第60話
「そう思われても…仕方のないことをしてきたな、私は……」
テーブルに落ちた、崇志の視線。彼は目を細め、ぼんやりとした眼で過去を見つめ返す。窓の向こうで眠る、機械に繋がれた赤子。何も言い返えさずに黙って地べたに這いつくばる子供。記憶の大半は、その子を見下ろすだけのシチュエーションが繰り返された。唯一変化していたのは、体付き。時が進むにつれて雄偉な体格に成長していく息子に、今になって崇志は気づく。
「ずっと厳しく接してきて……すまなかった」
二人を包む静寂。崇志には、その静けさが怖かった。だが、顔を上げて様子を確かめることの方が恐ろしい。無意識にそう感じたのか、崇志の目線はテーブルに垂直に落ちる。
一方の祐毅は、再び窓の外に目を向けていた。何を見るわけでもない。ただ、視界に捉える必要のない人物から目を背けているだけ。この場にいることにもう意味などない、この先どうするべきかを考えようとしていた。
「健康に産んでやれず、本当にすまなかったっ…」
僅かに持ち上がる、祐毅の瞼。思考は、突然聞こえた言葉を、聞こえた通りに反芻し出す。
一言目の謝罪に、彼の心は全く動かなかった。厳しかったのは事実で、謝るのは当然で、しかしそれはもう何十年も前の話であって、彼の中では終わった事。だが、二言目の謝罪には、違和感を覚えた。そもそも病気とは、そのほとんどが唐突で、無作為で、確率的なもの。どれほど妊娠中の生活に注意を払っても、元気に産まれてくることを祈っても、何人にもどうすることもできないことがある。医者である崇志が、それを理解していないはずがない。なぜ無意味な謝罪を述べたのか、なぜ語尾を詰まらせたのか。頭の中に次々と湧き上がる疑問が、祐毅の顔をその発生源へと向かせた。
真正面には、テーブル擦れ擦れまで額を近づけた、崇志の姿。謝罪の姿勢なのかと、眉間に皴を寄せながら、祐毅はじっと見つめる。
「別に、あなたは悪くないでしょ」
端的で素っ気ない返し。それが耳に届いた崇志は、ピクリと肩を震わせる。そして、言葉をじっくりと噛み締める時間を作るように、緩やかな速度で上体を起こし始めた。久方振りに、視線を交わした二人。相手の目の周りがほんのり赤く染まっていることに気づくと、祐毅の瞼は大きく上に引き上げられ、眉間の皴はパッと消えた。
「本当にそう思うなら…お前も、自分のことを責めるのは止めなさい」
ドクンッ!
その一言は、祐毅の心臓を大きく鳴らした。今まで崇志から一度も聞いたことのない、穏やかで優しいその発言は、祐毅の心に轟く。
「仁田が、お前と話した内容を教えてくれた。報道されるよりも前に、お前が逮捕されると一報を寄越してな。どんな罪を犯し、その行動の裏にどんな思いを抱えていたのか。そして、お前が死ぬつもりだということも、話してくれた。だが私は、もう祐毅とは縁を切ったから関係ないと怒鳴って、あいつの助言を聞かなかった。報道後は家にマスコミが押し寄せ、うんざりしている中でもあいつは懲りずに何度も電話をしてきて、無視もした。仁田の話を真面目に考え始めたのは、警察が家宅捜索に来てからだ。お前の部屋を見て、驚いたよ。あまりにも物が無くて……警察は手ぶらで帰った。持っていけるものが、何一つなかったからな」
仁田は、祐毅と別れた後、このままでいいのかと悩んだ。突き放され、何もしなかった二つの過去。いつしか交わった結果、悲劇と後悔を齎した。自分が行動を起こしても、祐毅の書いたシナリオは変えられないかもしれない。だが、何かしなければ、結末は確定してしまう。過去の後悔を糧として、仁田は根気強く崇志を説得し続けた。その結果が今に繋がっている。
家具だけが残された子供部屋。まるで誰も使っていなかったかのように、息子の存在は一切感じられなかった。その光景を思い出し、崇志はフッと鼻で嗤う。恐らく、今まで数多の人間を嗤ってきた男は、初めて自分を嘲笑った。それも、眉を顰め、遠い目をしながら。
「お前が家を出て行って何年も経つのに、部屋の様子を気にしたこともなかった。それどころか、お前が一度も家に帰って来ていないことにも今更気づく始末だ。私は、ずっとお前達に背を向けていたんだと、ようやく理解したよ。だが、理解したところでどうしたらいいのかわからなかった。二度と会えなくなるかもしれないと仁田に言われはしたが、会えたとしてもどうすべきかと、困り果てた。そんな時だ。小夜子が背中を押してくれたのは。仁田との話を聞いていたらしく、私達は祐毅に謝罪と感謝を伝えるべきだと、教えてくれた。私達がどこかで思い留まっていれば、祐毅の運命は変わっていたかもしれないし、お前が見逃してくれなかったら、私達は一緒に暮らせなかったかもしれないと。それと私に、自分と雅綺のように喧嘩別れをして後悔してほしくないとも、言ってくれた。その言葉で、なぜか思い出したんだ。お前と最後に話した日のことを」
思い返した息子の姿。理事長室で、親子喧嘩のような会話を繰り広げたあの日。産まれる前に殺せばよかった、そう呟きながら静かに涙を流した祐毅。その姿は、今も鮮明に崇志の脳裏に焼き付いている。
「もっと早く、気づけたのにな……長い間、一人で苦しみ続けていたことに……お前が流した涙の意味を、よく考えるべきだった」
