第59話
「どうして…その名前を…」
祐毅の反応は、質問に対する答えそのものだった。そうか、と呟いて瞼を閉じる崇志。一呼吸置いて瞼を開くと、まっすぐ祐毅を見つめた。
「私は今、銀座ディオサの小夜ママと一緒に暮らしている。彼女の本名は、美住小夜子と言うんだ」
「小夜ママ……あっ!」
久方振りに耳にした小夜の名で、祐毅は初めて銀座ディオサに来店した日を思い出す。なぜ小夜を見た時、自分は空けたのか、頭の中で探したものは何なのか。全ての問いに通ずる解を見つけた瞬間、祐毅は思わず息を呑む。それは”既視感”という答えだった。
「僕もおもちゃを持つから、一緒に返しに行こう」
それは、祐毅が8歳の頃。見舞いに来た雅綺と共に、玩具を返却しに向かっていた時の事。
プレイルームの入口に、一人の女性が立っていた。アイボリーのリボンタイブラウスとブラックのスキニーパンツに身を包んだその女性は、部屋の中を覗き込み、せわしなく左右に首を動かす。
「あっ、ママー!」
隣を歩いていた雅綺は、突然女性目掛けて小走りで近寄っていく。彼女が過ぎ去った後には、雪上の足跡のようにぬいぐるみや絵本が残っていた。
「雅綺!どこ行ってたの?探したのよ」
呼びかけに振り向く女性。廊下に膝をつき、両手を広げると、雅綺はその中へと飛び込んだ。同時に、手に抱えていた全ての玩具が、音を立てて廊下を跳ねる。
女性は雅綺の頭をゆっくりと撫でながら、自身の頭を彼女に摺り寄せる。愛おしそうに微笑むその表情と、女性の首にギュッと抱き着く雅綺の表情は、どこか似通っていた。
そんな二人に見向きもせず、祐毅は僅かに困った顔をしながら、雅綺の足跡を拾っていた。一つ拾っては、自身が抱える玩具の山に、積み木のように乗せ、しゃがんだ状態で一歩一歩進んでいく。数歩も進むと、向こう側から足跡を拾う白雪色の華奢な手が伸びてきた。
「ごめんなさいね、拾ってもらっちゃって。雅綺のお友達かしら?」
祐毅が顔を上げると、優しい微笑みと目が合う。彼はすぐさま挨拶をしようと、口を開いた。
「ユッキーだよ。お兄ちゃんなの!」
祐毅よりも先に紹介を始めたのは、女性の隣でにっこりと笑う雅綺。彼女の説明に、きょとんとした表情を揃える二人。女性は雅綺と祐毅を交互に見ながら、頭の上にクエスチョンマークを浮かべる。なんだその説明は、と言いたげに眉を顰めた祐毅は、開いたままの口から声を出した。
「こんにちは。ゆうき、と言います。そういう設定とあだ名でままごとをしているだけなので、気にしないでください」
「そ、そうなのね…こんにちは、雅綺の母です」
娘と歳の変わらない子供から話される簡潔な説明に、一瞬驚きを見せるも、柔らかな微笑みで挨拶を返す母親。会釈を交わし、立ち上がって山盛りの玩具を抱える二人は、手ぶらの一人と共にプレイルームへと入っていった。
「雅綺が…僕の妹…?血の繋がった…」
大きく見開いた目の中で、ゆらゆらと泳ぐ瞳。視点が定まらないその瞳を見つめながら、崇志は小さく頷いた。
「あぁ。雅綺は、私と美住小夜子の間に産まれた子で、お前とは異母兄弟だ。やはり”真島つむぎ”という女性が、雅綺なんだな?」
テーブルに肘をつき、片目を手で覆って俯く祐毅。視界の半分を占める暗闇で、幼い雅綺との記憶を呼び起こす。絵本を読んだり、ぬいぐるみで遊んだり、どの場面を取っても破顔していた。そしてその隣には、必ずと言っていいほど紬祈の笑顔が寄り添う。胸が締め付けられるほどの悲しみに目を固く閉じ、同時に湧き上がった怒りに歯を食い縛る。そうして感情を抑え込みながら、催促された質問に答えた。
「雅綺は…訳あって”真島つむぎ”という名に改名しました」
「そうだったのか……でも、良かったッ…」
声を上ずらせながら、安堵の言葉を漏らす崇志。組んだ手に爪が食い込むほど力を入れ、顔を俯けてギュッと目を瞑る。音信不通だった娘の安否がわかり、職場ではあるが所在まで突き止めることができた。その喜びが、瞼の裏から滲み出る。
抑えた感情を、さらに深呼吸で沈めてから顔を上げる祐毅。肩を震わせながら手で忙しなく顔を擦る崇志を目の当たりにすると、落ち着けた感情が一気に沸き上がる。ギギッと睨みつけ、両手で拳を作ると、重苦しい声を突き付けた。
「二人が自分の血を継いでいるから、姉さんから骨髄液を採取したんですか?」
震えていた肩が、ピタリと止まる。呼吸すら止まってしまったかのように、動かぬ崇志。硬直が解けたのは十数秒後。緩やかな速度で上がって来たその顔は、青ざめていた。
「なぜそれを…」
「やはり、雅綺に移植されたのは、姉さんの造血幹細胞だったんですね」
断定的だった先の質問とは裏腹に、やはり、という不確定的な言葉を口にする。違和感を覚えたのか、見開いていた崇志の目が細くなった。
「記憶にある限りではありますが、僕と同時期に入院していた子供達のカルテを確認しました。移植を待っていた数名が、僕の後に次々と退院していて、その中に雅綺も含まれていた。彼女は造血幹細胞移植が必要な病を患い、ドナーが見つかるのを待っていたはずです。骨髄バンクでドナーが見つかった可能性も考えましたが、秘密裏に採取された姉さんの造血幹細胞と奇跡的にHLA型が一致した、という可能性もあると思っていました」
