夫の基準が謎です
ある日の朝のこと。いつものように三人で朝食をとっていたが、夫のエリウスは鎧下──金属製の防具などの下に着るものである──を着ていたのに対し、兄のアレックスは平服のままだった。それもそのはずで、その日はアレックスは休養日だったのだ。
朝食を終えた後はエリウスを見送る。いってらっしゃいませ、と言えばいってくる、と返される。そして邸宅の正門から見えなくなるまで後ろ姿に軽くてを振り続ける。これがいつもの日常だったのだが。
「いってらっしゃいませ、エリウス」
「いってくる……ああ、そうだ」
一度正門を踏み出したのだが、エリウスはすぐさまに踵を返して邸宅の敷地内──私のもとへと戻ってきた。何か忘れものをしたのか、はたまた伝え忘れたことでもあったのか。そう考えているうちにエリウスは私の手を恭しくとり。
「……では」
あのエリウスが、淑女の手の甲に、いってきますのキスをした。
余程恥ずかしかったのだろう、しでかした本人は瞬時に顔を赤くして走って逃げた。「はいやー!」と馬の腹を蹴るかけ声があまりにも遠いところから聞こえる。夫の逃げ足は異様に早かった。
恥ずかしさで逃げ出した夫と、ポツンと一人取り残された妻を見てククク、と笑う声。少し離れたところでアレックスが肩を震わせている。
「……兄上、エリウスに変なことを吹き込んだでしょう?」
「さあ? 相談されたから話をしただけだが」
「エリウスで遊ぶのはおやめください。私の夫に何かありましたら許しませんわよ」
「大事な大事な義弟に危害は加えないさ」
どうなのでしょう、とそっぽを向いて庭の畑へと向かう。休みということもあり、アレックスが手伝ってくれるようだった。
畑には、いつぞやラミアと一緒に植えた香辛料の苗がある。すくすくと育ってくれており、もうそろそろ収穫してもいいだろう。日当たりを調整し、考えて葉を丁寧に摘んでいかなければならない。兄と共にしゃがみこみ、葉を一枚一枚、慎重に摘んでいく。
触れただけでその香り高さがわかるものから、本当に料理に使えるのかと疑わしきものまで、実に種類は様々であった。専門的なことはわからないがラナに渡してさえしまえば、優秀な料理人のことだ、きっといいようにしてくれるに違いない。お互い口に出さずとも、私たち兄妹は半ば無責任な信頼をラナに寄せているのはもう分かりきっていた。
収穫するものは収穫して、取り除くものは取り除く。時折間違えて雑草を香辛料の葉の山に積み上げてしまったが、その度に大慌てで本来あるべきところへと戻す。その逆も然り。
作業を続けていると無心になれると言うが、無心だからこそふとした拍子に思いがけないことが頭に浮かんでくるものだ。何もなかった綺麗な泉に突如湧き出た小さな泡のような疑問を、素直にアレックスにぶつけてみた。
「兄上」
「どうした、マグ」
「……どうして、エリウスは私のことを『マグノリア殿』と呼ぶのでしょう。まるで私が男みたいではありませんか」
「……男だと思われてるのではないのか?」
「まあ!」
兄は妹の疑問を適当に流して雑草を抜き続ける。根が深いものはきちんと全て引き抜いておかねば、ほんの少し目を離した隙に再び生い茂ってしまう。香辛料の根を傷つけないようにと慎重に土を掘り返しているが、そのような優しさを持っているのなら私にもそれを向けてほしいものだ。
「堅苦しい呼称を好むのであれば私のことはせめて『嬢』と呼ぶべきでしょう」
「自分の妻をなんとか嬢と呼ぶ夫がいるだろうか」
「自分の妻をなんとか殿と呼ぶ夫もいないでしょう」
「いるだろう。現にお前の夫がそうだ」
平行線だ。埒が明かない。
アレックスは何故エリウスが「マグノリア殿」と呼んでいるのかを知らないし、そもそも気にしたことがないのだろう。私は最初から気になっていたが、呼ばれていくうちに何だか慣れてしまい、今ではこうして「ふと」思わない限りは疑問として浮上することさえもなかったのだ。
アレックスの手が止まり、過去の出来事を思い浮かべるように空を見上げる。ふわふわとした雲の浮かぶ、晴れやかな空だ。
「……多分、多分だが、アレなりに最大限の敬意を表した結果なのかもしれないな」
「最大限の、敬意」
「エリウスの中には階級があるみたいで、それの上位に位置する人間には『殿』をつけているように思える……要するに、すごい人だとか、尊敬すべきだと思った相手をなんとか殿と呼んでいる、のかもしれない」
その理論でいくと、私はエリウスにとって尊敬すべき人、なのだろうか。確かに以前、エリウスの奇行を盗み見してしまった時に彼が私──に見立てた怪魚に対して「貴族の中の貴族」だとか「貴族の鏡」だと言っていたが、その評価が今の呼称に繋がっているのだろうか。そう考えると、悪い気はしない。悪い気はしないが……。
「……やっぱり、私が男みたいですわ」
あくまで私が持つ印象だが、なんとか殿と呼ばれている人はすなわち男性だと思ってしまいがちである。もしも私を知らない人が「マグノリア殿」という呼び方を聞けばどう思うのだろう。女のような名前の男なのかと勘違いをされるのではないのだろうか。
腹いせににょきっと存在を主張する雑草をむんずと握りしめる。力強く上に引っこ抜けば、たくさんの根に大量の土まで釣れた。
「本来、貴族の子女は家の中で大人しく裁縫などに勤しんでいると聞く。そういった意味では、マグは女性らしくないのかもしれないな」
兄の言いたいことは十二分に理解していた。普通の貴族子女は裁縫などの手仕事を好むが、私はそういった細かな指さばきを必要とするものが不得意であった。そんなことよりも書類と睨み合いをしている方が楽しいし、むしろそちらの方が得意なのである。が、それはそれ、これはこれ。
言われたくないことを平然と言ってのけた兄に、大量の土を纏った雑草を思いっきりぶん投げてやった。
次回は7月1日20時更新予定となります。