崇志の瞳から零れた雫は、頬を通ってテーブルへと、左右一粒ずつ落下する。すぐさま頬を拭い、呼吸を整えると、崇志は目に力を込めて祐毅を見据えた。
「お前が病気で産まれたことは、お前のせいではない。どれほど用心しても、予防しても、人間はある日突然病気に罹ってしまう。誰にも咎は無く、なす術のないことだったんだ。それに、紬祈が死んだのも、お前が病気だったからではない。私が紬祈を追い込んだからであり、紬祈の心臓をお前に移植すると決断したからだ。恨むなら、私だけを恨みなさい。怒りや憎しみの矛先を、自分に向けるんじゃない」
傲慢だと思っていた崇志から、初めて聞く謝罪と初めて見る涙。目の前の人物は他人の空似かとじっと見つめ返えしてはみたが、記憶にある崇志と差異がない。しかし、目線を下げると、その人物の中身は別人だと示す証拠が、まだテーブルに残っていた。
「でも…僕がいなければ」
「祐毅」
話を遮る、自らの名。温かな声音で呼ばれると、祐毅は導かれるように視線を正面に戻す。視界に捉えた表情は、声と似たように温かみのある目をしていた。
視線が合ったとわかると、崇志は隣に置いてある鞄に視線を移す。中に手を入れ、サッと取り出してきたのは、ビニール袋に包まれた何か。静かにテーブルに置くと、その正体に気づいた祐毅が、目を大きく見開いて息を呑む。
「どうして、それを……」
「墓参りに行ったんだ。皆を苦しめてしまったことへの謝罪と、祐毅を助けてほしいと頼みに。それで、香炉の扉の中にこれを見つけた。出頭する前に行ったのか?」
崇志はそれを、スッと祐毅の目の前まで押し出す。今も驚きが消えぬ祐毅は、それをそっと拾い上げ、コクっと頷いた。彼が手に持つのは、紬祈が書いた7冊目の日記だ。
「毎月、行ってはいたんです。でも出頭前に、花を手向けるのは今日が最後だという報告と、もうすぐそちらに行くから迎えに来てくれというお願いをしに行きました…」
出頭前日、理事長室を後にした祐毅は、千登里や御武との打合せの他に、墓参りにも行っていた。大事な家族へ会いに行く、毎月の恒例行事。当然、彼等を偲ぶことが目的であったが、過去に抱いた情念と自分の役目を忘れないための行いでもあった。
「なぜこれを墓に置いた?」
その問いかけに祐毅は、日記を見つめながら答える。
「僕の復讐に必要だったこの日記は、そもそも姉さんのものです。復讐は終わったので姉さんに返したかった。大叔父達が亡くなってからは、僕しかお墓に行く人はいないので、見つかることはないと思っていました」
「そう、だな……私が参加したのは葬儀だけで、家にいた時から法事や彼岸は、全部お前がやってくれていたんだよな」
小さく頷く祐毅。その様子を見た崇志の体は、自然と縮こまる。いかに己が家族に背を向けていたのか、思い起こされることが多々あり、申し訳なさが体に現れてしまった。
「紬祈の部屋にあった、他の日記も読んだ。それを含めて計7冊、書いてあるのはお前のことばかりだ。私に勉強を教えて欲しいと来た時もそうだったが、いつもお前を大切に想っていた。紬祈だけではない。小陽も、お義父さんも、毎日のように見舞って、励ましてくれただろう?皆、私とは違って、病気のお前を見捨てず、治ると信じて傍で支えてくれたじゃないか。治ってからも、元気に、そして幸せに生きてほしいと願ったから、私から遠ざけたんだろう?」
語り掛けに応じることなく、日記から視線を動かさない祐毅。開かずとも内容を憶えている彼は、浮かぬ顔をしながらも、懐かしむようにビニール袋の上から右手の親指で日記を撫でる。意識は、完全に右手だけに注がれていた。反対の手にじんわりと熱を感じ、仄かな圧迫感を覚えるまでに数秒。左手を見ると、しわ深い手に優しく握られていた。出所を辿ると、力強い眼差しがこちらを見ている。
「生きろ、祐毅!家族と共に何度も苦境を乗り越えて、やっとの思いでここまで紡いできた命だろう!死ぬことが償いだと思っているなら、間違っている。被害者の事、レシピエントの事を想うなら、生きて伝え続けるんだ。虐げられる者達の苦悩や待ち続ける者達の暗澹。健康な人間にとって、彼等はいつの日かの自分であり、彼等を救うためには相互扶助の精神が必要だということを。それに、家族の死も、お前が背負うものではない。お前が背負うべきは、家族の分の幸せなんだ!」
加減はしているものの、定員がチラリと様子を伺う程の声量で、必死に訴えかける崇志。彼は友人と愛する人の導きによって、子を想う親へと変わりつつあった。
その変化を感じ取ってはいるが、受け入れることができない祐毅。なぜこれほど変わったのか、理解できないことへの恐怖で、自ずと体を背もたれに押し付けていた。加えて、手を握られていることに対する若干の不快感。祐毅は素早く手を引き、掴まれていた手を身に寄せる。
「どうして……今までのあなたなら、僕を放っていたはずです。まるで人が変わったみたいだ……」
人間の性格や思想が別人のように一変することは、そう簡単には起こらない。友人や姉の死という悲傷な出来事によって、自身の思想が形成されたことを理解している祐毅から見れば、一体どれほど衝撃的な出来事があったのかと、不思議で堪らなかった。




