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騒動の前の騒動



 ある日の夕方。いつも通りにメイドの淹れた茶を飲み、仕事をこなし、そして執務作業を切り上げて兄と夫の帰りを出迎える。いつもと変わらない日常の風景に、今日は少しだけ変化があった。


「……兄上、それは?」

「これか? 折った」

「何をして、でしょう?」

「ギィリの大群が迫ってきて、その時に」


 その直後、脳内を手足の生えた得体の知れぬ怪魚がわちゃわちゃと走り回る。危うく失神するところだった。

 ぐるぐると固定された右腕をなんてことなさそうに掲げるアレックスを「治りが遅くなりますよ」とエリウスが注意する。神妙そうな顔つきのエリウスとは対照的に、アレックスは何だか楽しそうだ。


「はは、いや、何。我が義弟殿はあの魚をいたく気に入ったみたいでな。何とかして生け捕りできないかと、襲われてるのにも関わらず策を巡らせてたのだ」


 考えるのに夢中で危ない目に遭いかけたエリウスを庇って、こうなった。そう、怪我人とは思えない顔でアレックスが朗らかに笑えば、エリウスはますます申し訳なさそうに縮こまる。


 夕食の席でも、アレックスによる本日の討伐語り──という名のエリウスいじめは続いた。

 確かに己は軽いとは言い切れない怪我を負ったが、ここ最近何かと自分の上に立つエリウスに貸しができたのが余程嬉しかったのだろう。ニコニコと、それはそれは気味の悪い笑顔で話し続けるのが、本当にいやらしい。利き腕ではない左腕でぎこちなくスプーンを握っているが、所作の不格好さなど気にもとめずに、アレックスは話し続けた。

 そしていじめられている義弟は、すっかり落ち込んだ様子でもそもそと食事をとっている。本来なら庇ってやるべきなのだろうが、あまり見たことのない表情が物珍しいのと、何より面白いのでそのまま放置していた。結局、私も兄と同類である。


「……で、小さいギィリ──多分子供だな。それの捕獲には成功したのだが、如何せん急なことでギィリを入れるための水場なんてのも用意してなくて。それで簡易的な桶を用意するまでの間、エリウスがずっと抱えてたんだ」

「えっ……あの、気色悪い魚を……?」

「気色悪くはないだろう……愛らしい見た目だと思うのに……」

「コルクッヤみたいに家畜化実験はできなくてもいいから、せめて飼いたいとも言い出してな。腕の中で蠢く魚を慈母の如く撫でていた」


 思わずエリウスから距離を取る。椅子をガタガタと音を立てて動かせば後ろから「不作法ですよ」とラナのお叱りが飛んでくるが、ラナに怒られることよりもあのギィリに触れた人間と近くにいることの方が圧倒的に嫌だった。

 しかもこの男、あの魚を「愛らしい」と表現した。そして「飼いたい」とも言ってのけた。美的感覚が狂っているとしか思えない。エリウスの最大の罪は、この美的感覚のズレなのではないか。私が国王だったら、危険な思考を持っていることよりも嗜好の異常さで王都追放どころか即刻死刑にしていただろう。


 アレックスが、こっそりと耳打ちをするような仕草で、私に伝えた。


「……エリウス、そのギィリに『マグ』と名づけていた」


 思わず、もそもそと食事を続ける夫を見やる。彼はアレックスの怪我に対しては申し訳なさを感じていたが、私に対してはどうやら何も感じていないようだった。それどころか、この話の流れで何故見られているのかがわからないとでも言いたげな顔をしている。


「……私の、名前……ですわね?」

「? ああ……似ていたから、つい」

「どこが」

「……愛らしいところが」


 そこまで言って、ようやくエリウスの表情は変わる。赤く、恥じらう姿はまるで人形に初恋の人の名をつけた子供のよう。

 だが、私からしてみれば汚物の上を飛び回る蝿に己の名前をつけられたようなものだ。人の認識の差異とは、時にいさかいを産むものである。


「……信じられないわ……私のどこが……」

「え、えっと……まず、可愛いだろう……目が」

「目」

「あのくりっとした感じ……そして大きな瞳がそっくりだと思う」

「くりっとした、大きな瞳」


 ギィリは巨大な魚に手足が生えた、気持ち悪い魔物である。だが、気味が悪いのは何もそのシルエットだけではない。ギョロリと飛び出した大きな目玉。それが、焦点を合わせる気もないのか、ぐりぐりとあちこちを向く。まさか、それと私が同じだと言うのか。

 その上、ギィリの口はかなり大きく開く。縦にも、横にも。エラまで届きそうなまでに口が裂けているのだ。口を開ければギッシリと細かな歯が生えているのが見えるし、しかもそれが何層も連なっている。要するに、本当に気色悪いのだ。


「私が化け物のようだと言いたいので?」

「なっ!? 違う! ギィリみたいに愛らしいと……」

「化け物だと言ってるのと同じじゃない!」


 ムキーッ! と私が叫んだところでようやくアレックスが「喧嘩をするな」と止めに入ったが、兄の静止は形だけだった。完全に、この状況を面白がっている。

 この中で冷静なのは、ラナただ一人だった。


「……エリウス様。魔物と似ていると言われて喜ぶ方はおりません」

「そう、なのか?」

「少なくともマグノリア様は」

「……そうか……申し訳ないことを……マグノリア殿……」


 ラナに諭されて、ようやくエリウスは失言したのだと理解したようだった。申し訳なさそうにペコリと頭を下げるのを見て「わかれば良いのです」と顔を背けた。


「あと、捕獲したギィリを私の名で呼ぶのもおやめくだされば」

「マグノリア殿のごとく愛らしいのだが……」

「喜んでいいのかどうかわからない言葉はもう要りませんわよ!」


 前言撤回。まだこの男は本質を理解していない。怒ってますよとアピールするために頬を膨らませたが、果たしてエリウスに伝わるかどうか。

 アレックスは意地の悪い笑顔を浮かべたままだし、エリウスは相変わらず訳がわからないとでも言いたげな顔をしている。前者もタチが悪いが、後者もそれに負けないぐらいのタチの悪さだ。


 ──本当に、ウチの男どもは……!


「怒りましたわ! 私、今晩はあなたと一緒に眠りたくありません! あの大きなベッドにお一人で寝てください!」

「えっ!? マグノリア殿!?」


 ご馳走様でした! と一人席を立つ。もちろん、皿の中は全て綺麗に平らげてある。いくら頭にきていたとしても自分のための食事を粗末にするようなことはしない。

 まだ笑ってる実兄と、焦る夫。可愛い妹が怒る姿など見慣れたものなのだろう。アレックスに何も変化がないのは悔しいが、エリウスの慌てた顔が見れただけでもよしとしよう。

 食堂を出て、ふんふふんと鼻歌を歌い出しそうな勢いで廊下を歩く。一人寝をしろとは言ったが、本当に一人寝をさせる気はなかった。一人寂しく寝床に入ったところに私が顔を出して、みっちりと、二度とあんなことが言えないように「教育」を施すつもりだった。


 ふと、風が吹いた気がした。


 振り向けば、窓が一箇所だけ空いており、そこのカーテンが揺らめいている。

 湿った、だが心地良い風が入り込んでくる。土や草、水のにおいと、それから……仄かに、血の臭い。


 覚えているのは、そこまでだった。



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