたところでその割合は急変する。短く息を吸った彼女は、下唇を噛み、祐毅のネクタイ辺りに視線を下げた。
「でも、出頭前に電話をもらった時、ものすごく後悔した。会えなくなるなんて想像もしてなかったから、こんなことになるならちゃんと伝えればよかったって……」
ポロポロと、勢いを増して落ちる涙。頬にできた道筋や手にできた斑点が照明に照らされて、時折光を放つ。その輝きは、彼女が秘め続けた気持ちの純粋さを表しているようだった。
あの時の後悔は、ここで晴らす。そう気合を入れるように大きく息を吸い込むと、両手で同時に頬を一掃し、煌めく瞳で祐毅を見つめた。
「祐毅君が……好きなの。出会った日からずっと……あなたを忘れるなんて、できないし、したくない……」
言葉を詰まらせながらも、長い間うちに秘めていた気持ちを口にするレイラ。嗚咽が混じりながらも最後まで言い終えると、両手で顔を覆いながら泣き崩れた。
彼女と目が合っているうちは、神妙な面持ちを崩さなかった祐毅。だが、相手の顔が見えなくなると、なぜか左胸を強く押さえながら、目を固く閉じて項垂れた。
「なんで、今なんだよ……」
ただただ小さな囁きは、自分の体に掛けた言葉。実際、正面ですすり泣いているレイラが、その言葉に反応を見せることは無かった。
眉を顰め、目を薄く開く祐毅。レイラの率直な気持ちを聴いた上で、自分はどうするべきなのか。悩む彼は、婚姻届を横目に見る。彼女の熱意と決意の証に注がれる視線。全てを確認するために動くはずだった視線は、ある一点に留まる。そこに記された事実を知った彼は、思わず目を見開き、ゆっくりと顔を上げた。
「あなたのことを大して知りもしない男のことが好きなんですか?本名すら知らない男を、夫にしたいと?」
彼女の体が、ピクッと小さく跳ねる。涙の跡を両手で消しながら、おもむろに顔を上げた。
「話していないのだから、知らなくて当然よ。御武君くらいしか知らないわ。正式な書類に、源氏名は使えないから」
赤みを帯びた眼で祐毅を一瞥すると、次は婚姻届に視線を向ける。
「この名前は、中性的であまり好きじゃなかったの。働く時に、もっと女性らしい名前にしたいと思って、漢字の別な読み方を源氏名にしたわ」
婚姻届の氏名欄、妻になる人の名は”玲良”と記載されていた。彼女はその字を見つめながら、苦笑いをする。
「私はずっと、あなたに嘘ばかりついてた。本当はね、自分のお店なんていらなかったの。初めて会った日にあなたが、もうお店には来ないなんて言うから、どうすればまた会えるのか、会い続けられるのかを必死に考えた。それで、協力者になるって提案をして、お店っていう金額の大きいものを要求して、あなたが何度もお店に来ないといけなくなるように仕向けたの。月に一度は来てって、色々理由を付けて約束させたけど、結局は私があなたに会いたいから、ただそれだけなの」
ごめんなさいね、そう祐毅の顔を見て話す彼女の微笑みからは、また一滴の涙が零れた。
一つ一つ本音を明かしていく彼女を、憂いに満ちた瞳で見つめる祐毅。素直に話し、そして謝罪した彼女の姿勢に何も抱かない男ではない。心苦しさが芽生えた彼は、静かに口を開く。
「嘘、と言うか、隠し事をしていたのは僕も同じです。僕の心臓は、虐待を受けて自殺した姉のもの。敢えて説明しませんでしたが、虐待を受けた子や自殺した子の臓器は、倫理的観点から親族には優先的に提供されないことになっています。本来移植されてはいけない心臓で生かされた僕は、生きてちゃいけないんです」
父に見限られた幼少期に抱いた疑問は、紆余曲折を経てこの結論に至った。だがこれは、彼の私論。颯毅や仁田、崇志と対話を重ねた彼の声には、最初に論じていた頃の力強さは残っていない。
「だったら、妹さんも生きてちゃいけないの?」
「えっ……」
彼女の切り返しに、祐毅は言葉を失う。今まで話した人達とは角度の違う反応に、即座に対応することができなかった。
「だってそうでしょ?あなたがいなかったら、妹さんも、他の人も、自殺していたかもしれないじゃない!その人達が生きてることは良くて、どうしてあなたが生きていることはいけないの?命が何よりも大切って言ってたじゃない。なんで自分だけ例外にするのよ!私にとっては……」
怒涛の勢いで攻め立てる彼女は、息継ぎを思い出したかのように話の途中で苦しそうに息を吸う。体内に入る酸素とは真逆に、体外に出される涙が再び頬を濡らしていく。
「私にとっては、誰よりも大切な命なの!」
感情の高ぶりに呼応して、涙は止めどなく溢れ出る。しゃくり上げ、拭い切れぬ涙ごと顔を覆う彼女は、話すことすら苦しいはずなのに、必死に訴えを続けた。
「お願いだから……生きてよ。死のうとしないで……」
まるで懇願するかのように泣き沈む彼女を、静かに見つめる祐毅。暗い表情を浮かべる彼は、彼女のこれまでの訴えに思いを巡らせていた。そして、ここに来る前にも、似たようなことを言われたなと、幾人かの顔と言葉を思い起こす。その全てが、彼にとってはイレギュラー。こうなるはずではなかった、どこを読み間違えたのかと思案した彼は、ある突飛な質問を投げかける。
「雅綺を紹介した時、僕と何かあると思わなかったんですか?」
問いかけられた彼女は、涙を拭いながら、不思議そうな顔を上げる。
泣き暮れる女性に聞く質問か。普段の彼女ならそう突っ込んだかもしれないが、そんな元気もなければ、己のむせび泣く声で全ては聞き取れなかった。
「僕達が深い仲だとか、僕が好意を持っているとか、そういう想像はしなかったんですか?」
「それは……全く思わなかったわけじゃ、ないけれど……だから質問したのよ?秘書にスカウトした理由を」
涙の名残が伺える、彼女の声音。しかし、突拍子もない質問のせいか、発言からは悲しみが僅かに薄れたように聞こえる。
「その答えが嘘だとは考えなかったんですか?」
「なんとなく、嘘ではないって思ったの。もし嘘でも、あなたも恋愛はするってことだから、頑張ったら好きになってもらえるかもって」
彼女の言葉、声色、表情を、祐毅は観察するように熟視する。対面する顔が、熱視線に耐えかねて目を逸らすと、彼は体勢を変え、ソファーに深く腰掛けた。背もたれに体を預け、天井を仰ぎ見ると、前髪を掻き上げながらフッと自嘲的に笑う。
「まったく……何処から読み違えていたんだか……」
そっと目を瞑り、瞼の裏で顧みる。この人なら、普通なら、その考えの下に彼は、ここまでいくつもの布石を打ってきた。最後に自分が孤立するように。だが、死ぬまで性格が変わらないと思っていた父親が、何度も突き放したはずの彼女が、寄り添おうと必死に訴えかけてくる。これまで見てきた彼等の表情や言葉が脳内で繰り返されると、思想の揺らぎは一層大きさを増していった。