祐毅は、どれほど調べても紬祈から移植手術を受けた患者を知る術はないと知っていた。ドナーのプライバシー保護の観点から、ドナーとレシピエントを紐づける記録は一切残されないからだ。当時手術を担当した医者達であれば知っているだろうが、彼等もまた、患者のプライバシーを守るため、情報を開示することはない。
そこで彼が調べたのは、当時入院していた子供達の病名と退院日。移植を待っていた子供の中に、自分と時を同じくして退院した子供が、どれほどいたのかを調べた。
その結果、該当した子供は数名、その中に雅綺の名もあった。結果に驚いた祐毅の頭には”姉はその体で、多くの子供達を救った”という考えが浮かんだが、馬鹿げた考えだとすぐに否定した。臓器によって適合条件は様々だが、特に雅綺は適合すること自体が奇跡と言える確率。加えて、移植がなされた確たる証拠も存在しない。退院時期が近かったのはただの偶然だと、推論を止めようとした。だが、偶然同じタイミングでドナーが見つかったと考えられるのであれば、その逆も然りでは、と考え付く。皆の病気を治したいという強い想いを持ち、死の間際に己が身で多くを救おうと決意した紬祈の行動が、皆に齎した奇跡なのではないかと。この時点では、彼の願いが色濃く出た推論であった。
「部分的に一致する小夜子のHLA型では駄目だった…私も、骨髄バンクに登録したが、いくら待っても連絡は来ず…紬祈が脳死判定されるより前に採取し、表向きには院内で移植を待つ患者全てのHLA型と一致するかを調べた。私も、まさか一致するなんて思っていなかったさ…」
「ずっとおかしいとは思っていたんです。何人もの子供の命を救う大手術だったにも係わらず、世間には一切公表されていない。対外的な名誉を得られるチャンスだったのに、なぜ院内で秘匿したのかと不思議でした。自殺の核心に触れさせないためかと思いましたが、隠し子の存在に気づかせないためですね?」
無言で頷き、そのまま項垂れてしまった崇志。
脳死後に提供できる臓器は、心臓・肺・肝臓・腎臓・膵臓・小腸・眼球と定められている。この他にも、皮膚や血管などの組織を提供することも可能で、その場合はマイナンバーカードや運転免許証などにある、臓器提供に関する意思表示欄の特記欄に”全て”や提供したい組織名を記載することで、提供することができる。だが、特記欄に”全て”と記載されているからと言って、あらゆる組織が提供可能というわけではない。
祐毅が雅綺に掛けた”姉は僕達の中で生き続けている”という言葉。雅綺の中に紬祈の造血幹細胞が流れていると言う意味で示された言葉だが、あの時点では無根の話であった。紬祈によって紡がれた命だと言葉を掛けることが、雅綺にとって生きる希望になるのではないかと考えてついた、優しい嘘。祐毅の推論も、あの嘘も、最終的には崇志の発言によって、事実だったと裏付けが取れたことになる。
祐毅はぼんやりと、幼き頃の二人を思い出す。プレイルームの壁際で、ピッタリとくっついて座り、ケラケラと笑い声を上げながら一緒に絵本を読む紬祈と雅綺を。例えば紬祈が自殺を思い留まったとして、もしも雅綺に別なドナーが見つかったとしたら、病院という場所を離れても二人の親交はずっと続いていたかもしれない。そんな彼女達に、母親は違えど二人は姉妹だと話せば、どんなに喜んだことだろうか。そんな想像をした祐毅は、奥歯をグッと噛み締めた。
「僕から採取すればよかったでしょ。あの頃の僕はあなたにとって、そういう使い道しかなかったはずです……そうすれば…二人は今も笑顔で…」
力の入っていた声は次第に掠れ、言葉は止める。声だけではなく、首も力を失い、ゆっくりと頭は下がっていった。祐毅の顔が下がり切った頃、反比例するように崇志は勢いよく顔を上げた。祐毅がどんな表情をしていたのか捉えられなかった崇志は、彼の姿勢と直前の話し振りから感情を想像して、悲痛に顔を歪める。
「それはわからないだろう?兄弟間でも完全一致する確率は25%で、母親が違うのなら確率はさらに低い。二人の型が一致したのは、奇跡と言うほかないんだ。それに、あの頃の私は……」
ここで崇志も言葉に詰まる。祐毅が求める言葉は、自身の本音か紛い物の慰めか、決断できずに口を噤んだ。テーブルに目線を落とすと、ありもしない言葉を探すように、瞳を泳がせる。二人の間には、どんよりとした空気が流れた。
暫く経つと、一人が静かに前を向く。相手に掛ける言葉を見つけた彼は、そんな空気を切り裂くような一言を投じた。
「あなたは雅綺の父親であって、やはり僕達の父親ではなかった」
「ちがっ!……っ!」
反射的に漏れた否定の勢いに乗せ、顔を上げた崇志。しかし、視界に捉えた祐毅の表情に、言葉を失う。彼の表情には、何一つとして感情が宿っていなかった。座った目、横一文字の唇。寸刻前まで言葉や態度で表されていた怒りや悲しみは、崇志の言葉を待つことなく、言葉と共に吐き捨てられた。空気を切り裂く以上に、二人の間に更なる一線を引いたその言葉。言葉でも態度でも突き放された崇志は、正面を見ていることができなくなった。




